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百首歌の中に、忍恋を
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
式子内親王
新古今和歌集恋一、1034
【口語訳】
命よ、私よ、いっそ絶えてしまえ。
この恋心を
隠し通さなければならないのに、
これ以上生きていては
募る恋心にこの決意が鈍って
世間に
洩れ伝わってしまうだろうから。
我が名のためにも、
あの人の名誉を思っても、
そんな事は何としてでも
避けたいのだから……。
(訳:梶間和歌)
【本歌、参考歌、本説、語釈】
恋ふること益れる今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ
作者未詳 万葉集巻十二、3083
恋しとはいはじと思ふに昨日今日心よわくもなりぬべきかな
古今和歌六帖第四
絶えはてば絶えはてぬべし玉の緒に君ならんとは思ひかけきや
和泉式部 和泉式部集上560
玉の緒:命。
もともと玉の緒は
美しい宝玉を貫く紐の意。
玉に魂を掛け、
魂を肉体につなぎ止める緒
の意から「命」の意が生まれた。
「絶ゆ」「ながらふ」「弱る」は
「緒」の縁語。
絶えなば絶えね:
絶えるならば絶えてしまえ。
「ね」は「ぬ」の命令形で、
「……してしまえ」などの
強い命令を表す。
ながらへば:
生きながらえたならば。
未然形に接続する「ば」は
順接の仮定条件を表す。
忍ぶること:想いを秘密にすること
弱りもぞする:「弱りもす」を
「ぞ+連体形」の係り結びで
強めた形。
初学のころにしばしば拝読していた
玉水さんのブログ。
もう何年も更新されていないのが
残念ですが……、
どうしていらっしゃるのかしら。
和歌には「お決まり」があり、それに則り和歌を詠む。道から外れることは許されない。
「人を恋う」ことが許されるのは男性だけである。女の側から恋してよい唯一の場合は、貴人への恋だと後藤祥子氏は「平安文学論集」(風間書房・平成四・十)の中で指摘している。
式子内親王の有名な和歌「玉の緒よ…」は男性の立場で詠まれた。なぜならこの歌は「忍恋」という題で詠まれ、「人を恋う」ているものだからである。
田渕句美子氏も「近年、「忍恋」という題は基本的に男性の立場に立つもの」と述べる(「新古今集 後鳥羽院と定家の時代」角川学芸出版・平成二十二・十二)。
2013年の記事の再掲なので、
この記事のコメントに玉水さんも
書き込んでくださっています。
懐かしいな。
奥野陽子氏によると……。
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逢えないならば
死んだほうがましなくらい苦しい
という歌や
「逢ふに命をかふ」、
我が身はどうなっても構わないから
逢いたいと願う発想の歌は
いくらでもある。
が、
「忍ぶることに命をかふ」という歌はなかった。死にたいと思っているわけではないが、その忍ぶ意志はゆらぎようもないくらい強く、たとえ死ぬことになってもこの恋を忍ぼうと思っているという表現である。
逢う前に命がけで忍ぶ決心をしている式子の歌の詠歌主体と、思いを遂げた後に、「事態が悪化しないうちに死んでしまいたい」という柏木とは、その心境を同列に扱うことはできないのではないか。
思いを遂げた後だからこそ後悔は出来るのであり、逢う前に死を思うほどでなかったからこそ、思いを遂げたのであろう。
式子が想像した、強く忍ぶ死を明確に表明する「玉の緒よ」歌の詠歌主体は、物語中の柏木像を通過しつつも、それを超えた別の仮構された人物になっている。
注意しておきたいのは、(略)柏木のような状況も深く理解し、その身になった上で、そこから、新しい「忍恋」の形を生み出す、「古典を生きている」とでもいうべき主体性がそこにあることである。
と。(下線は梶間によります)
式子内親王の「忍恋」の歌は
『源氏物語』柏木のような立場を
作中主体として想定している、
という説におおむね同意しながらも
どこか奥歯にものの挟まったような
何かを感じていた私。
そんな私の違和感に
ぴたりと応えてくれる文章でした。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
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