去年の紅白歌合戦について、視聴率云々で、失敗だった、といった感じで、今、各所で論じられている。

 まあ、昭和の頃の紅白は、正にモンスター歌番組であり、たしか80%を超えた時もある位だから、現在のテレビの視聴率は、穏やかにスローランディングしていったという所か。

 この番組は、現在では、若い人を中心に、余り見ない傾向性がある、という。それは、家族の形態の変化、娯楽の多様化、等々に起因すると、私も伺ってはいる。

 しかし、私は、去年の紅白歌合戦は、合格点に達していたのではないのか、否、達成していた、と断ずるものである。

 何といっても、各世代間に、偏りなく、その、演歌にしろ、Jポップ、ニューミュージック、歌謡曲、その他、が、非常にバランスよく散りばめられ、私は安心して見つめる事が出来た。

 今の若い人は、ネットだゲームだ何だと、テレビとは無縁とまではいわないが、テレビと疎遠になってしまっている方々が多いのか。何か、選挙に行かない人々も、何故か、若者に多いという、投票行動とも相まって、相似性、相似通って(あいにかよって)いる気がするのは私だけだろうか。

 要するに、国民皆参加、という、集団行動が、元々苦手なのが、今の若者といえまいか。男女関係なく。

 私達、少なくとも、私は五十台前半だが、もっと私が若い頃は、世の中へのデビューが待ち遠しく、それらに参画参加する事に名誉感、かなりの意気込みが、特に選挙に行くや紅白を見る、という事において、自分なりのこだわり、好みがあったと言える。

 それでも、「しらけ世代」と言われた我らの年上の先輩方の例にもれず、その頃にも、やはり、今の若者のような、言って悪いかもしれないが、世の中を斜めに、ハスに見る人はいるには居た。しかし、そんな人たちも、やがて自分の非に気づき、段々と自分が追い込まれてゆく感じがして、やっと自身を見つめ直す機運が何とか訪れる、といった風なのが、我々の世代の特徴であり、まだ、選挙の投票率でも、わが国では、お年寄りの投票率がダントツで多いのは周知の事実であり、その結果、お年寄り中心・ファーストの政治となる。

 それで余計に、若者たちはしらけてしまい、成す術をなくす、という悪循環。

 この連鎖、スパイラルを脱するには、もっと、自分たちの団結というか、一人でもいいから、何らかのSOSを出したり、自分から変わらないと、周りは変わらない、と腹を決めるべきである。自分が変われば、世間に一石を投ずる事になる。

 余り結果を追い求めるべきではない。自分で出来得る、最小でも非力ではない、努力をコツコツと続けてゆく。継続性を持って。

 今の時代の大人たちも、余り、若者に対して、今の若者は、などと、見知った事を言ってはならないとも思う。それら努力の跡が見られたならば、大きな度量で認めてやる。それ位して、年上は当然だろう。

 とにかく、自信を付けさせる。この世を生きやすく、より良い環境を考えて与えて上げるのは、大人の領域の問題である。智慧が大事となる。

 それで、私は、信ずるものが大切と考える、例えば、私は日蓮正宗という、現代にも立派に生き残る、七、八百年を優に超す歴史と伝統と風格を持つ、宗教宗派に属している。その、根本となるのは、御本尊様、法華経の御本尊様、特に、静岡県富士宮市にある、総本山富士大石寺の奉安堂にある、「弘安二年十月十二日の三大秘法の戒壇の大御本尊様」、この御本尊様は、末法の御本仏・宗祖日蓮大聖人様がお顕しになられた、立派な御本尊様であり、誰も、どこの宗派も、この教えにはかなうものなど一切ない。皆全敗の、宗教論争をすればその相手の宗教の教義の欠陥、お粗末さがより一層際立つのである。

 とにかく、拝まなければ全く分からない。その功徳たるや、無尽蔵にあふれている、大功徳、御仏智が頂ける。

 この御本尊、大御本尊を拝まない者は、一切が謗法となる。「謗法(ほうぼう)」とは、「誹謗正法」の略で、法をそしる事、つまりは、一番の罪は、御本尊様に敵対している状態、一番やってはいけないのが、謗法という事となる。

 良く例えにも出されるが、誰も電子レンジの仕組みなど分からなくとも、その勧めてくれた電気店の店員の説明を聞いて、初めて、この電子レンジを買い求める。誰も、この機械、電子理論やら物理学を習ってからじゃないと、その原理や学問を修めなければそれを買わない、などという人がいれば、それはおかしい、という事になる、間違いなく。

 この場合、その売る店員さん、その店の権威、とか、評判、口コミ等々を信じて、その商品を買う事となる。これは一種の賭けだろう。 

 我々は電子レンジを売っているのではない。実際の、人生の役に立ち得る、人生上の有益なる、宗教というものを人々に勧めている。その宗教が、非常に選ぶ時が、一番の大切で有意義な時間となる。

 その宗教が、文献上も正しいのか(文証)、理屈・道理にかなっているのか(理証)、現実の上での証拠、本当にその宗教をやってみて、幸せになれるのか、物心両面にわたる功徳、むしろ、永遠の幸福が約束され得るのか(現証)この三つが「三証」といって、最大限に我が日蓮正宗では重視されている。

 そして、その三つの証し、三証全てがかない、実証された宗教が、「日蓮正宗」に他ならない。

 それを知り得るのは、皆さんがこの宗教に入って実感なさるのが一番の近道であります。まあ、やるかやらないかは、全て、現憲法が保障する、「信教の自由」に収まっておりますので、何を信じても自由なんですが、一応、我々日蓮正宗信徒にとり、他の一切の宗教は「邪師による、邪義を構えた邪宗邪教」であります。これは、教えが間違って居る所から来るもので、どの、どんな宗教宗派にしても、幾分かの誤り過ちがあります。これは、日蓮正宗の、宗祖日蓮大聖人様の「五重の相対」に照らし合わせると、一切の迷妄が晴れ渡る如くに、目が覚めて、その過ちが分かり、判ぜられ得るのであります。

 ここでは、その解説は、紙数が尽きた関係で省かせて頂きますが、その続きは、インターネット上の、日蓮正宗系列のページの「五重の相対」と調べれば出てくるかも知れません。私がそれを持ち出したのですから、その説明が必要ですが、今申した通り、文章も長くなってしまいます。

 特筆して申し上げれば、五重相対の内、

 「内外相対」とは、内道(仏教)と外道(仏教以外の宗教)の違い。内道を優とする。

 「大小相対」では、大乗教と小乗教の違い。大乗教を第一の優とする。

 「権実相対」権教、今までの爾前権教、既成の、仮の仏法の教えと、実教イコール真実の教え。実教、即ち法華経の仏法の教えを最大一、優とする。

 「本迹相対」法華経二十八品の中の、前半十四品を迹門、後半十四品を本門として、本門が勝るとする。

 「種脱相対」とは、法華経本門にも、文上脱益、文底下種の二つの法門がある。その文の底に沈められ秘められた一重深い法を明かす。仏法は種・熟・脱、の三義があり、三益(さんやく)と呼ばれる。末法万年の時代の仏法は、全ての仏法の本源である、下種仏法、下種の南無妙法蓮華経こそが筋道の上から、一切の教法の本源にあたる法であり、又、下種の教主日蓮大聖人こそ本源の仏であることを明かして、大聖人の仏法の真実最高なるを判決するのが種脱相対の深義である。

<参考図書>

法華講員の教学基礎辞典・暁鐘編集室

 

 これで大体は説明出来たと思います。皆様の心からの信心の深化、発心を願うものです。

 

以上。よしなに。wainai