※PS、編集後記、文章の付け足し、自身の反省・自戒の念をも込めて

 

 本当に、私も、ある、お寺の人だか、別の福祉業に携わる方に御忠告されたが、私が、いつも、福祉の人が来ると、音楽が掛かっている。それが、問題の元であり、音楽の趣味が、私とは違う方々も、沢山、それこそ、一万人いれば、一万人なりの、趣味嗜好が、志向が、違う人、方がいるのが当たり前なのが、この世の真相、実相、実態なのであるから、それを非常に注意忠告なされて、音楽というものも、それら、他人(正にそうである。私は、今は施設に居る母親が我が家にいた頃と同様な気分で、音楽を掛けていた)への、趣味嗜好も、十分考慮に入れないと、充分な注意を改めてしないと、そういったトラブルに巻き込まれかねない、と、今回の事で、重々、警戒なされて言われた。

 私は自分なりに、思った。

 カラオケ等の歌が、人の前で歌う事が好きな人と、嫌いな人がいるように!

 

 同じように、カラオケ等々、自分で歌うなど、以ての外。聴くのも聴かされるのも嫌だ、迷惑だ、という方々も確実に居られる。

 

 その音楽を聴く時間帯、その場のシチュエーション。時・場所・場合、等々。その場の雰囲気。その音楽を掛けて、歌っても良い、環境下にあるのか。果たして。という、自己反省も、大いにある。これらが、今の自分には、全く欠けていたのではないのか。

 音楽にも、好き嫌いが、ハッキリと、別れるから、自分が大好きで、人に勧めたくても、人の好みは、千差万別、相当違い、音楽においては、格差、というか、差別・序列が厳然としてあり、それを押し付ける事など、誰人にも、勿論私にも、絶対に出来ない、出来得る筈が無いのだ!それは、非常に失礼不躾、極まりない。

 音楽をこちら側から強制するならば、それは、拷問にも近い、等しいものともなり得る、事も有り得ると!

 音がしない、無音が好き。音楽や、映像の音、とにかく、音が鳴るものが大嫌いな人も、事実、実際上、存在する。

 

 私も、自身が集中力を必要とする時、実際に、音楽やラジオテレビ類は、必ず止める。自身が最も大切にする、お祈りのお勤め、日蓮正宗の朝夕の勤行の大事の時などは、最大限、非常に音に気を使い、一切、実際に祈っている最中には、自分の読経唱題の声のみ、それに徹する。それら、音の出る機械類、趣味、楽しみ事等は、絶対に必ず止めて、停止させる事を常とする。それが祈る者にとり、非常に当たり前な話、当然の帰結、大前提であろう。


 実際、私が今も籍を置く、作業所では、音楽ラジオ厳禁、となっているし、今どき、音を立てて良い作業所など、皆無だろうと職員さんは言う。音は、仕事の邪魔なのだ。

 私が非常識にも、音を立てて、そのヘルパーに刺激を与えたのが、全ての諸悪の根源、原因なのだろう。おそらく、ここにおいては。


 けれども、私の言い分も言わせてもらえば、そのヘルパーも、一言、余計で、大袈裟、お節介だった。余計な、外野の意見を聞かされた、こちらの気持ち、意見も、聞いてくれ。こちらが嫌だと思い、その時間を無理矢理過ごさせられた、あのイヤな気分を同じく味わえ、味わってみろってえの、その主任も、そこの、ヘルパー一同全員、皆も。その時間は、こちらは、地獄を味わったのだから。本当に。大概にしろって。


 結局、自分にとっては、月曜、木曜、土曜日と、これら、諸ヘルパー事業に関わった、それら、ヘルパーの人らに、私の重要な時間を、何時間も割かれて、不自由をしていた時間から解き放たれて、今は自由時間を味わえる、そういった、自由な身分へと、福祉の、まるで奴隷だったかのような、それこそ、心底から、福祉に骨抜きにされた、でくの坊のような自分から、覚醒、生まれ変わった程の、人生に革命がおこったが如くの、生活上の変化、良い兆しが生まれて、これが立ち上がり、出来上がったのであるから、こうした、文句を言っても、しょうがない。むしろ喜び、感謝を捧げるべきだ。

 

 原因結果の追求も、もう終わった事であるので、これ以上、もう、拘らない。この他の福祉事業所、M光産業、も、同じような、ボタンのかけ違いに因る、双方の、言い分もあるのだろうが、私の言い分も是非聞いて欲しかった所だが、言っても聞かない事業所に、何言っても今の段階では無理であるからして、これにて、このどうしようもない、話の顛末は、これにて打ち止め、終結する事とする。


 

 まあ、バカらしい、阿保らしい、事業の利用者・クライアントとしては、何一つメリットなど一切なく、最悪の被害の結果をもたらし、生み出した、その福祉業者たちの、ケツのまくられ方の、こちらが一切のバカを見た、生活支援事業所の所業であった。

 

 全ては、後の祭り、である、後の祭り、であった。惜別の情は、この際、全く要らない。最初だけ騒いで、関係を作るよう持ち掛け、保ち、その後は、一切が、掛けたはしごを外される如きの、無情な程、無関係となった。福祉など、無責任さでは、一切、皆、同じ様なもの、なのであろう。一切、貴方とは、関係など、無いのですよ。として、最後通牒を突き付けられる関係性。最初だけ、大袈裟に、契約等々を結んで、次第に増長し、慢心して、最後は、打ち捨て投げ捨てられる特殊な関係性。

 

 情などは、通うようで、一切、通ってなんかはいなかった。その関係性に、一抹の不安感をその間、いだいた。一縷の望みをいだき、その非常に細い、今にも切れそうだった繋がりに、私は自身の未来を、私の現在の生活を唯、一心に委ね託していた。愚かにも。

 

 今は唯、寂しい。本当に、心配してくれていたのは、私、利用者・クライアントとの、関係性があった時のみだったんだ、とのみ思う。それら福祉産業の非情性を思う。現在の、偽らざる、自分自身ではある。あの最初に取り交わした、契約上の、冷たい、冷徹な、非情ともとれる、紙一枚で、物事は動いてしまっていたんだという、その実際の事実上の、如何ともしがたい、現実感。

 

 親子の関係性、家族の関係性、それらを模倣した、その日のその時間を以てして、アットホームに、家族的に振舞うが、時間時限が来れば、あっさりと、今までの言辞がウソのように、我が家から皆、判で押したように、これで御仕舞にして帰り、突然、当たり前の如くに、去り果ててしまう。

 

 一般的に、その時の、置いて行かれた時の、置いて行かれた者だけが何度も味わう、寂寥感。ただ、寂しい。そういった、寂しいという、感覚のみが毎回、私の胸中には残る。自分一人だけの、一人しかいないんだとする、孤独感。孤立感。誰も、私の味方はいないのか、との、永遠に続くかの如くの、限りの無い程の、自己批判、自問自答。自責の念慮。全ては、自己自身の、孤独感・孤立感に、端を発する。

 

 これを聞いて、これを思うに、これは、買い物・料理を作ってゆく事だけはしてゆく、疑似家族、模倣家族に外ならず、実際には、当たり前だが、家族でも、自身の眷属でも何でもない。唯の、赤の他人を、我が家の家の敷居を跨がせ、平気で入れて、私は今まで、家族同様にして、平然として、当たり前に奉っていた。

 

 道理から考えても、そんな事、自明の理である筈なのに。契約上の、関係性、どんなに相手に、ほめそやされ、アットホームに思わせぶりに、触れ回られ、フレンドリーに、そんな振りをされたとしても。

 

 正直な所、実際上は、そういう事、世の中、皆、他人の人々だ。そういう事は、一人っ子の私には、疎すぎる程、世の中というものを、知らなさ過ぎた。お人好しを、地で行っていた。余りに無知だった私…。

 

 悔しかったら、自分で家族をこさえてみろ、という話。自分の家族を作ってみろ。それだけの、事が出来てから、ものを申せ、という話。決して、あの人らは、自分の家族が他にも、自分の家庭というものがあり、その家族を守る為、稼ぐ為に、私というクライアントを、利用し、踏み台にして、お金をもらっていた。ギブアンドテイクが、そこには、成り立っていた。

 

 全ては、あの契約書の言われる通りの、通り一遍の関係性だったと、ハッキリと、分かった。気付くのが遅かったけれども。世法は、仏法の一分であると。ハッキリと自分で、確証した。


 

 まあ、この、福祉産業・業界の仕組み、成り立ちも、私は直接は知らないが、ただ、我が家に来ていたそれら、福祉の会社組織の成員の話などから聞いてみても、余り、将来性のない、成り手の乏しい、事実、ブラック企業のようでもあり、誰一人、新入社員としても、入社就職はしたくはない程の、入社したい人など全くいない。

 

 初めからガン無視、新規採用をしていても、若い人からは魅力ある職場とは最初から看做されない。その噂を聞きつけて、その場の、その会社の、超高齢の、ベテランばかりがのさばり、誰も来ずに、誰も成り手のない、入りたくもない、入ったら地獄が待っている。そんな感覚を受ける。

 

 入ったら非常に酷使される、就業規則、体系の、とにかくこんな会社には入りたくはないという万人の暗黙の了解。若手が誰も入っては来ない。事実はそれらが全てを物語る。暗黒の、それが福祉産業業界の闇の実態だな。とこれは、私の様な利用者側からも、確実に言える。これはひとえに感ずる、事実・実際上・実感である。

 

 毎週、毎回来ていたヘルパーさん達の愚痴等が、ここには、若い人達は、絶対、嫌って、一切、新入社員がいない、来ない。募集してても、来る人など皆無、それ程のブラック。成り手が何と言っても、初めから居ない。との、もの好きだけが、この事業をやってるんだ、との苦情を皆が皆、申していたのを、これを聞き、これを見て、これを考えた上での、それだけでも、その将来性に不安を感ずる。未来将来、明日のその会社の存続自体が果たして有り得るのか、が危ぶまれる程の、の究極の畏れ、の、どうしょうもない、税金の大量投与等でそれらが成り立っている。それら産業、事業所群の、諸行無常の、風の前の塵に同じ、の、一端とはなるわな。


 

 非常なる、長文駄文、失礼仕りました。

 

 自身も非常に、今回の事で、後悔、困惑、迷い、寂寥感、一人ぼっち感、等々、感慨等、思い至る所、等が多々、あったものですから、この度の様な、長い文をしたためる結果、次第となりました。

 

 皆皆様、御無礼、御許し下さいませ。

 

 けれども、言いたい事共は、全部、言い尽くし、吐き出せました。今は非常に気分が楽になりました。心は平安、安楽安泰です。

 

 誠に、有難う御座います。

 

 再度。以上。よしなに。wainaiより。