aikoのえりあしが好きだ。ipodから流れるたび泣きそうになる。高校生の時分、好きだった人のことを思い出して泣きそうなる。ベランダに出て星のない空を見上げて考える、どうしてその人なんだろと。Tシャツにパーカーを羽織って素足でサンダルを引っかけるだけじゃまだ少し肌寒い。遠くでエンジンをふかして気取ってバイクを走らせる音が聞こえる。
その人はプロ野球のファンだ。下校の道すがらいつもわたしにルールやら戦術論やら、どの選手がどこのチームにいてどんな役割をはたしているのか、熱心に説明してくれた。
わたしは桑田さんしか知らない、今も昔も。父が桑田さんのファンなのだ。子供の頃、食事をしながらいっしょに野球中継を観てるとたびたび父に言われた、おまえは桑田のところへ嫁げ!と。わかったともどうしてとも言えず黙って中継に見入ってるふりをした。
桑田さんは?
その人の話についていけないわたしはその場を取り繕うように聞いたらその人は好きと答えた。ただ好きとだけ。わたしはグッときた。自分に向けられた言葉ではないのにまるでわたしに言ってくれたみたいな気持ちになって胸が熱くなった。
その日以来、その人は野球の話はしなかった。桑田さんのことも。わたしも野球のことや桑田さんのことも聞かなかった。
実家にときたま帰ると今も父は桑田のところへ嫁げ!桑田の嫁になれ!と言う。けれど前よりか少し落ち着きを払って優しい口調で。桑田さんがメジャーに挑戦する時も。
その人とは付き合ったわけでもないくせにと自分で自分をなじながらまた泣きそうになる。わたしなんにもできなかったんだよ、好きの一言も言えないで桑田さんに向けられたファンとしての深い情愛を自分のものにしてただ満足してただけなんだよ!。
えりあしはそんなわたしを指に刺さったトゲみたいにチクチク責めてきた。
いや違う、胸に沁みたのだ。悔しいくらいに。
その人も父と同じくらい桑田さんのことが好きでたまらないんだな。そのひとも父と同じように娘ができたら桑田さんのところへ嫁げと言うのかな。
フフッと小さく吹いてしまった。
フフッ、ともう一度。
チクチク、胸はもう目まなかった。
退社後、フレッシュネスバーガーへ寄り道するのはわたしの日課だ。去年のクリスマス、街のイルミネーションについ見とれてなんだか浮き足立ってしまったわたしは衝動買いをした。モスグリーンのG-SHOCK。
それに目をやると17時をまわっていた。コーヒーの注文を取りやめてビールを下さいと店員に少し弾んだ声で言い直した。
ビールは冷たくておしかった。この季節を待ってたとばかりに黄金色の水面からきめ細かい泡がパチパチと鳴っている。
きょうも難なく終わろうとしてる。終わる。難なくなんて言葉を使ってしまう自分のことがつまらない。主観だろうか、客観だろうか。ますます、つまらない。だけど、先ほどの勢いこそないもののパチパチと弾ける泡とその下でキラキラ光る金色の液体はそんなわたしのアフター5を少しだけ引き立ててくれる。店の開け放たれている戸口から入る風が涼しくて気持ちいい。さっきまで降ってた雨の匂いもする。ひとりよがりをやめて帰ろう。明日も難なく終わるんだろうな。店内ではビートルズの『Slow Down』が流れてた。
とっ散らかった部屋。靴下。枕。エビアンの青い蓋。リーバイスのスキニーは先月、アウトレットで買ったものだ。よそゆきの下着がそのスキニーの上でだらしなく脱ぎ捨てられて、パンツはこの角度からじゃ見当たらない。彼のタバコは少し甘い匂いがする。正気を失った。寝たふりをしながらタバコを吸う彼をベッドの隅から見ると正気を失う前の彼とは別人のようだった。お互い獣だ。独身でよかった。よかったというより間違えはなかった。寝たふりは彼に気付かれてなかろう。蓋のないエビアンのペットボトルをペコッと押しつぶして彼は一口飲み、そのままテーブルに戻した。もう彼は獣ではない。乾いた換気扇の音が微かに台所から聞こえた。わたしは寝たふりを続ける。