人間関係が希薄になっている。無縁社会と呼ばれており、親兄弟であろうとのその関係は希薄だ。その結果、単身者世帯が増えている。まったく赤の他人同士が一緒に居住するシェアハウスが進んでいる。東京近辺ではここ十年で八倍になっている。個室こそ別れているが、台所からトイレや風呂場などは共有だ。特に二十代、三十代にこの傾向が強まっている。当然ながら、面接や選別によってその居住者を決める。

住人で定期的に纏まった食事を共にする事もある。これには様々な形態がある。地方出身者の女性限定やシングルマザーと高齢者など形態は様々だ。嘗てはワンルームでの居住が流行っていたのだが、職場でも人間関係が希薄で、一人住まいともなれば溜まらない。また、様々の生活条件や物資やサービスは自分の経済力では手に入らない。だが、他人と教習する事で手に入れる事が出来る。確かに一人暮らしとは違ってお互い同士の生活の制約はあるのだが、様々な出会いが可能になる。

 また複数の家族が生活を共有するコレクティブハウスがある。定期的に住民が交代で食事を作る事もある。屋上菜園を共有する事もある。世代も価値観も異なる住人。問題になるのはいかなる決まりを作るかだ。その決定は実にしんどい話だが、それでも進展している。集まった人ごとにルールを作り、そしていかにその集団ごとの規範を作るかだ。

 断絶した関係が望ましいのかどうか、人間関係の積み重ねが換えて行く。


以上が番組だが、共同住宅と言えば、安藤忠雄の初期作品にて長屋の設計があった。その事が一つの地域社会の建設になるのかどうかは機能面でも然ることながらお互いの信頼関係の問題だ。

 確かに、生活に必要な資材は単独よりも分け合った方がより多くのものを共有できる。時間の分離と空間の共有、これには規範が求められる。

因みに旧ソビエトでは住宅難により一つの住居を複数の家族で共有する事があり、訪問者もその家族別に呼び鈴を押す回数を決めたという。必要ゆえにこうなったのだが、いかなるルールを用いる事になったのかは興味深い。