AI(現代の時点のもの)の応用について世界中が我こそ先にと猪突猛進並みの勢いで研究成果を出そうとしている。市井にもその技術がいつの間にか浸透し始めている。だが、怖いことに何処までがAIなのかが分らないのである。AIは平気な顔で間違った情報を恰も本当の事のように文章などを生成してしまう。感情や思考ではない情報処理レベルであることから悪意がある、とはならないものの全く関係の無い事象や事実を連結させて私たちの前に提示してくれるのである。
 結局そのリスクを回避するのに、俗に言うFakeを見抜く為の技術が出てきた。要するにAIがAI生成物を検閲するのである。こうなってくるとAIの所為で手間と時間が必要となってしまい何の為にその技術発展を目指しているのだろうと正直思っている。
 人間の産業革命などの歴史を見ても科学技術や道具の発展は我々の生活を一転させて便利にしてきた。この功績がそのままAIにも求められているように見える。その所為で理系と俗に呼ばれる系統が増加の一途を辿り、かたや文系と呼ばれるものが無駄な塊のような扱いを受けている。だが今の状況を見ていると、科学や技術の発展が私たちを脅かしてきた事実にも目を向けなくてはならないのではないか。科学が文明の素晴らしい創造物であるかのような風潮にもっと警鐘を鳴らすべきではないのだろうか。AIの生成する架空のニュースや映像をいちいち嘘か本当かを見極めなくてはならないことを、研究者たちはそうなるべくしてなっているからしょうがないとでも言いたげである。そもそもとして何故その研究を続けるのかが凡人からはもう分らないのである。文系と俗に言われている分野の人間を無能のように言う輩に関しては、何が理系の有利さなのかすら理解しておらずただ面白そうだという理由でAIの応用を探し回っているように見えるがそれは文系から見るとそんなに立派な所作には見えない。人として超えて良い物か悪い物かすら近年は天秤にすら掛けていないようだからだ。
 嘗て一世を風靡した『ターミネーター』のように、人知が超えてはいけない場所にホイホイと新しいおもちゃをみつけたかのような勢いで走ってしまうのは、根底にあるメタ認知領域の厚みがないからではないか?これを身につけることこそが先であり、道徳観や倫理観を犯さないレベルの技術発展を考える時が来ているように思う。

 

外出をしようと外にでたところ、目の前を野鳥2羽が通過した。瞬間的に色合いが雀ではないと判断できた為、停まった先の木の枝に視線を定めた。抹茶色っぽい色が見えた。カワラヒワか?と普段よく見かける野鳥から思い浮かべた。しかし小さいし声が違う。どうやらメジロだとやっと判断できた。やや逆光気味だったこともあり、判別に少々時間を掛けてしまったが、2羽しかいない。この時期は混群や群れになって動く事が多いカラ類だが、2羽であることに少々ショックを受けた。近年自身の住んでいる界隈はバブル期に売れ残った土地が住宅地に開拓されており恐ろしいほど木々や雑草類が刈り取られたり伐採され続けている。ジョウビタキも顕著に減った。カワラヒワのお気に入りの木も既に売約済みの土地の上に立っているため近々無くなるのだろう。少し田舎に行けば群れをなすカラ類はまだまだ見られるが、やや開けた住宅地などは本当に野鳥も虫も減少しており植生をここまで無視した人間の所業に嫌気が差す。そして今回のたった2羽で餌を探しているメジロはよりこの厳しい現実を見せつけられた気持ちになった。何故自然環境をここまで壊すのか?何故木々を人間は簡単に伐採するのか?益々地球の将来が危うく感じられるのだが、SDGSってなんだっけ?と非常に悲観に暮れた日だった。

コロナ禍になる前から決して外出が多い方ではなかったが、更に出不精になり公共交通機関を使う機会も必要最低限になってしまった。そうなると不思議なもので、最近一人で電車に乗る機会があったのだが、電車に乗って何処かへ行くと言うだけでも色々感じることがあった。その日は、ラッシュ時を少し過ぎた時間帯であったが、まだ通勤途上と思われる人々や大学生らしき若者などが目に入った。残念ながら乗車時に満席だったことから、通路の開閉ドアに近い辺りで立ちっぱなしとなった。ふとなんともなしに周辺を見渡すと、見事なまでにスマホを眺めている人たちばかりであった。日常的に電車通勤や通学ともなれば同じルーティンであり、手持ち無沙汰になるのも仕方有るまい。とはいえ、ここまで嗜好品がスマホ一色なのは些か危惧をやはり感じてしまった。30分程度の乗車である自分は、立ちっぱなしの状況であることから鞄内にあるタブレットも本も出す気にはならずなんともなしに窓の外を眺めていたのだった。
しばらくして、自身の斜め前にいた女子大生風の子に動きがあった。スマホを鞄にしまう素振りが視界の端に入ったのだった。次の駅で降車するのかと思ったが、そのまま続けて鞄から書籍を出してきた。途中まで読んであったのか途中のページが開かれた。専門書の類いのようで横書きにずらりと並んだ小さな文字がこちらからも確認できた。小説などの娯楽本ではなかったので、趣味の読書ではなかったのかもしれないが、その女性は、その後ずっとその書籍を真剣に読んでいたのだった。
老婆心と言われそうだが、紙媒体のメリットとデメリットもきちんと口説けないのに、便利であろうという決めつけの元なんでもかんでもデジタル化してしまう風潮には、近年益々ウンザリしているのが個人的な気持ちであったが、若者でも紙媒体に書かれた文章を読み耽っている姿を確認できたことで何故か晴れやかな感覚を覚えたのだった。紙の本か電子書籍どちらが良いかは、活字離れを危惧した大人たちの間でも議論されがちである。しかし片方だけしか使っていないにも拘わらず、主観的な善し悪しを絶対的な価値観であるかのように論じる輩が本当に増えたように感じる。視野の狭さがデジタルという世界に浸かることで益々助長されているように思われる。デジタルデバイドとフィルターバブル、どちらが悪影響を与えるのだろうとまで考えてしまう。情報の海は偏向的な思考さえ、特殊な思考であることを認識できなくさせるのであり、自身の味方だけを絶対的な信者かのように扱うことで、安心感を覚え、傷つかなくてすむことを良いことだと思うのかそこだけに縋ろうとする。そうこうしているうちに更に偏向的な思考が醸成されているように見える。こうした情報爆発による溺死にもう少し切り込んだ教育が必要であるように見えるのだが、猫も杓子もプログラム的思考やら、電子的媒体による情報の利便性向上やら、電気が無くなれば使えないものに記録をしていく危険性を無視し、アナログのお荷物を排除しようとする動きはどうしたものだろう。人間はロボットでは無い。よって生き様も当然違えば、日常の一部を切り取ったとしても別の事をしている方が自然のように感じる。しかし電車の中は、スマホ画面をひたすら凝視する人間たちに溢れているのが今の普通となっている。目の前に広がる大海原が見える路線にいるにも関わらず、その自然の営みに対し全く無関心である。自然環境が破壊されれば人も破壊されるという簡単な道理さえ小さな画面の向こうに広がる仮想世界では無意味であるかのような振る舞いである。
個人的には、久々に電車内から見えた海とその向こうに見える島、はたまた海上に小さく見えるヨットや船の行き来する光景は心が洗われるような感覚に導かれたのだった。同じ空間にいて、同じ時間を共有している筈なのに、周囲の視線はその外界には向いていなかった。本に耽ること自体は悪いことではないため、読書に勤しむことは否定しない。スマホを見つめる行為も否定する気はない。だがそのときにしか拝めない風景を懐かしく思えるような思い出作りというものも、人間の心の豊かさには本来必要ではないのだろうかと思ったりもする。試験勉強等で時限がある若者が周囲の環境を無視してしまう傾向は状況的に仕方ないにしろ(無論自身もそうやって受験戦争に投じた)、息抜きという間隙をもっと大事にして欲しいと思うのはいけないことなのだろうか。視野が広いということは、残念ながら知識だけでは賄えないのだが、そうした教養すら何処かでおいてきてしまったようである。
 

本当の黒幕は表には出てこない。これは映画や小説の世界でよく最終局面で悪のトップが暴かれる時によく聞くフレーズである。フィクションにおいては,視聴者もしくは読者が明確にそのトリックを堪能できるように種明かしが準備してあるものである。しかし,現実世界では実は裏で操っている主犯格は中々身を隠すのが上手である。そして利用されている側は傀儡になっていることを自覚している場合も少なく,自身が自分の意志で物事が動いているように感じさせられているのである。そのため自白をさせた場合,自分の意志でやったかのような言及をしてしまい,一番悪いのはじゃああんただね,と周囲もその自白者を悪者に認定してしまう。
しかし例えば,いじめ問題でも,私はいじめ方を提案しただけで実行者ではない,という人物の存在は意外に多い。人を傷つける方法を手ほどきしておきながらやるかやらないかは聞き手に任せていただけで,やったらいいとは言っていないという場合,その人は共犯にはならないのかという問題はたまに聞くことである。あたかも我が儘を言ったこともない偽善者はこの手の人物である。
いじめでなくても,誘導的な質問や物言いをしておきながら,相手に答えを出させることをして,自分には責任がないように持って行くタイプは基本責任が降りかからないように自分は安全地帯に必ずいる。常に裏で操っている人物は,さもいい人の顔をする。暗に自分の要望通りにしてもらうために,さも相手にそうした方がよいだろうという感情を起こさせるような種を撒く。それを植えて水をやり花を咲かせることは自分ではしない。まんまと操られた人物が自発的に発言や実行をしてしまうように仕向け,自分は主犯格から外れるように仕向けるのである。結果実行者は自分の意志で何もかもやったのだから,責任は自身にあることになってしまう。そうなった場合もやらされた筈の傀儡は怖いことに操縦者に対し疑いの目を持たない。更にこれの怖いところは,あやつり人形の言い分が主観的に成り立っていることからその人が主犯格,つまり黒幕であると周囲の人間も認識し,悪いのはお前だとなってしまう。結局裏で糸を引いていた人物も,場合によってはその操り人形にだまされていたのではないかという扱いになり,加害者なのに被害者に立ち回ることができてしまう。そうやって黒幕はほくそ笑むのである。現実世界には名探偵は存在しない。更に,そうした腹黒いことを息を吐くようにできてしまう人間が自分の周囲にはいないとどこかで思っている。黒幕はフィクションの世界でのみ存在しており,現実の世界ではそんな風にだまされることもないだろうと安心しきっている。しかし意外にそうしたことを当然のことのようにやる人間は存在している。関わらないほうがいい。絶対良いことにはならない。知らないうちに騙されていて巻き込まれる恐れもあるからだ。いい人の顔をした,さもあなたの好きにしたらいいといういいながら,自分の気持ちや提案を持ち出してくる人物には要注意である。そいつは都合が悪くなると,あなたが勝手にそうしたのだから自分に文句を言うな,と切ってくれるに違いない。人間不信が助長されるだけだ。そうした実体験はできればしたくないものだ。人を疑うことは自分が汚れていることを証明していることにもなる。だから自分は今,相当汚い人間になってしまったのだろう。悲しいことである。

 

今ごろの若者は政府に何故興味がないのだろうか。それとは反対に50を超えた氷室に若いファンが何故ついているのだろうか?
その答えはすぐに見つかるのである。そう彼の言動を見れば。過去に縛られることへの無意味さこそカリスマ的オーラを放つ一因なのである。昨年(2016)年に放送されていた『校閲ガール』というドラマでもそれは主張されていたように記憶する。
糧にはなるが、重荷にはしない。それが答えであり、ましてそれを誇りにして縋り付くなんてものは若者にとってはもってのほかなのである。それにも拘らず大人達は東京オリンピックという過去の栄光を重ね合わせそれを再来させたがっている。メディアもそれを持ち上げようとする。しかし過去の産物であるそれが若者にとって何の魅力があるのだろうか。響くモノはあるのか?古くさい昭和が漂うその憧憬がココロを打つのだろうか。仮に何かしらの憧れを感じることがあるとしたらデジタル化されていないアナログ時代のその精巧なモノ作りへの真摯な態度だったりするのかもしれない。ICTが発展したのがここ数年の出来事であり今やそれを更にどうこうすることが科学の最先端のように扱われる時代である。昭和の高度経済成長期には一人の発明家やアーティストが生み出したモノが斬新であればあるほど人々の関心と興味が集まりそれを大賛辞することが世のステータスだった。目に見えやすい飛躍は、人の心を掴む。その熱狂はまさにカリスマ的であり何かしらの共有感覚が尚一層その団結力を強める効果的な報道がされていたようにも思う。その単純な図式こそ逆に大衆が世の中の動きを分りやすくしておりその系図がしっかりと確立されていたように、いや確立させられていたのである。そういったある種の純真さは今の時代にはもう無いだろう。騙されやすい大衆は今もいるだろうがネットという情報が多角的に流れる今は単純には人を扇動することは難しい。そのシンプルな興奮や熱狂を体感できた時代は確かにうらやましいものかもしれない。しかし全ては過去のものでありもう歴史の中に埋没しているものなのだ。
ということはだ、今を生きる若者にとっては昭和の歴史でしかない産物を焼き直ししたがる政府へ誰が熱いまなざしを向けるかなんてことは容易に想像できた筈だったのだ。経済の状況がまず違うし、感覚がもう全く違うのである。稼げるようになりたい、社会的立場で上へ昇り詰めたい等向上心は経済状況からみて無駄な足掻きだし平和であれば別にお金にがっつくこともしたくない。それこそ今の若者の本音なのである。一方でその平和惚けへの焦りがあるのか本当は何かしなくてはならないのかもしれないが何をしたらいいのか分らない。だから生きる意味も目的も無いという人も多かれ少なかれ存在している。何故そこまで前が見えないのだろう。それも心配にはなるが(別にこちらに心配されたくもないだろうが)、そういったスタンスの人達に昭和の栄光をちらつかせてみたところでその時の熱狂を経験していない若者に何も伝わらないのである。これが現状なのだ。だが不思議なことに氷室は若者への影響力を少なからず持ち続けているようなのだ。その生き様が格好いいと若者達は答える。いや長年のファン達もそう答えるのだ。インタビューでも彼の言及は謙虚なものだった。BOOWYを超えれないのは分っていると素直に言えてしまうのだ。過去の栄光を振りかざすつもりも無いがそれを意識せずには生きれないもどかしさを告白する姿は印象的だった。インタビュアーに「触れられたくないからこそ自分も触れないのでは?」と言われると「それもある」と答えられる当たり氷室はすごい。あのときあのタイミングだったからこそできたグルーブと流行を今に置き換えることは無意味だと重々分っているのに常に過去はつきまとうのである。それが糧であり重荷である。しかし氷室は糧にするための努力を惜しまない。自分の才能すら否定する程追い込む自分を毎日見つめているのである。そのまじめな姿はどの世代の人間が見ても美しく感じるのではないだろうか。何も興味のない熱くもならない若者の琴線に触れるものがあるように思うのだ。過去に縋り付かないその姿が格好いいのである。いい大学を出たとか過去にこういった功績があるとか親が偉いとかそんなの何の価値も無い。でも自分の価値は自分で作り出すものだと生き字引のようなことをやってのけるあのカリスマに若者が惹かれているのではないかと思い至るのである。過去を背負いそれを大事に持っているのにそれは思い出でしかないことを氷室は知っている。寧ろそれと対等に戦える武器を今も探して彷徨っているのかもしれない。重心がしっかりしている人間に見られるオーラはそうやって培われているのだろう。ぶれることのない芯が常に彼にはある。
本当のカリスマとは矢張何年経っても光を放っているように思う(ファン贔屓ではあるが)。