ご存知の方も多いと思いますが 改めまして 星野富弘様 私にとって 生きる支え バイブルです。

なんの事やら??? が消えないでしょうが、私は長男を出産前に心労で倒れました。

妊娠 6ヶ月の時 同居していた実父が白血病で余命 3ヶ月と宣告されました。病気ひとつせず

元気だった父、やっと授かった私の出産を喜んでた父、出産前に亡くなるかもなんて信じられず

母は父に付きっきりで 病院へ通いつめ、私は仕事と家事と父の事で精神的にいっぱいいっぱい

になってました。まだ携帯が普及してない頃でした。遅くまで帰ってこない母が心配になり

病院に電話をしてしまいました。母は電話口まで来てくれましたが、そんなことで電話を

するな❗と叱られました。母の帰宅後、口論になり 私の心の中の糸が プチっと切れて

しまいました。その場で崩れるように倒れた私。耳は聞こえるけど喋れない、動けない、

指ひとつ動かせませんでした。救急車で運ばれたのが S先生の勤務されてた総合病院でした。

いろいろ検査しましたが体に異常がなかったため 婦人科の S先生が主治医になってください

ました。以前にも書きましたが S先生は とても優しい先生です。第一声は今でも覚えてます。

" 心配ないですよニコニコ赤ちゃんは大丈夫、元気です。○○さんは今は 動けないかもしれませんが

きっと 大丈夫、声も出るようになります。安心してくださいね。○○さんが言えない性格かも

しれませんが、ご家族に心配かけるから、と思われるのでしたら私でよければお聞きします、

お話ししたくなったらで結構です。焦らずゆっくりでいいですよ。様子を見るために私は 毎日

伺うようにします、とりとめの無い私の話ばかりするかもしれませんが 許してくださいね。

声が出せなくても、心配事があっても不安があっても 伝えることはできます。目で合図して

くださいね。嫌なときはこうやって 目をぎゅっとつむってください。わかりました? "

とずっと笑顔でお話しくださいました。それまで いろんな先生に出会ってきた私ですが

S先生のような方は はじめてでした。驚きもありましたが、素直でない私。そんなこと

言っても忙しい先生が毎日 私のところに来るなんて信じられなかった。でも、そう言って

くださった先生にさっそくゆっくり長めにまぶたを閉じた。 " そうニコニコそれで良いですよ "

とおっしゃってくださった。翌日からホントに毎日部屋にお越しくださった先生。時間は

不定期ですが 1時間のときもあれば、2時間くらいのときもありました。個室に入院だった私。

きっと先生のご配慮です。その総合病院は医師が治療に必要と判断した場合は個室代は

かかりません。なので他の方に気を使わなくてすんだしトイレもベットの上、呼び出し

ボタンも押せない 私の様子を見に何度も看護婦(その頃の呼び方)さんが来てくださった。

動けない事の罪悪感と お腹の子への申し訳なさなさと自分に対して情けなさと複雑な

思いが入り交じった私の感情さえ言えない もどかしさも先生は 大丈夫だよ。って私の事を

すべて お見通しみたいなのも少し腹立たしかったりしたけど(ごめんなさい)、先生は

ご自分の事をお話しくださった。

先生と呼ばれる自分でさえ妻(奥様)の心の病は治せずにいること、自分の進んできた道、

治せなかった患者様の病気等々、ずっと聞き役の私。毎日 毎日 お越しくださり、先生が

お話しくださるうちに 私のなかで変化が起きてきました。

                                 "  ○○さんはそのままで良いんですよって  "

小さい頃からしっかり者で がんばり屋のお姉ちゃん でなくちゃいけないと思い込んでた私。

父の発病から悪夢で眠れなかった事、元気だった父がいなくなってしまう恐怖、私はそんな

自分の気持ちに蓋をして泣くことさえしなかった。泣いたら いかん、そう思ってた。

ある日、先生の話を聞いてて涙が止まらなく出てしまった。そのままで良いんだよ、大丈夫。

たった15文字、食べれなくても 赤ちゃんは育ってる、動けない事は時間と共に解消するから

大丈夫!って。次第に食事もとれるようになり 介助無しでも立てるようになるまでに

2、3週間かかりました。それでも毎日の訪問は続きました。私は自分から家族の事や自分の

事は語る事ができない性格でした。 1度話したら取り返せないからです。良いことも

悪いことも全て。そんなとき 1軒冊の本を私にくださいました。


                                             "   愛     深  き   淵  よ  り   "


作者が 星野富弘さんです。今でもご健在ですが 今から 47年前 23歳で教師になった

星野富弘さんは群馬県高崎市で体育教師になります。教員生活 僅か 2ヶ月でクラブ活動の

指導中に脛椎を損傷、以来手足の自由を失います。

今から 47年前の病院(私が星野さんの本にであったのは 20年前)、環境も今ほど良くは

なかったはず、救急車で運ばれましたが 首から下の機能は戻らず 呼吸困難になったため

気管切開で人工呼吸になります。声も出せなくなり 全ての自由が無くなり絶望の中に

落ちてしまいました。 9年の長い入院生活のうち 2~ 3ヶ月は呼吸器が外せず、お姉さんが

50音表を作り文字を追い 星野さんが舌を鳴らす 気の遠くなるような意思表示を繰り返します。

やっと呼吸器が外れ言葉以外に何かを伝える方法はないか模索してるとき 口筆する

(口でペンをくわえる)ことを試みます。どんなに努力してもなかなかうまくいかず

看護実習に来ていた方が 横になったら 少し楽になるかも の提案をうけ、床擦れ防止で

体位を変えてる時に すこしづつ上手ではありませんが 文字が書けるようになり、それが

嬉しく更に練習を重ね お見舞のお礼状がかけるまでになります。余白ができるのでそこに

少し絵を描き、更に練習をするため お母様にスケッチブックとサインペンを買ってきてもらい

お見舞でいただいた 花を描くようになります。

ストレッチャーでしか部屋から出られない星野さんでしたが、病院が特製の車イスを用意

してくださり 誰もいない廊下を母と共に過ごすことが唯一の楽しみになります。描きためた

絵をベンチに立て掛け眺め お母様と批評、誰かが来ると お母様が さっと集め 何事も

なかったように車イスを押し また誰もいなくなると広げる。悪いことしてる訳じゃないけど

人にお見せできるものではないと思われたようです。そんな星野さんに身障者センターの

所長さんが 個展を開いたら と持ちかけられました。何度かお断りしましたが あまりにも

熱心にお誘いされ 個展を開くことになります。入院生活 5年間で描きためた絵や練習した

文字は 60枚になりました。その間、毎日毎日付き添ってくれた母。時に暴言を吐き、動けない

苛立ちをぶつけ、口に入ったご飯粒を母に吐いても 毎日変わらず看病してくれた 母。

売るのが目的ではなかった星野さんはセンター長から もし星野さんの絵がほしい、と

言われたらどうしますか と聞かれました。私の絵を見てくださる方がいるとは思えない、

もしそんな物好きな方がいたしたら差し上げてください。と答えました。

そんな星野さんの心配は見事に外れ 個展は大成功に終わり、 60枚の星野さんの歩みは

全て どなたかの元に渡っていきました。そして 入院から 9年目、退院の日を向かえます。

いつも見送るばかりだった星野さんは不安もありましたが 新たな旅立ちとなります。

故郷の群馬県勢多郡東村(現 みどり市)に両親、弟ご夫婦、離れて暮らす姉夫婦に助けられ

今日に至ります。退院後、入院中も何度か(週に2,3日)お見舞に来てくださった渡辺さんと

ご結婚され 今も仲睦まじくお暮らしです。今でも執筆活動もされ 絵も描かれてます。

そんな星野富弘さんの美術館が 群馬県みどり市にある  富弘美術館  です。山道を幾つも

曲がり 山あいの草木ダム湖のほとりに静かに建ってます。以前にも 1度訪れた事が

ありますが 病気になって もう1度訪れたい場所でもありました。 長々と書きましたが

私にとって とても意味のある 星野富弘さんの作品は  また次に紹介したいと思います。