母 入院からずーーーっと書いていなかった 私の病歴。 ん~ん~ 今でも書くのが 辛いです。
でも同病の方、他の癌で闘病の方々の blog から勇気をもらい 少しづつでも自分の病歴経過や
治療の事を書こうと思います。
術後、長男に blog を書くことを薦められましたが、アナログな私。文才もないし何を書けば
いいのか……まして blogなんてとんでもない読ませていただく専門でした。未だに
書いてることを 家族の誰もが 知りません。いつかは わかってしまう日がくるかも
しれませんが 普段 いえない愚痴や 言えない 泣き言を吐き出す場にしています。訪れて
くださる方には申し訳ありませんが、私も強い人間ではありません。どこかで吐き出さないと
身が持たないのです。
女姓に生まれながら子宮癌に 体癌 と 子宮頸癌 があることさえ知らず 長年 生きてきた私。
皆様の blogを読ませていただくうちに "" こんな私でも生かされた意味があるかも ""と思う
ようになり まずは 書いてみよう と勇気をもらいました。一人でも多くの方に 子宮体癌
を知ってほしい、そんな思いでした。 癌 という病に一人で立ち向かうのではなく ご家族、
パートナーの方、または お友達他 皆さんに支えてもらって克服して (自分らしく) 生きてほしい 、
(私ごときが小生意ですみません) 私の家族のことを書くことが 恥かしい内容も多くあります。
でも、避けられませんので 恥をしのんで書きます。
どこから食い違ったのか 自分に反省もできるかもしれないし、思い返すことで修正できる
かも……と微かな期待も込めて、です。
何の兆候もなく いきなりまさかの 子宮体癌宣告不謹慎な先生の宣告から 24日。病院を代わり
超ハイスピードで手術となり 嫌な予感しか頭をよぎらず、もしか……しか考えられなかった。
手術後に残して逝くかも……の家族の事しか 考えられなかった 私。自分のことより
家族のことばかり考えてた。自分の癌を考えたくなかった、といった方がいいかも。
怖かったから。仕事も休職し 家の事、子供の事、できることを思い残すことないよう過ごした
日々。でも 夜 眠れず 1人になるとパソコンで調べ 読み漁る毎日。そんな不安を 出さずにいた
私を 主人は なんと 思っていたのか……いつもと変わらず生活する私を 強い女と思ったのか。
"" 鉄の神経 "" "" 鉄の体 "" "" 鉄の精神 "" でも持ってるように見えたのか
主人は……手術前の私を 寒さに向かう 11月の夕方、外に置き去りにした。そして 忘れた。
風邪でもひいたら手術はできなくなってしまうのに。 主人の中の私の存在は どれほどの
者なのか……手術が早まった意味をなんと とらえていたのか……私の存在価値は
癌の報告に出向いたとき 手をさしのべてくれた主人の手は とても 温かかったのに。
以来 主人には 触れていない。あのときから ずっと、今でも気持ちが 拒否してる。修正は
早い方がよかったのに 修正できず、現在。 手術前の出来事に裏切られた感が 拭いきれず
気持ちも建て直せないまま 受けた手術。もう どーでもよかった、手術さえ拒否した私。
でも 病院も 母も 妹も 同調してくれるはずもなく私の思いは置き去りのまま 手術。
自分で選択して拒否する気力や努力さえ できず、だから 誰のせいでも無いけど
生きるのが 嫌だった。
あいにく 私は "" 鉄の神経も 鉄の体も 鉄の精神 "" も 持ち合わせて いない。強がって
張りぼての 鎧を着てただけ。私の中は ボロボロだったのに……
術後も気持ちを建て直せず 自分の生きる意味を模索する毎日。やっと出た病理の結果を
1人で聞いた。それは 私の希望だったけど。 聞いた 病理の結果は 4期 B。
先生が部屋を出られ 1人なって 初めて 泣いた、自分のために 泣いた。話を聞く前日に
誕生日を迎えたばかりの 私。もちろん 母や妹は一緒に聞くと言ってくれたけど、その前に
自分できちんと受け止めたくて 取り乱したりしたくなくて。 先生にお願いして 先に聞いた
事は伏せていただいた。わかってた……わかってた。取り切れなかった癌、浸潤していた膀胱、
術後 朦朧とした意識のなかで 女医先生に聞いたことは 日に日に私の中で大きくなり、
最悪の事しか考えられなかった。でも現実を突きつけられると、張りぼての 私は今まで
押さえていた感情が一気に出てしまった。その後、皆で聞いた病理の結果。 母や妹、私も
気になることは質問した。でも 主人は先生に何も 尋ねなかった。 なぜ
説明後 1番最初に部屋を出た私。母と妹、の順に出て 最後に退出した主人は 私の元にも
駆け寄っても来なかった。前を見て歩く私は "" 嘘じゃなかった…… "" の思いが込み上げ
頬を涙が伝った。その涙さえ 主人は 知らない。
主人に対して 溝 のできてしまった 私の心。頼りにしていた母が、私の術後 1ヶ月ほどで
心臓の手術のため 入院したところまで 前回書きました。その後のことはあまりに辛く
書けず 最近の事、長男と次男の事を書いて病気から離れたことを綴って参りましたが、
少しづつ 本来お伝えしたかったことを書いていきます。なかなか進まないかもしれません、
現在 治療中の方も おみえになると思いますが、私が書くことは 皆様すべてに当てはまる
わけではありません、参考になれば幸です。
術後 1ヶ月 まだまだ不自由な生活を送っていた私。母の入院は不安と悲しさと どう表せば
的確なのか……でも手術をしなければ 突然、命の危険が伴う母の病状。私の前に母の手術が
決まっていたのに 母は私を優先し 自分の手術を延ばしました。母の私 (子供) を思って
くれる想い。母の病状も切羽詰まってこれ以上手術を延ばせない状況で 走るなんて
とんでもない坂道、階段、早足もだめ❌歩行さえ日常生活にも制限がありました。
そんな母は 私の術後に つくことはできず、 入院中は 妹、長男が 主に私に付き添って
くれました。主人には 付き添ってほしくなかった 。長男も学校があり 私が少し安定した
6日後に無理やり高校の寮に戻しました。まだ戻るつもりのなかった長男。大事な試合も
控え早く 戻したかった私に " こんな状況で試合に出れん " といった長男。今後、母に起こる
ことは きっと もっと大変な事になる、今そんな気持ちでどーする自分の決めた試合なら
しっかり戦えるよう それが今まで支えてきた母に報いることだよ。と言い聞かせ 寮に
帰らせた。寮に到着して長男が かけてくれた電話を切って 泣けてしまった私。
その後の試合で優勝し 学校に1ヶ月の休学の交渉をした長男。私が退院し 次は母が手術で
家事等 術後の私に負担が かかると判断した長男は 12月末まで休学をし 自宅へ戻って
くれました。そのあたりの事も以前書きましたので、詳しくは割愛します。その長男の
おかげで ずいぶん助けられました。
母の手術は心臓の大手術になりました。小柄な母は心臓の弁が小さく機械弁しか入れられない
かも。その場合 ワーファリンが欠かせないこと。術後は出血に注意すること等 説明がありましたが
できれば 生体弁をいれてほしい希望をしていました。 8時間くらいかかると言われ 午前 9時
に手術室に向かった母。見送る私は 涙が止まりませんでした。予定の時間を大幅に越え何度も
様子を聞きに行きましたが、ただただ 待つことしかできなかった長い時間でした。
ICU に案内され、たくさんの管に覆われ 血の気のない青白く まだ意識の戻らない母を前に
主治医の先生から説明を受けました。長引いたのは本来の弁は 3枚弁であるのに母は 2枚弁
だった事、さらに石灰化が進みギリギリまで削り なんとか生体弁を入れられた事などなど
母の今後を考えて執刀していただいた 長い時間だったんだと 改めて先生に感謝しました。
痛みを嫌というほど経験した私。 2度の帝王切開を経験しましたが 子宮体癌の手術は比べ物
になりませんでした。術後の痛みや どこから来るかわからない高熱で何日も苦しい思いを
した。硬膜外麻酔をしなかったので仕方ないのですが、長男を授かる前から椎間板ヘルニア
だった私。 次第に悪化し18年ほど前になりますが 何度も神経根ブロック注射を経験しました。
2ヶ月間入院したでしょうか?毎週木曜 午後 3時(忘れられん) 神経根ブロック注射を
したけど、なかなか改善せず、痛みと恐怖しかありませんでした。私の椎間板は手術必要
だったのですが、長男を産んだばかりで 今後を思うと手術は避けたく神経根ブロック注射で
治療をしました。手術をしなかったから仕方ないとはいえ、神経根ブロック注射はスッゴク
痛く 後ろから刺される恐怖や 電気が流れるような強烈な痛みがあり、何度目かでやっと
効き目がでだし 次第に改善し現在に至ります。
今でも重いものを持つのは 厳禁な私。当時は bigサイズの長男を抱っこすることさえ
できませんでした。そんな当時を思い出してしまい どうしても 先生のお薦めの背中からの
硬膜外麻酔を決断できなかった私。痛みのコントロールは時間を開けて投薬、座薬、点滴を
使っていただきましたが、そんなんでは追い付かない 辛い痛みと熱に苦しんだ私の術後でした。
そんな経緯もあり母も硬膜外麻酔をせず、痛みに対し極力 感じる事がないようお願いしました。
担当の T先生は患者側に寄り添ってくださり 不安なことも話しやすい先生、もちろん
腕もいい。毎日の激務で ほとんど病院で過ごすことも多く、時折、髪の毛も はねて らっしゃる
時も ある。患者様の事が気がかりなときは 病院に残られると 後日 看護師さんから聞きました。
麻酔から覚めにくい母を このまま待ってるのは 私の術後の体に負担がかかるから 帰って
休んだ方が良いこと、母も明日お昼頃には 覚醒するだろう事、12月に入り 寒さが増し
抵抗力の低くなってる私が 風邪などひかぬよう 病院への出入りは極力注意してくださいと
ご配慮ある お言葉までかけてくださいました。
手術室に向かってから 11時間 、予定の 8時間を大幅に遅れて終了した 母の手術。執刀した
T先生はじめ皆様のおかげで 生体弁をいれることができ ワーファリンを使用する事なく
現在も生活することができる母です。私のお目付け役として共に移動してくれます。
今 改めて思うこと。執刀する先生方は 極限まで できることはしてくださると思いました。
でも 無理と判断されたときは 患者の負担になるような事は 極力 避けられる ということ。
今更ながら もうすぐ 2年が経過します。 6時間はかかると言われていた私の手術、それでも
途中心配で何度も状況をナースステーションに聞きにいった長男。順にお昼を取ろうと
していた矢先 " 患者様が病室に戻ります "と告げられたのは わずか 4時間が過ぎた頃でした。
長くなると思ってた手術がわずか 4時間。早く終わった事を良いととらえるか、あのときは
わからなかった と のちに 妹は言いました。術後の説明で家族に 先生がおっしゃったこと。
今は縫合し麻酔から覚めにくいので様子をみていること。子宮は取り出すことができず
崩れてしまったこと、膀胱に浸潤があったこと、膀胱を取り出すことも検討したが QOL を
考え残したこと、癌を取りきれず残っている事 患者様はすべて知りたい希望なので後日、
手術の事は おはなしします、今日話しても麻酔で朦朧としてるでしょうから。 このままだと
年内 生きるのは 無理な事 この事は伏せます、今後は抗がん剤投与での治療を薦めます。
その間にも再発はあり得ますって。
先生の予想に反し 当日に女医先生に聞いた私。案外 しっかり聞きましたでしょ⤴
そんな私は もうすぐ 2年が経とうとしている。残していただいた膀胱も ちゃんと
機能してくれてる。不調な事もたくさん あるけど 生きてる事が 不思議なくらいな状況
だったんだな~なんて思います。主治医の AR 先生は 相変わらず 鉄仮面だけど 腕は信じてる。
長ーく 書いてしまいましたが 順次 当時の事を書き記していきたいと思います。
でも同病の方、他の癌で闘病の方々の blog から勇気をもらい 少しづつでも自分の病歴経過や
治療の事を書こうと思います。
術後、長男に blog を書くことを薦められましたが、アナログな私。文才もないし何を書けば
いいのか……まして blogなんてとんでもない読ませていただく専門でした。未だに
書いてることを 家族の誰もが 知りません。いつかは わかってしまう日がくるかも
しれませんが 普段 いえない愚痴や 言えない 泣き言を吐き出す場にしています。訪れて
くださる方には申し訳ありませんが、私も強い人間ではありません。どこかで吐き出さないと
身が持たないのです。
女姓に生まれながら子宮癌に 体癌 と 子宮頸癌 があることさえ知らず 長年 生きてきた私。
皆様の blogを読ませていただくうちに "" こんな私でも生かされた意味があるかも ""と思う
ようになり まずは 書いてみよう と勇気をもらいました。一人でも多くの方に 子宮体癌
を知ってほしい、そんな思いでした。 癌 という病に一人で立ち向かうのではなく ご家族、
パートナーの方、または お友達他 皆さんに支えてもらって克服して (自分らしく) 生きてほしい 、
(私ごときが小生意ですみません) 私の家族のことを書くことが 恥かしい内容も多くあります。
でも、避けられませんので 恥をしのんで書きます。
どこから食い違ったのか 自分に反省もできるかもしれないし、思い返すことで修正できる
かも……と微かな期待も込めて、です。
何の兆候もなく いきなりまさかの 子宮体癌宣告不謹慎な先生の宣告から 24日。病院を代わり
超ハイスピードで手術となり 嫌な予感しか頭をよぎらず、もしか……しか考えられなかった。
手術後に残して逝くかも……の家族の事しか 考えられなかった 私。自分のことより
家族のことばかり考えてた。自分の癌を考えたくなかった、といった方がいいかも。
怖かったから。仕事も休職し 家の事、子供の事、できることを思い残すことないよう過ごした
日々。でも 夜 眠れず 1人になるとパソコンで調べ 読み漁る毎日。そんな不安を 出さずにいた
私を 主人は なんと 思っていたのか……いつもと変わらず生活する私を 強い女と思ったのか。
"" 鉄の神経 "" "" 鉄の体 "" "" 鉄の精神 "" でも持ってるように見えたのか
主人は……手術前の私を 寒さに向かう 11月の夕方、外に置き去りにした。そして 忘れた。
風邪でもひいたら手術はできなくなってしまうのに。 主人の中の私の存在は どれほどの
者なのか……手術が早まった意味をなんと とらえていたのか……私の存在価値は
癌の報告に出向いたとき 手をさしのべてくれた主人の手は とても 温かかったのに。
以来 主人には 触れていない。あのときから ずっと、今でも気持ちが 拒否してる。修正は
早い方がよかったのに 修正できず、現在。 手術前の出来事に裏切られた感が 拭いきれず
気持ちも建て直せないまま 受けた手術。もう どーでもよかった、手術さえ拒否した私。
でも 病院も 母も 妹も 同調してくれるはずもなく私の思いは置き去りのまま 手術。
自分で選択して拒否する気力や努力さえ できず、だから 誰のせいでも無いけど
生きるのが 嫌だった。
あいにく 私は "" 鉄の神経も 鉄の体も 鉄の精神 "" も 持ち合わせて いない。強がって
張りぼての 鎧を着てただけ。私の中は ボロボロだったのに……
術後も気持ちを建て直せず 自分の生きる意味を模索する毎日。やっと出た病理の結果を
1人で聞いた。それは 私の希望だったけど。 聞いた 病理の結果は 4期 B。
先生が部屋を出られ 1人なって 初めて 泣いた、自分のために 泣いた。話を聞く前日に
誕生日を迎えたばかりの 私。もちろん 母や妹は一緒に聞くと言ってくれたけど、その前に
自分できちんと受け止めたくて 取り乱したりしたくなくて。 先生にお願いして 先に聞いた
事は伏せていただいた。わかってた……わかってた。取り切れなかった癌、浸潤していた膀胱、
術後 朦朧とした意識のなかで 女医先生に聞いたことは 日に日に私の中で大きくなり、
最悪の事しか考えられなかった。でも現実を突きつけられると、張りぼての 私は今まで
押さえていた感情が一気に出てしまった。その後、皆で聞いた病理の結果。 母や妹、私も
気になることは質問した。でも 主人は先生に何も 尋ねなかった。 なぜ
説明後 1番最初に部屋を出た私。母と妹、の順に出て 最後に退出した主人は 私の元にも
駆け寄っても来なかった。前を見て歩く私は "" 嘘じゃなかった…… "" の思いが込み上げ
頬を涙が伝った。その涙さえ 主人は 知らない。
主人に対して 溝 のできてしまった 私の心。頼りにしていた母が、私の術後 1ヶ月ほどで
心臓の手術のため 入院したところまで 前回書きました。その後のことはあまりに辛く
書けず 最近の事、長男と次男の事を書いて病気から離れたことを綴って参りましたが、
少しづつ 本来お伝えしたかったことを書いていきます。なかなか進まないかもしれません、
現在 治療中の方も おみえになると思いますが、私が書くことは 皆様すべてに当てはまる
わけではありません、参考になれば幸です。
術後 1ヶ月 まだまだ不自由な生活を送っていた私。母の入院は不安と悲しさと どう表せば
的確なのか……でも手術をしなければ 突然、命の危険が伴う母の病状。私の前に母の手術が
決まっていたのに 母は私を優先し 自分の手術を延ばしました。母の私 (子供) を思って
くれる想い。母の病状も切羽詰まってこれ以上手術を延ばせない状況で 走るなんて
とんでもない坂道、階段、早足もだめ❌歩行さえ日常生活にも制限がありました。
そんな母は 私の術後に つくことはできず、 入院中は 妹、長男が 主に私に付き添って
くれました。主人には 付き添ってほしくなかった 。長男も学校があり 私が少し安定した
6日後に無理やり高校の寮に戻しました。まだ戻るつもりのなかった長男。大事な試合も
控え早く 戻したかった私に " こんな状況で試合に出れん " といった長男。今後、母に起こる
ことは きっと もっと大変な事になる、今そんな気持ちでどーする自分の決めた試合なら
しっかり戦えるよう それが今まで支えてきた母に報いることだよ。と言い聞かせ 寮に
帰らせた。寮に到着して長男が かけてくれた電話を切って 泣けてしまった私。
その後の試合で優勝し 学校に1ヶ月の休学の交渉をした長男。私が退院し 次は母が手術で
家事等 術後の私に負担が かかると判断した長男は 12月末まで休学をし 自宅へ戻って
くれました。そのあたりの事も以前書きましたので、詳しくは割愛します。その長男の
おかげで ずいぶん助けられました。
母の手術は心臓の大手術になりました。小柄な母は心臓の弁が小さく機械弁しか入れられない
かも。その場合 ワーファリンが欠かせないこと。術後は出血に注意すること等 説明がありましたが
できれば 生体弁をいれてほしい希望をしていました。 8時間くらいかかると言われ 午前 9時
に手術室に向かった母。見送る私は 涙が止まりませんでした。予定の時間を大幅に越え何度も
様子を聞きに行きましたが、ただただ 待つことしかできなかった長い時間でした。
ICU に案内され、たくさんの管に覆われ 血の気のない青白く まだ意識の戻らない母を前に
主治医の先生から説明を受けました。長引いたのは本来の弁は 3枚弁であるのに母は 2枚弁
だった事、さらに石灰化が進みギリギリまで削り なんとか生体弁を入れられた事などなど
母の今後を考えて執刀していただいた 長い時間だったんだと 改めて先生に感謝しました。
痛みを嫌というほど経験した私。 2度の帝王切開を経験しましたが 子宮体癌の手術は比べ物
になりませんでした。術後の痛みや どこから来るかわからない高熱で何日も苦しい思いを
した。硬膜外麻酔をしなかったので仕方ないのですが、長男を授かる前から椎間板ヘルニア
だった私。 次第に悪化し18年ほど前になりますが 何度も神経根ブロック注射を経験しました。
2ヶ月間入院したでしょうか?毎週木曜 午後 3時(忘れられん) 神経根ブロック注射を
したけど、なかなか改善せず、痛みと恐怖しかありませんでした。私の椎間板は手術必要
だったのですが、長男を産んだばかりで 今後を思うと手術は避けたく神経根ブロック注射で
治療をしました。手術をしなかったから仕方ないとはいえ、神経根ブロック注射はスッゴク
痛く 後ろから刺される恐怖や 電気が流れるような強烈な痛みがあり、何度目かでやっと
効き目がでだし 次第に改善し現在に至ります。
今でも重いものを持つのは 厳禁な私。当時は bigサイズの長男を抱っこすることさえ
できませんでした。そんな当時を思い出してしまい どうしても 先生のお薦めの背中からの
硬膜外麻酔を決断できなかった私。痛みのコントロールは時間を開けて投薬、座薬、点滴を
使っていただきましたが、そんなんでは追い付かない 辛い痛みと熱に苦しんだ私の術後でした。
そんな経緯もあり母も硬膜外麻酔をせず、痛みに対し極力 感じる事がないようお願いしました。
担当の T先生は患者側に寄り添ってくださり 不安なことも話しやすい先生、もちろん
腕もいい。毎日の激務で ほとんど病院で過ごすことも多く、時折、髪の毛も はねて らっしゃる
時も ある。患者様の事が気がかりなときは 病院に残られると 後日 看護師さんから聞きました。
麻酔から覚めにくい母を このまま待ってるのは 私の術後の体に負担がかかるから 帰って
休んだ方が良いこと、母も明日お昼頃には 覚醒するだろう事、12月に入り 寒さが増し
抵抗力の低くなってる私が 風邪などひかぬよう 病院への出入りは極力注意してくださいと
ご配慮ある お言葉までかけてくださいました。
手術室に向かってから 11時間 、予定の 8時間を大幅に遅れて終了した 母の手術。執刀した
T先生はじめ皆様のおかげで 生体弁をいれることができ ワーファリンを使用する事なく
現在も生活することができる母です。私のお目付け役として共に移動してくれます。
今 改めて思うこと。執刀する先生方は 極限まで できることはしてくださると思いました。
でも 無理と判断されたときは 患者の負担になるような事は 極力 避けられる ということ。
今更ながら もうすぐ 2年が経過します。 6時間はかかると言われていた私の手術、それでも
途中心配で何度も状況をナースステーションに聞きにいった長男。順にお昼を取ろうと
していた矢先 " 患者様が病室に戻ります "と告げられたのは わずか 4時間が過ぎた頃でした。
長くなると思ってた手術がわずか 4時間。早く終わった事を良いととらえるか、あのときは
わからなかった と のちに 妹は言いました。術後の説明で家族に 先生がおっしゃったこと。
今は縫合し麻酔から覚めにくいので様子をみていること。子宮は取り出すことができず
崩れてしまったこと、膀胱に浸潤があったこと、膀胱を取り出すことも検討したが QOL を
考え残したこと、癌を取りきれず残っている事 患者様はすべて知りたい希望なので後日、
手術の事は おはなしします、今日話しても麻酔で朦朧としてるでしょうから。 このままだと
年内 生きるのは 無理な事 この事は伏せます、今後は抗がん剤投与での治療を薦めます。
その間にも再発はあり得ますって。
先生の予想に反し 当日に女医先生に聞いた私。案外 しっかり聞きましたでしょ⤴
そんな私は もうすぐ 2年が経とうとしている。残していただいた膀胱も ちゃんと
機能してくれてる。不調な事もたくさん あるけど 生きてる事が 不思議なくらいな状況
だったんだな~なんて思います。主治医の AR 先生は 相変わらず 鉄仮面だけど 腕は信じてる。
長ーく 書いてしまいましたが 順次 当時の事を書き記していきたいと思います。