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世界が日本化している

遠近法も陰影もですね、画面に物があらわれる効果に、非常に有力な技法ですよね。だからそれがルネッサンス以来開発されて非常に使うようになった、ヨーロッパ人はね。でもそれは技法だけの問題じゃなくてね、もうひとつは、あれだとおもうんだなー、

絵画ってのは現実把握の手段だったと思うんですよ。人間を中心とした世界の構造を把握することが絵画の目的だったと思うんですよ。
で、どうして人間を中心とする世界を表現したり理解することが必要だったかっていうと、
それは神の創造物だったからですよ。被造物だから。創造したのは神だから、神を直接知ることは出来なくても、被造物すなわち自然だな、を研究すれば神に無限に近づけるんだという考え方があるわけね。
んでそれが自然神学の一番基本的な動機っていうか原理であって、自然の秩序は神の創った秩序だ、だからそれを知る必要があるってなるわけ。
それはないんだな。

高畑勲「日本にはね」

それはない。

人間は被造物だから。彼らにとってはね。だけどそういう考え方はないんですね。
神に似せて創ったわけだからアダムとエヴァで。だから大事なわけでしょ、動物よりも。だけどこちらにはないんだ、動物より人間の方が尊いんだという絶対的な基準はないですよ。日本の哲学にはね。それは動物と仲良くして結構なんだけど(笑)、ある意味では。。だけどキリスト教の世界とはちょっと違うんだね。

そこで、世界を理解するためにどうするかってことで、そのための非常に有力な武器であるから使ったんだという、陰影法にしても遠近法にしても、そうじゃないかと思うんですよ。で、結局、究極的に神の創ったもんだ、全てあるものは。。。

それは(日本には)ないんだな。で、そーすっとねー、ちょっとそーいうと酷かもしれないけど、三十三間堂通し絵とかね歌舞伎の劇場の中の浮き絵とかなんだってのは、あれは道楽ですよ。そーいう意味でhedonism、道楽じゃないか思うんですよ。

本当はね、つまり哲学的背景はわかんなかったんじゃないかな。何故遠近法があんなに大事なのかっていうことを。ピエルデロ・フランチェスカからね、どうしてピエルデロ・フランチェスカが興味をもっていたかということ、面白いってことはありますよ、勿論。だけどそれだけじゃないんですよね。
世界の構造を表したかったんでしょ?だからそういうことがないんですね。

高畑勲「逆に現代になってみると、日本の昔やっていたことが非常に通用するんじゃないでしょうか」

そーですよ。だからそれが大問題なんで、今でも生きて。。。今でも生きてるどころか中心的問題かもしれないですよ。
だから西洋文化との接触の中にそーいう要素があるんですよ。

で、頭がいいでしょ。それから器用でしょ。ことに造形的な才能のある人種っていうか国民でしょ。
だから非常に巧く出来て、物凄く楽しめるのよ。

だから北斎も漫画ですよ。あー面白いって、こんなに色々形になるっていう。ね?(笑)。結局サーカスみたいなもんで。だけど面白い以上ではないわけなんでね。

高畑勲「でも現代の人はその面白いのを求めてるんじゃないでしょうか。現代人が物事の全体を把握するんじゃなくて、ちょうど日本で現在主義だったように、そういう人間が世界的に増えてきてるんじゃないでしょうか」

ちょっと、そのー、世界が日本化しているような所があるでしょう。だから大変歓迎するでしょ。日本の芸術が世界的になったって、そりゃ確かに歓迎されてるんだけども、何故歓迎されてるかって言えば世界の方が日本化しちゃってる。ただ遊ぼうってね。神様はあまり(笑って手をパッパとはらう動作をする)好きでなくなっちゃったんだと、そういう感じが大変するんだね。

ある見方ですとね、あのー、どうして、そのー(色々深く考えてる様子)湯川秀樹先生の話なんですがね、そのー、日本では数学が発展しなかった。

で、中国でもある程度そうなんですけど、日本でも殊に、ね。

で、関孝和(1642~1708)なんて人は偉い人だったんだけど、子供にも教えてるでしょ、本当に偉い人らしいんでね。17世紀の西洋よりも遅れてはいなかったんで。円周率の計算だかをしたわけだけど、ただね、関孝和は勿論天才なんだけど、驚くべき天才的な遊びに、つまり、今のような意味でね、知的道楽を楽しむってんだけど。

物凄く頭のいいやつが、知的道楽を楽しんだら、ああいう風に関孝和の和算・数学ができた。ところがですね、17世紀の、まあ色んな人がいるけど、そのニュートンにしても、西洋の数学はね、道楽じゃないんだね、ただ。手品やなんかとおんなじで、面白いからやってんじゃなくて、そうじゃなくて矢張り、その人間精神の働きは、ある規則があって、その規則はどういう規則なんだろうってなことでね、やはり人間を理解するためとか、世界を理解するためっていうことが随分あったらしいんですよ。

だからある時、それは湯川さんの話で、数学と経験的な知識とが結びつく。経験的な知識を数学的に表現することができれば、もっと精密でもっと本質的な自然法則がつかみやすくなるんじゃないかというね。
ことに、だから彼の数学的関心てのは、結局つまるところ、世界理解の関心だ。


で、面白い問題はね、たくさん数学の中にあって、凄く頭のいいやつが解けば、ずいぶん本人は楽しめる。だけど楽しむことが近代の数学の出発点じゃなかったんだと言われてたですけどね、湯川さんは。

それは話だけどね、雑談みたいなものだったんだけど。だけど、そういうことと見合うと思うんだ。僕はその時あれのことを思ったな、つまり日本でも一流の芸術家になると、たとえばあのー、円山応挙。応挙になると、簡単に道楽・・・彼にとって絵画は、商売もあったでしょうし、道楽もあったかもしれないけれど、ただそれだけじゃなかったと思うんですね。本当の芸術家ですよね。やはり。

だからそういう人たちがいるんだけど、一方ではだから、浮世をね、楽しむようなメガネにレンズを入れてやれば、もっと立体的にみえて、立体的にみえることが面白いっつったわけ。江戸の人は。

で、レオナルド・ダ・ヴィンチは面白いって言ったわけじゃないんだ。だから、世界は人間とは何かっていう問いに答えようって言ったんだ。彼は。だからそれは大きな違いじゃないかしらね。
そうですよ、今だっておんなじですよ。そんなに変わらない(笑)。

「オリンコーラ万歳 」

今を去る百年前1896年に、現代史上記念すべき二つの事件がおこった。アテネでは近代オリンピック競技が、古代ギリシャのそれに倣って、はじめて行われた。米国南部の町アトランタでは、コカコーラの会社が創立された。国際オリンピック委員会(IOC)は、その二つの百年祭を調和させようと望んだらしい。そこで史上最大の人とカネを集め、アトランタ大会、俗にいわゆるオリンコーラ大会となった。

時あたかもスポーツ興行の全盛時代、IOCもすでに早くアマチュア主義の原則を廃している。しかも場所柄が聖なる自由市場と「民活」の本山、大企業の投資と広告宣伝活動がそこに集中するのはあたりまえだろう。四年に一度の国際的見世物には、次第にカネがかかるようになってきた。1984年ロス・アンジェレスでは、二億ドル以上、1988年ソウルでは四億以上、1992年バルセロナでは、六億、1996年アトランタでは八億を超えるという。


それほどカネのかかった見世物は、さすがにTVで見てもおもしろい、――というよりも、はじめからTV向きに仕掛けられている。若い人間の身体とその動きの大写し、英雄または「スター」が生まれる劇的な瞬間、常人の身体的能力を超えてほとんど超現実的な軽業・・・・すべては画面効果が素晴らしく、出演者には身体的および心理的な可能性の限界だろう。


しかしそれだけではなく、選手たちには「お国のため」という圧力も加わる。そもそも19世紀末のヨーロッパで国民国家の概念の新鮮であった頃、クーベルタン男爵が近代オリンピックを発案したときに考えたのは、諸国民が戦場で殺し合う代わりに、競技場に集まってスポーツの勝敗を争うことであった。その祭典は制度化されて一種の「身体的宗教」となり、聖職者(=IOC)に運営され、高度に儀式化され、英雄または聖者(=金メダリスト)を生みだし、もはや世界の平和を保障しない伝統的宗教の代わりに、諸国民の融和へ向かう市民宗教となるだろう、――と彼は空想していたらしい。しかし競技に参加するのは、個人ではなくて国民=国家の代表である。オリンピックは、古代にそうであったように、近代でも「政治化」しないはずはなかった。


国家間のメダル獲得競争は、オリンピックを「成功」させると同時に、競技場を国力誇示の場とする。さらには政治的ボイコットやテロリズムにまで到らざるを得ないだろう。代表選手に対しては、「ナショナリズム」の圧力が途方もない個人的犠牲を強いる。

私はTVの画面を見ながら日本選手の勝敗に一喜一憂し、かねていくつかの新聞の記事を拾い読みした。そして商業主義とナショナリズム、自由市場と国家権力がつくりだす大がかりな見世物に感心しながら、その人権侵害との関係を考えた。たとえば未成年者の訓練と、「ドーピング」である。

私は空中に舞う少女の優美な動きに感心しながら、子供の頃見たもの悲しいサーカス小屋の曲技を想い出した。メダル獲得のためには、子供の生活の、ほとんどあらゆる面が犠牲にされてきたにちがいない。あの少女たちの将来はどうなるのか。IOCは参加者の年齢を制限し、――現に古代ギリシャでは成人の競技と少年の競技を別建てにしていたらしい――、未成年者の強制労働を排すべきではないだろうか。


「ドーピング」は、発見されれば失格を意味する。しかし筋力を増し、耐久力を強め、その他競技において選手を有利にする。勝敗はわずかな体力の差によって決まることが多いから、選手の側では適当な薬剤やホルモンを適当な時期に用い、検査をごまかすためにあらゆる工夫をこらす。検査をする側も、検査方法や装置を改良して発見に努める。「いたちごっこ」の結果や如何。

一説によれば、アトランタでは参加選手のおそらく75パーセント以上がドーピングをかくし了(おお)せたらしい(英国代表団付医者の一人のBBCでの証言)。あるドイツ人記者はそのような状況を、見事な対句に要約していた。曰く「ドーピングなければ、成果なし。ドーピングあれば、倫理なし」(Die Zeit , 21 Juli ,1996)。

自ら獲得したメダルを叩き売ったチェコの選手(小児科医でもある由)の感想はこうである。「最近の五輪はスポーツマンのためではなく、政治家やスポンサーのための大会になってしまった。カネだけが問題になっている」(『朝日新聞』1996年8月7日)



そのあとには、何が残るのだろうか。

アトランタの貧しい地区にある教会の牧師は、「大会はいちばん富んだ人々だけをさらに富ませるだろう」と言った(Le Monde , 19 juillet , 1996)。オリンピック施設の地区から消えたといわれるあの「ホームレス」の人々は、どこへ行ったのだろうか。

オリンピックは現代の鏡になった。世界には世界自身の鮮やかなイメージが残るだろう。政治家やスポンサー、カネだけが問題なのは、何もスポーツ興行にかぎったことではない。爆弾が、あるいは毒ガスが、罪のない多数の市民を無差別に殺傷するのはアトランタの公園においてだけではない。操作された「ナショナリズム」が集団ヒステリーに近づく過程、事件をTVが報道するのではなくTVが事件のリズムを決定する状況、また殊にもっと早く走りもっと高く飛びたいという単純で激しい情熱、そこから生じる競争、競争のための効率主義、――そういうことの全ては競技場だけにあるのではない。


たしかにクーベルタン男爵の夢は消えた。スポーツと世界平和の関係は、サラエヴォのオリンピックと旧ユーゴスラヴィア紛争との関係に似ている。すなわち限りなくゼロに近い。今日Prague(ぷらーは)の小児科医がスポーツをあそびと健康のための活動と考えたとすれば、その考えはオリンピックのスポーツ興行とは何の関係もない。たとえ彼自身の身体的能力が例外的に優れ、メダルを獲得したとしても。

今やオリンピックは、あそびではなく戦いであり、健康破壊の洗練された制度である。しかし失うものなくして得るものはないだろう。平和の夢と健康とあそびの精神を失うことによって、オリンピック競技は遂に現代世界の縮図を得た。縮図または模型。模型の効用は、対象の理解である。

かくしてオリンコーラの大会は、現代世界の理解に貢献した。それこそは、世界記録の更新にも増して、素晴らしいことではないでしょうか。


1996年8月22日加藤周一さん著

辞は達するのみ

性相近し、習い相遠し(せいあいちかし、ならいあいとおし



子日、辞達而己矣。