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悟りという気付きにも様々あるが

あなたの体験無くして

悟りは得られないという事をまず述べておこう


人づてに聞いた話や

あらゆる媒体からの情報によって

思考が転化したとしても

それは認知の領域であり

悟りには当てはまらない


例えば、宗教に入信して

神という高尚な存在を信じ

その教示を得たとしても

それを認知しただけなのである


当然の事ながら、知識を深める事は

悟りを啓くには必須の要素である為

知識欲を否定はしない


だがしかし、

『悟り』と『認知』は混同されがちである


その混同によって

認知を悟りと錯覚し、認知の領域で

思考や行動が停滞する事が危ぶまれる


あなたの求めるべき悟りとは

既存の知識を収集し、暗記する事ではなく

あなたの行動や体験を経た後の

魂の記憶である


その行動に、エネルギーを費やす程

そこから得られる悟りは

独特かつ崇高なものとなる


極論を言えば、そこに注ぐエネルギーは

光でも闇でも良い


しかし、一度闇を注いでしまうと

そこから光の側に転換するには

認知のきっかけとなる出来事と

遭遇しなければならない


それには多大な時間を要する為

本来悟るべき悟りの段階に

行き着くまでの道のりが遠くなってしまう


その回り道をするには、人の一生は短い


それを本能的に知ってか知らずか

社会の厳罰が寛容である若い時期に

闇を知ろうとする者は多い


若気の至りとはまさにそれであり

本人の人生に於いて

その失敗から得る悟りが必要であったという事だ


仏の様に欲を捨て、清く生きる事は

一見正しい生き方に見える


しかし、欲や怒りは悪だと頭ごなしに否定し

自分の闇の部分から目を背け

光の部分だけを愛でるよりも

内から沸き起こる嫌悪感や嫉妬心があるならば

それと向き合い

己の恐ろしさと、浅はかさを

身をもって知る事が大切だ


悟りというものが

究極的な位置にあるとするならば

成功や幸福という境地と

失敗や不幸な事象も

意義としては同等である


食事に例えるならば

食べた物が美味しかろうと不味かろうと

生命の保全を第一に考えた場合

その食べ物の栄養価が

どれだけ身体の健全な維持に

貢献するかを重視する関係性と似ている


『良薬は口に苦し』という諺の概念は

精神の世界でも共有出来る


愛という名の光に包まれる瞬間を実感出来た時は

この上無い喜びを覚える


「生まれてきて良かった」という悟りは

究極的な答えであると共に

生命が存在する目的にも思える


だが、闇の存在を含めると

光の悟りは、全体の一部分にしか過ぎない


詰まり、常に光に照らされる必要は無いという事


成功を重ね

幸せを継続しなければならないという概念に

捕われなくて良いのだ


失敗や挫折もあって良い


時に、怒りや憎しみを抱いても良い


闇に包まれる事も、必要な悟りなのだから


ただし、自分が善と悪のどちらに浸っているのか

という自覚がなければ

光の側には転移する事が困難となる


その為に、己を客観的に見つめる

冷静な姿勢が必要であろう


平面的に知識を集めるだけではなく

知識を複合的に積み重ねて見識とし

見識を実践し、胆識として魂に刻む事


その為には、行動は不可欠だ


あなたの必要な悟りは

あなたの行動を基に始まる


思考だけでは、魂は成熟しない


知るは悟りに非ず


思う存分に光と闇を体験しようではないか


答えを出すのはその後だ