【事件概要】
1980年9月16日午前9時過ぎ、大阪府高石市にある建設会社の倉庫内で、少年が首を吊った状態で死亡しているのが発見された。
首吊りは、医学では「縊死」と呼ばれ、頚部 (首)を全体重をかけて圧迫することで血管内の血液の循環を阻害する。やがて血流がストップし、首から上にかけての血液が脳に行き届かなくなり、意識障害が起こり、やがて血液欠乏により死に至る。首を吊った瞬間の人間の顔が青ざめているのはそういうことである。
少年は、市立高石中学校に通う中学1年生の男子生徒であることが判明し、柔道部に所属していることが分かった。現場に遺書らしきものはなかったが、後の調べにより、自殺はいじめが原因であると断定された。
この少年の家族構成は、少年(以下、息子と記述)含め、両親、年上の姉、2人の妹の6人家族で、父親は自宅敷地内で建設会社を営んでいた。事件現場となった建設会社は父が経営していたものである。父親は息子に会社を継がせたいと思っており、息子も「大学に進んで、建築のことを学んで、会社を継ぎたい」と小学校の卒業文集に書いている。
【2学期のこと】
1980年9月1日、この日は中学校の始業式だった。2学期が始まる。しかし、息子は学校に行くのを渋った。両親は「もしかして、いじめられているのではないか?」と不安になったが、息子は嫌々ながらも登校している。
翌日の9月2日、息子が傷だらけで帰ってきた。顔が腫れており、擦り傷もあり、誰がどう見ても「誰かに殴られた」ということが容易に推測できる状態だったが、息子は「自転車で転んだだけ」と主張し、いじめの事実を認めなかった。
翌朝、息子は「頭が痛い」という理由で学校を休みたいと言い出した。あまりにも不自然である。さすがに何か理由があるはずだと両親が問いただすと、息子はいじめの事実を打ち明けた。前日の傷は、同級生たちにプロレスごっこをさせられた時に出来たものだという。さらに、6月頃から、小学校時代からの同級生数名から日常的に暴力を受けていることも打ち明けてくれた。結局、息子は3日、4日、5日と学校を欠席した。
9日、息子が久しぶりに元気に帰宅してきた。両親は「いじめがなくなったのかもしれない」と期待していたが、学校から「今日、登校していないようですが何かあったのですか」と連絡があった。息子にそのことについて言及すると、会社の倉庫で時間をつぶしていたという答えが返ってきた。いじめ解決のために学校では話し合いが行われていたが、話が進展しなかった。父は息子が登校拒否になったと思った。転校させることも考えたが、男である以上「もっと強い人間になってほしい」という思いがあり、頭を抱えてしまう。
14日と15日は、日曜日と敬老の日だったため2日間休みだった。14日に、父は気分転換にと息子を、南港の見本市に連れて行った。15日には叔父と百貨店に行き、プラモデルを買ってもらった。その日の夜はそのプラモを組み立てるなどしてそれなりに過ごしていたという。
【自殺】
9月16日火曜日、息子はいつものように学校を行くのを渋った。母が「早く行きなさい」と言うと、「学校に行きたい、こともないんや」とだけつぶやき、家を出ていった。しばらくして学校から「登校していないようですが」と連絡があった。母が、とりあえず息子がいつも隠れている会社の倉庫に行くと、息子は首を吊って命を絶っていた。
知らせを受けて担任が自宅に来た。すぐに蘇生処置がなされたが、心停止しており、手遅れに近い状態であった。その時、担任は何を思ったか突然家を飛び出していった。周りの人たちは「教え子が死んでしまったから、そのショックで後追いでもするんじゃないか」と動揺し、他の教師や警察が担任の捜索を開始したが、担任は泉大津の自宅に戻ってスーツに着替えていただけだった。その行動は、自分の生徒に対して「もうだめだな」と見捨てているに等しいということで遺族たちから反感を買った。
翌日、葬儀が執り行われたが、生前に息子が名指ししていた同級生たちは来なかった。18日、両親は学校に出向いた。いじめについて言及すると、教頭から「彼の死は個人的な性格が関係していたため学校側は手の打ちようがなかった」「学校としては出来る限りのことをやったつもり」という趣旨の返答が返ってきた。両親はひどく落ち込んで学校を出ていった。
息子の死因についてはっきりさせたい両親は、20日からいじめに加担していた生徒らを自宅に1人ずつ呼び出し、学校でどんないじめが行われていたのか突き止めようとした。すると、少しずつではあるが、いじめの内容が明らかになっていった。
【いじめの全容】
息子は小学校時代からの知り合い6人とよくつるんでいた。しかし、6人はいわゆる「不良」であり、母はその6人を良く思っていなかった。そのため、5月の家庭訪問で担任に対して「息子があの子たちに影響されて非行に走る可能性があるので、あの子たちの近くから引き離してください」と頼んでいる。
夏休みにおかしな出来事があった。ある生徒の名前で自宅に連絡があり、内容は「練習があるのに来てない。先生に呼べと言われた」というもの。息子は前述したように柔道部に所属していた。母が応対したが、聞いているうちにその電話の主が不良グループの一人だということが分かった。母はとっさに「息子を呼び出そうとしている」と思い、電話を切った。すると、しばらくして電話がかかってきた。母が再度電話を取ると「クソババア」とだけ返事が返ってきた。そして、電話は切れた。
9月6日、父は息子を連れて学校に出向いた。担任に対して「息子がどうやらいじめられているようだ。学校側でちゃんと調べてほしい」と説明している。父から事情を聞いた担任は「双方の話を聞いて、適切な処置を取りたいと思う」と返答し、しばらく父と担任は個室で話をした。その間、息子は不良グループにつかまり、教室の前で「明日までに2万持ってこい」と恐喝に遭っていた。
自宅での聞き取り調査でわかったいじめの内容は以下の通りである。
・写生大会にて、筆とパレットを洗い、絵の具の混ざったバケツの水を「飲め」と命令した。息子は泣いていたが、お構いなしに強引に飲ませた。
・お昼休み、息子のお弁当につばを吐いた。
・ゲーセン代、飲食をするためにカツアゲしたり、現金がない場合は「カネ持ってこい」と脅しをかけ、その都度現金を持ってこさせていた。総額は20万円以上にのぼる。
また、息子が関わる以前にも同様のいじめを受けていた生徒がおり、金銭を要求されていた。その生徒は1980年6月頃に、いじめから逃れるために隣町の堺市に転校している。いじめの対象がいなくなったことで、息子に目をつけるようになった。息子が明かした「6月頃からいじめられている」という証言と一致する。
いじめの内容を知り、両親は警察署に相談した。死から11日後の9月27日、新聞社が「いじめ、恐喝による自殺」と報道した。その日、教頭が教師数人を引き連れて自宅に来た。父は「学校であったこと、どういう指導をしてきたのかについて報告書にまとめてほしい」と要望を出したが、教頭たちは良い返事をしなかった。
死から1か月後の10月16日、不良グループの3人が自宅にお焼香をあげに来た。不良たちは「おじさん、ごめんなさい」「二度とこんなことしません」と謝罪したが、両親の怒りは収まるはずもなかった。いくら謝罪されても、息子は帰って来ないのだから。その日、担任も「指導が出来ていなかった」と涙ながらに謝罪した。学校側は対策をあまり取っておらず、「やめとけよ」と軽く注意する程度だったという。担任はその後「生徒を死なせた教師」というレッテルを貼られ、教職員組合から批判されたため、組合を脱退した。
高石警察署は、いじめに加担した生徒6人のうち、5人を大阪府堺児童相談所に通告し、1人を訓戒処分とした。
【裁判】
1981年5月、両親は生徒6人とその保護者、高石市を相手取り、2200万円の損害賠償を求めた。1986年3月に和解し、生徒5人(1人は訴えを取り下げている)は連帯して200万円を支払うこととなり、高石市は「この出来事を今後の教育の場に生かしていきたい」とした...。
【このページのねらい】
この事件簿シリーズは二度と同じことが起こらないように、過去の出来事だと風化されないように「教訓」として文字化したものです。惨劇を繰り返さないように。
2021年2月3日、管理人
【最後に】
今年、大学授業が全てオンラインとなり、同級生と情報交換をする目的と趣味のつながりを広げるために今年5月からTwitterをはじめました。アメブロでは主に「事件もの」「視聴率」「音楽ランキング」を中心に記事を書いていますが、Twitterではいち大学生としての日常をツイートしています。下にリンクを貼っていますので、もしよろしければフォローしていただければ嬉しいです。
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