お待たせしました。あと2回で最終回です。最終章に突入しました。
ラストフレンズ
第10週 - 愛と死 -
ルカは宗佑と揉み合いになり、宗佑に胸をもまれた。ルカは必死に力をこめて宗佑を突き飛ばした。その時にガラススタンドとぶつかってガラスの破片が散らばった。
「あっ!」
宗佑がガラスの破片に手をついた瞬間に、その隙を見てルカは立ち上がって慌てて外へ飛び出した。
ルカは息を切らして早足で歩き、近くの洋服店の店頭に並んだシャツの中からとりあえず一枚取った。
「試着室借ります」
「ど...どうぞ」
店員にあからさまにギョッとされたが、かまわず試着室へ飛び込んだ。鏡に写った自分の姿とボロボロのシャツから見える胸を見て、恐怖と屈辱感が襲ってきて、ルカは唇を噛みしめて声を殺して泣いた。
タケルは取れてしまったマグカップの取っ手を修繕していた。左手でぎこちなく接着剤をつけてくっつける。
「よし」
「くっついた?」
ミチルにうなずいた時に「ただいま」といつもの調子でルカが帰ってきた。だが頬に切り傷がある。タケルがそれに気づいた。
「どうしたの、その傷?」
先にたずねたのはミチルだった。
「ああ...ちょっとバイクで転んじゃって。たいしたことないよ。あー、喉渇いた!」
ルカは冷蔵庫から飲み物を出して、立ったまま飲んだ。
「その傷、練習でやったんじゃないよな?」
タケルがたずねる。ルカに何かあったと確信していたからだ。
「何言ってんの、本当に転んだだけだからさあ」
ルカは笑い飛ばしているが、タケルは信じることが出来なかった。
ミチルはタケルが食事を採りやすいように自分なりに気を使っていた。今晩は生春巻きを中心にしたタイ料理を作ってあげた。
「サワディーカ!いかがですか?手作りのトムヤムクンは。シーフードサラダとエビ入り生春巻きもございますよって召し上がって!」
エリがミチルと一緒に料理を運んできた。エリはタイっぽい民族衣装を着ておもてなし。
「うん、これ美味しいね!」
オグリンが生春巻きをパクリ。
「ありがとう!これいいよ、片手で食べられるし」
タケルは料理を左手でつかんで食べ始めた。
「よく考えたね、ミチル」
ルカがミチルをほめるとミチルは微笑んだ。
「今度は是非ミチルちゃんのコスプレも見たいなあ」
「このロリコン親父!」
「親父っていうなよまだ30なんだからさ」
オグリンとエリの話を聞いていると玄関のチャイムが鳴った。
「...誰が出る?」
全員がビクッと反応し、オグリンがみんなの顔を見回した。
「すいません、滝川エリさんにお届け物です」
玄関から宅配便の配達員の声がしてみんな一安心。エリが立ち上がって玄関に出ていく。
「ごめんね。通販、私が頼んでたの」
「ヒヤッとしたなあ」
「すいませんでしたね」
通販の荷物を抱えたエリがリビングに戻ってきた。
「ごめんね」
ミチルがみんなに謝り始めた。
「私、やっぱりここを出る。どっかでひとりで...」
「馬鹿なこと言うなよ」
ルカがミチルの言葉をさえぎった。
「でも、私さえ出ていけば、みんなこんなにビクビクしなくてもすむから...」
「ミチルをひとりには出来ないよ」
ルカは真剣な顔でミチルを見つめた。
「あいつはしつこいからね。どんなことをしてでも、ミチルの居場所を突き止めるだろうし、そうなった時に、あんたがひとりだと危ない」
翌日、タケルとミチルはメイクスタジオに出向いた。
「やらせてもらえませんか?俺、頑張りますから!」
タケルは必死に頭を下げたが、
「頑張るったって...その手じゃどうにもならんだろう?すまないが、もう代わりも決めたから」
包帯を巻いた右手を見るなり社長は部屋から出ていってしまう。
「ごめんなさい、私...」
ミチルがとっさに自分のせいだと言おうとしたが、
「君のせいじゃないよ。負けちゃダメなんだ、こんなことで!」
タケルは自分に言い聞かせるように話を続けた。
「ミチルちゃんは何があっても、諦めて戻ったりしちゃダメだよ!それはルカを裏切ることになる。ルカは命がけで君を守ろうとしているんだから!」
その頃、宗佑は仕事帰りにいつもの公園を通っていた。思わず宗は足を止めた。何があったのかというと砂場で直也くんが母親と一緒に遊んでいたのだ。安心して通り過ぎようとしたところ、
「お兄ちゃん!」
直也くんが笑みを浮かべて走ってくる。
「一緒に遊ぼうよ」
「お母さんが帰ってきたんだから、もう寂しくないだろう?」
「でも、お兄ちゃんとも遊びたいよ」
「お兄ちゃんは、これから頑張って大切な人を取り戻すんだ」
口をとがらせる直也くんの目線までかがんだ宗佑は、彼の頭を優しくなでた。
「だから君は、お母さんを大切にして仲良くしなきゃダメだよ」
宗佑は直也くんに微笑み、歩き出した。
実は『性同一性障害』だった?
テーブルの上に広げられた週刊誌の衝撃的な内容にタケルは言葉を失った。たまたまコンビニに立ち寄ったエリが見つけて買ってきたらしい。
「なんでそんなこと。やっかみだとしてもひどすぎるよね...」
エリがため息をついた時、ルカが帰ってきた。
「あっ...」
エリはとっさに週刊誌をゴミ箱に捨てた。
「何やってんの?」
ルカはエリの不自然な動きに気づいた。
「いや...あの、その」
ゴミ箱から週刊誌を取って、パラパラめくっていると問題の記事が飛び込んできた。
「...ルカ?」
「全部嘘だから」
エリの問いかけにルカは固い表情で答えた。
「うん」
「ミチルに見せちゃダメだよ」
「わかった」
エリがうなずくと、ルカは雑誌を手に部屋に入っていった。タケルはしばらくしてから部屋を訪ねた。
「さっきのことだけど...ミチルちゃんに言わなくていいの?」
「何を?」
「自分自身のことを。自分の気持ち。ルカが何を思って生きてきたかってこと」
タケルの顔をルカは黙ってじっと見上げている。
「本当は一番わかってもらいたいのは、ミチルちゃんなんじゃないの?」
ミチルはオグリンと一緒に買い物に出かけ、クリーニング屋に寄って帰ってきた。オグリンが自分の部屋に戻っていくのを確認し、ミチルはクリーニングから戻ってきたルカの洋服を手に部屋に入ろうとした時に、中から話し声が聞こえてきた。
「ルカ?」タケルの声は深刻だった。
「ミチルには絶対に言えないよ。ミチルにだけは」
ルカが重い口を開き、話を始めた。
「ミチルと私は中学の時に会った。それから今まで、いい思い出がたくさんある。卒業間際になってミチルがいなくなって、もう二度と会えないのかと思ったら、目の前が真っ暗になった。出会えた時は嬉しかったよ。夢なんじゃないかなって思うぐらい。でも、怖かった」
「怖い?」
「ミチルは私のことを友だちとしか思っていない。でも私は違うから」
部屋の中が静まり返った。ミチルはどうすればよいか分からなくなった。
「最初から私の気持ちは、友情じゃ...友情だけじゃなかった。それを知ったらミチルは傷つくと思う。ミチルの心の中の真っ白い思い出が灰色になる」
ルカの言葉にミチルは思わずクリーニング袋を落とした。動揺し、そのまま外へ飛び出した。
いつの間にか井の頭公園にいた。ルカとの想い出の場所だ。高校時代にいつも悩みを聞いてもらった、宗佑に殴られて雨の夜に飛び出した時にルカは傘をさしかけてくれた。ルカはいつもミチルを助けてくれた。夜中にタケルと一緒に埠頭に行って夜景を見たりしたこともあった。
思えばミチルの良い想い出にはいつもルカの存在があった。シェアハウスで一緒に過ごした楽しい日々は、ミチルがルカに感じていた友情とは違うのか。ミチルは激しく混乱していた。宗佑に「こいつは男の目で君を見ている」と言われたことを思い出した。ルカを異常なまでに敵視する姿が理解できなかった。
ミチルはとぼとぼとシェアハウスに戻ってきた。
「おかえり!ごめんね。先にご飯食べちゃった」
エリがいつものように声をかけてくる。ミチルは気まずい思いでルカの顔を見ると、ルカはミチルを見ずに黙々とご飯を食べているが、タケルが心配そうにミチルを見ているのが分かった。
「ミチルちゃんも食べるよね?」
「あ...私、いいや」
ミチルは目を背けるように台所から出ていった。
深夜、タケルとルカは二人だけで話をしている。
「来週のレースが終わったら、やっぱりここを出ていくよ。今度こそいなくなるよ」
「ルカ...」
「だって、ミチルがここにいづらいじゃないか」
ルカは寂しげに笑った。
「こういうことにいつかなるかもって気がしてた。ミチルの前でごまかしたり、言い訳したくない。私はミチルに何も求めるつもりはないけど、ミチルのことを好きでいるのはやめられない。なら、こんな私をミチルが受け入れられないなら、私の方から消えるしかないだろ?」
ルカは涙ぐんでいた。タケルはつらくなった。
「...ルカ?俺は君とは別れない」
ルカの手にそっと手を置いた。
「ずっとルカの味方だから」
「何言ってんだよ今さら。友だちなのに別れるも別れないもないじゃん」
ルカはにっこりと微笑んだ。
この日、ルカはあまり寝付けなかった。夜が明け、ドアを開けるとタケルとミチルが台所で話しているところを見た。そっと隠れて様子を見てみる。
「心配しないで。彼のところに行くんじゃないから。しばらくお母さんのところに泊まろうと思って」
ミチルは大きなカバンを持っていた。シェアハウスを出ていくらしい。
「...ミチルちゃん?ルカは君をとても大切に思ってる。それを受け入れることは出来ない?」
「そうじゃないの」
ミチルはしばらく黙りこんだ。
「...どうしていいかわからないの。どんな顔でルカの顔見たらいいか。私はどうやったってルカの気持ちには応えられない。その溝をずっと見ているみたいでつらいの」
「...わかるけど」
「じゃあ」
ミチルはそれだけ言うと出ていった。
ミチルは久々にアパートに戻ってきた。玄関のチャイムを鳴らしたが応答がない。合鍵を取り出して中へ入ると、居間で母は恋人と思わしき男性とテレビを見て笑っていた。テーブルの上にはビールの缶が置いてある。
「お母さん?」
ミチルが声をかけると、母が驚いた表情で娘を見た。
「あらー、おかえり!珍しいねえ」
「今夜、泊まるね」
「うん、いいよ。でもいつまで?」
母は恋人と同棲しているらしい。部屋のあちこちに二人がだらしなく生活している痕跡があるからだ。ミチルはこの問いに答えられなかった。
その頃、ルカの父は書店にいた。雑誌コーナーに行き、ある週刊誌をめくりだした。女性モトクロス選手のとんでもない事実が載っていると同僚から聞いたからだ。
記事はすぐに見つかった。見たくない気持ちとは裏腹に食い入るように娘の記事を読んだ。父は記事を読み終わると、恐ろしいものを見たように乱暴に週刊誌を棚に戻して書店から立ち去った。
日本選手権を控え、調子を整えていくルカを監督が鼓舞する。
「よし!いい具合に仕上がってる。この調子でいけよ」
「はい!」
「いよいよだな、お前の夢の舞台。やれることは全部やった!あとは迷わず自分を信じていけ!」
「...はい」
ルカはためらいがちに返事をした。
「雑念は捨てろ!レースに集中していけ」
「はい!」
監督の言葉にハッとして、ルカは気合いを入れ直した。
更衣室で服に着替えたルカが帰ろうとしていると、練習場の入り口で父が待っていた。父は「顔が見たくなって」と笑っていたが、ルカはなぜ父がやってきたのかわかった。
二人はタケルのバーに行った。タケルは二人の様子を見て何かを察し、水割りを出してルカに目配せをし、奥に引っ込んだ。
「いよいよ、あさってか。どんな気分だ?」
父が聞いてくる。
「落ち着いてるよ。やることはやったし。目の前に大きな静かな海があって、あとは飛び込むだけって感じ」
「そうか」
「...ありがとうね、お父さん。お父さんのおかげで、私ここまで来れた」
ルカは改めて父に感謝の言葉を口にした。
「小さい時から私の味方だったよね。嫌なことはやらせようとしなかったし。やりたいことは力いっぱい応援してくれた」
「...幸せなのか?お前...満足してるのか?」
父は言葉を選ぶように言った。
「してるよ。好きなことで勝負してるんだもん。幸せに決まってんじゃん」
「そうか。なら、いいんだ」
「なんだよ」
ルカが笑みを浮かべたとき、父が本題を切り出した。父の眼は真剣だった。ルカは視線を手の中のグラスに戻し、話し始めた。
「お前、お父さんに何か言いたいことがあるんじゃないのか?」
「...ごめんねお父さん。私は普通の女の子とは違うんだ」
ルカの言葉を父は黙って聞いている。
「だから、お父さんが望むようなかたちでは幸せを見せてあげられない。結婚もしないし、子どもも生まない」
「でも、先のことはどうなるかわからないだろう?」
父は明らかに動揺している。
「わかってるんだ。私は男の人を好きにならない。いや、なれないんだ」
ルカはハッキリと答えた。
「でも心配しないで。私は私の道を行く。私のやり方で幸せになるから。それだけは約束するから」
「ルカ...」
「ごめんね。でも、お父さんにだけは知っててほしかった。これが本当の私だから」
「...そうか」
父はこみあげる涙をこらえ、前を向いた。
「俺はお前を応援するよ。親に出来ることはそれくらいだもんな」
「ありがとう、お父さん」
微笑みながらもルカは父を傷つけたことがつらかった。
閉店後、タケルはシェアハウスに帰る途中で、公園のベンチで父がひとり座っていることに気づいた。近くの自販機でお茶を買い、公園に入っていく。
「どうぞ」
父にお茶を渡してあげる。
「...ああ」
「たいぶ飲まれていたようなので」
「優しいんだな。...君が娘と付き合ってると思ったんだがな」
父は顔を上げて苦笑いを浮かべている。
「すみません。力不足で」
おどけて言ったが、タケルも苦しいのだ。
「力不足か。ハハッ」
父は無理して笑ったが、だんだん顔が暗くなっていき、泣き笑いの表情になった。
「小さい頃からルカは、スカートよりズボンが好きでね、夏になると短パンはいて川でザリガニ取ったり、山でセミ取ったり、泥んこになって男の子たちと遊びまわってた。活発で可愛い子だった。...可愛い娘だよ、俺にとっちゃ」
父は耐えきれなくなり泣き出した。タケルにも父の気持ちがよくわかる。タケルの目にも涙が浮かんできた。
ルカが全日本のレースに出発する日、シェアハウスの三人が玄関先で見送ってくれた。
「じゃあ明日。レース会場でね!」
「うん!」
微笑むエリにルカは笑顔でうなずいた。
「...ミチルちゃん、帰ってこなかったね」
「それは言わないの、オグリン!」
残念そうなオグリンに、エリは諭すように言い、ふたり揃って会社へ出勤していく。
「でもきっと、レースには来るよ」
「...そうかな」
「きっと来る」
タケルは不安な気持ちを隠せないルカに、強く、確信めいた口調で言った。
「じゃあ、行ってきます!」
ルカは深呼吸した後、笑顔で出発した。
「...エリちゃん、あれ」
エリたちが駅に向かう途中に、オグリンがギョッとした顔でエリの肩を叩いた。その視線の先には物陰に潜んで後をつけてくる宗佑の姿があった。二人に気づかれた宗佑は目をそらして逃げようとする。
「待ちなさいよ」
エリがツカツカと歩み寄っていく。
「...近くをうろついたり、乱暴したり、プレッシャーかけてるつもりかもしれないけど、私には効かないからね。可哀想だなって思うだけ。正直、そういうことしてると、ミチルちゃんの気持ちはどんどん冷めていくよ?」
エリはだんだん腹が立ってきた。
「しがみついてくる男なんて最低なんだから!少しは引くってこと覚えなさいよ!」
「エリちゃん、ちょっと...」
オグリンが止めに入ったが、エリは続けた。
「男なら引く。少し引いてミチルちゃんを楽にしてあげるの。何でそんなこともわかんないのよ!」
エリは仁王立ちで言い切ると、熱くなってしまったことに気づき、ハッとして一人で歩き出した。オグリンが慌ててついていく。
「あのさ...」
「他人事じゃないんだからね」
エリは立ち止まって振り向いた。
「男は人に頼ってばかりじゃダメってこと。オグリンもさ、もう奥さんとこ戻ったら?」
エリはそれだけ言うと、再び背を向けて歩き出した。
ミチルは実家に戻ったが、母は明らかに迷惑そうだった。夕方になると恋人が帰ってきて、母はイチャイチャしはじめる。嫌悪感にさいなまれながらも我慢していると、家の電話が鳴った。
「...ミチル?」
「宗佑...」
「洋服とかなくて、困ってるだろう?うちにある君の荷物まとめたんだ。一度来てくれないか?合鍵も返してほしいし」
宗佑はいたって普通の口調だった。
「今日、君の友達に言われたよ。男なら引けって。もう終わりにしようと思うんだ」
ミチルは一人で宗佑のマンションを訪ねた。インターホンを鳴らすと、彼がいつもの穏やかな表情で出迎えた。
「荷物、ここにまとめておいた」
部家の隅にミチルの服をまとめた紙袋が置いてある。
「ありがとう。じゃあもう行くね」
合鍵をダイニングテーブルに置いて帰ろうとすると、
「待って。今、コーヒー入れるから」
宗佑はマグカップを用意し、テーブルに置いた。気まずい思いでうつむいていると、ソファの足元にルカにあげたお守りが落ちていた。拾い上げると紐が切れていた。
ミチルは少し前にルカが頬に傷を作ってシェアハウスに帰ってきた日を思い出した。
「宗佑?ルカ、ここに来たの?」
「うん。来たよ」
宗佑は背中を向けたまま答えた。
「あいつが君を好きなのは知ってるだろ?」
ミチルは言葉を返せなかった。宗佑は淡々と続ける。
「初めてあいつを見た時に思ったんだ。僕らの仲を裂こうとするやつがいるとしたらこいつだって。思った通り、邪魔しにやってきた」
「...どういうこと?」
ミチルの中で恐ろしさと怒りが交差する。
「あいつバカなんだ。力ずくで君を守れると思ってる。力なんてないくせに」
ルカが命がけでミチルを守ろうとしていると言ったタケルの言葉を思い出した。ルカの言葉の意味がひしひしと胸に響いてくる。
「ルカは、なんて言ったの?」
「本当にミチルを愛しているのはこの私だ。だから絶対に渡さない。ミチルはあんたよりずっといい男を好きになりかけているから邪魔させないって」
雨に濡れているところを優しく傘を差しかけてくれたこと、病院で宗佑に殴られた時に捨て身でミチルを守ろうとしたこと、傷だらけでシェアハウスに駆け込んだ時に黙って抱きしめてくれたこと。ミチルはルカがどんなに自分を思ってくれていたのか、やっと解った。自分はルカの真意を誤解していたのだと実感した。
「あいつ、自分が男になったつもりで君を守るとかほざいてた。でも所詮は女だよ。上から押さえつけたら、ひとたまりもなかった」
「ルカに...何かしたの?」
「何もしちゃいないよ。ただ、あいつのプライドをへし折ってやっただけだ」
ミチルはこの部屋で起こったことを察した。宗佑は男としての力を誇示するためにルカを傷つけた。だんだん怒りが込み上げてきて、ミチルは宗佑の頬を思い切りひっぱたいた。彼女は泣きながら荷物を持って帰ろうとする。
「どこ行くんだ?」
「帰るんだよ!」
ミチルはドアの取っ手に手をかけた。
「帰る?どこに?」
「ルカたちのところに帰るの!」
「帰さない」
宗佑はミチルの腕を強くつかんできた。
「どうして?荷物をまとめてくれたんでしょう?鍵を返せって言ったのは宗佑だよ?」
「そんなのは...そうでもしなきゃ、君はここに来ないだろ?」
「...嘘ついたの?また嘘?」
宗佑は返す言葉がなくなり、ミチルを突き飛ばそうとしてきた。ミチルは必死で抵抗したが、男の力にはかなわなかった。宗佑が両手首を押さえつけてくる。
「やめて!もう私は、宗佑のものじゃないんだよ!」
ミチルは全力で宗佑の手を振り払い、玄関に置きっぱなしのカバンを取りに行くために走り出したが、思い切り蹴り飛ばされた。
「あいつらがどうなってもいいのか?」
宗佑の言葉にハッとして足を止めた。
「ミチル...君は誰にも渡さない」
宗佑はミチルの手を引っ張り、彼女を寝室のベッドに押し倒した。
「やめて!」
宗佑は何度もミチルを殴りつけた。彼女は悲鳴をあげていたが、興奮している彼には聞こえなかった。やり場のない感情を拳に込めてひたすらに殴り続けていた...。
どんなに泣いても叫んでももがいても、結局は無駄だった。ミチルは精根尽き果ててしまった。
「...宗佑?」
震える声で宗佑に問いかけた。
「...ひとつだけ約束して。私の友だちに、二度と手を出さないで」
ミチルは最後の力を振り絞り、続けた。
「ルカを傷つけないで。タケルくんを傷つけないで」
宗佑は黙って聞いていた。
「そう誓ってくれるなら、私、ここにいてあげる。宗佑と、何度でも、こうしてあげる」
宗佑はゆっくりと体を起こし、ミチルの顔を見つめた。彼の視線を感じながらミチルは涙をこぼした。宗佑は優しくその涙をぬぐった。
「何で泣くの?ミチル...泣きやんでよ」
言われれば言われるほど涙が止まらなかった。
「泣きやめよ!」
逆上して拳を振り上げようとしたが、目をつぶって顔を背けるミチルを見て、彼は殴るのをやめた。彼は震える手を見つめ、寝室を出ていった。
ふとミチルのカバンに目をやると、中に現像した写真が何十枚も入っている。それを出して見ると、そこにはシェアハウスでのミチルとルカたちの日々が写っている。
宗佑に内緒で埠頭に夜景を見に行った時の写真、タケルの仕事場で撮った写真、リビングでふざけているエリとオグリンの写真、ルカのレースの写真があった。そして、みんなに囲まれて幸せそうに笑っているミチルの写真が出てきた。屈託ない笑顔のミチルは、宗佑と出会った頃のミチルだった。いつからかミチルは宗佑の前でこんなふうに笑わなくなった。
宗佑に見せていたのは無理して笑う顔ばかりで、それ以外の顔は常にビクビクして、怯えて、涙を浮かべてばかりだった。そしてさっきは、今まで見たことないような憎悪の目で彼を睨みつけてきた。
写真に写るミチルはどれも笑顔で、どんなにシェアハウスで幸せだったのか、どんなにみんなを好きだったかが宗佑にも伝わってくる。宗佑は号泣し、こらえようとしたがこらえきれず、嗚咽を繰り返しながら体を震わせて泣き続けた。
その頃、ルカは全日本のレース会場でスタートの時を待っていた。スタートラインに他の選手たちとバイクを並べ、緊張しながら何度もハンドルを握り直した。
ルカが観客席のほうを見ると、いつものように父と母、弟が来てくれていた。ルカと目が合った父は「お前は大丈夫」と言わんばかりに大きくうなずいた。ルカはグッドサイン。
「ルカ、頑張って!」
エリも満面の笑みで手を振っている。隣にオグリンとタケルもいたが、ミチルの姿はなかった。ルカはタケルと目を合わせて大きくうなずいた。タケルもうなずき返してくる。ルカはホッとして目を閉じて集中した。
「ミチル、行くよ」
ルカは小さくつぶやき、その瞬間スタートの合図が鳴らされた。ルカはエンジンの爆音を響かせてコースへ飛び出した。
ミチルが目を開けると宗佑の姿がなかった。泣いたまま寝室で眠ってしまったことに気づき、体を起こして周囲を見回した。泣き腫らした目をこすり、朝陽の射すリビングへ向かった。
するとリビングのソファで仰向けで倒れている宗佑の足元が見えた。眠っているのかと思ったが、床に大きな空き箱と血のついたナイフが落ちていることに気づき、ミチルはその場に立ち尽くした。
何が起こったのか確かめるのが恐ろしかった。ミチルは宗佑の足元から上半身へと視線を移すと、宗佑は手首を切っていた。ミチルに着せるはずだったウエディングドレスを抱きしめて。溢れ出した血が純白のドレスを赤く染めていた。さっきの空き箱はドレスが入っていた箱だ。
「宗佑?」
何度呼びかけても宗佑は動かない。揺り動かしても目を開けない。すると、テーブルに一枚の便箋が置いてあることに気づいた。恐る恐る読んでみると...
さよなら ミチル 君を自由にしてあげるよ...
と書いてある。それは遺書だとすぐに分かった。ミチルは震える手で宗佑の頬を触ると、彼の頬はひんやりと冷たかった。ミチルは動転し、すぐに起きてくるはずだと必死に体を揺すったが、反応はもちろんない。そして、その否定が確信に変わった。
「宗佑!」
ミチルは宗佑の亡きがらを抱きしめて泣き叫んだ...。