事件概要

2001年3月31日、滋賀県大津市の平野小学校裏庭で16歳の少年が15歳と17歳の二人の少年らから暴行を受けて死亡する事件が起きた。被害者少年は中学生の頃に交通事故で左半身不随になった二級障害者手帳を持つ身体障害者である。

少年法の改正前日であったため、適切な処罰が下されなかったことで知られている。

1997年に神戸で起きた酒鬼薔薇事件や1999年に栃木県黒磯市で起きた教師惨殺事件など中学生による凶悪事件が問題視されていたことを受け、少年法を2001年4月1日より改正することが決定していた。


被害者少年について

99年8月に少年は交通事故に遭い、頭を強打して脳挫傷で重体になっている。最悪の場合、脳死が考えられる状態であったが低体温療法で一命を取り留めた。もともと少年は運動神経が良かったため、持ち前の頑張りでリハビリを懸命にこなして足を引きずりながらも歩けるようになった。

中学を卒業し、高校は昼間はリハビリに励むために定時制にした。少年は「全日制の学校に行って大学に行きたい」と強い勉強意欲を見せており、経済学を学ぶために京都工芸繊維大学を志望した。少年は勉学に励み、みごと全日制高校に合格する。しかし全日制高校が悲劇の引き金になるとは誰も想像しなかった。


集団リンチで死亡

少年の全日制高校転入を良く思わない人がいる。顔見知りのAとBが「合格祝いにカラオケでも行こうや」と少年を呼び出した。待ち合わせ場所として大津市立平野小学校を指定。

「友達が電話してきた。初めてのバイトの給料で合格祝いしてくれるんやって」
少年は何の疑いもなく素直に喜んだ。母は駅まで息子を送る途中でどんな友達なのか聞いたところ、「そのまま定時制に行ってたら一緒になるかもしれない人」と答えている。

少年が小学校に行くとAとBと取り巻き3人がいた。5人は「お前なんで全日制行くん?定時制に居りいや」と少年を校舎裏の給食搬入口のコンクリート台に連れていった。

「障害者のくせに生意気や」その場で少年に対するリンチが始まった。顔や頭、足や肩などを何十回も殴り、少年は顎がはずれ、顔は腫れ上がり始める。少年は殴られているうちに意識がもうろうとし抵抗できなくなったので、AとBが二人がかりで高さ60cmの台からバックドロップで頭から地面に叩きつけた。さらに別の場所でもバックドロップを2回行い、少年は泡を吹いて失禁してしまう。

「障害者やから生きてる価値ない」
「障害者やからすぐ狸寝入りするんや。小便まで垂らしやがって」
「プールに放り込んだれ」

少年はプールの水をぶっかけられ、リンチは1時間30分続いた。取り巻きが途中で「死ぬかもしれない」と怖くなって救急車を呼ぼうとするが、AとBから「そんなことしたらパクられるやろうが」と言われ制止させられた。AとBは少年を物陰に放り投げてパチンコへ行った。

Aが「俺とBでアイツしばいたんや。小便垂れて気絶して泡吹いとる」と自慢しているのを少年の友人が目撃している。友人は小学校に行き、変わり果てた少年を発見。すぐに少年の母親に連絡し、少年は大津市民病院に搬送された。既にリンチから3時間が経過していた。

市民病院のICUに搬送されたが医師は「助かる見込みは1%もない」と回復が絶望的であると告げている。待合室でAはアイスクリームを食べてソファで寝そべっていた。母親がリンチについて聞くと「ムカついたから」と答えている。

暴行から7日後、少年は急性硬膜下血腫のため最期に涙を流して亡くなった。大津市民病院は少年が生まれた場所であり、交通事故の時に搬送された場所であり、リハビリに励んだ場所である。


皮肉な少年法

Aは4月に定時制に入る予定だった。Bは内装作業員で補導歴は17回に及ぶ。リンチが3月31日に行われたので4月1日付から施行の新法が適応されず、AとBは刑事裁判なしで少年院へ。取り巻き3人は不起訴処分となった。

処分理由として「本件は検察官に送致することも考えられるが、少年には内省力があり、感受性も豊かで可塑性や教育可能性が認められると考慮して中等少年院に送致することにした」としている。

なお、少年院行きとなった一人が友人に宛てた手紙がある。本当に内省力があり、感受性が豊かなのか確認してもらいたい。

「ヒマヒマヒマヒマ。あいつなぐったん広まってる?」

「元気してる?どう、俺がいない1ヶ月間!さみしい?おもんない?俺も早く出て (個人名) ちゃんと遊びたいわ!毎日毎日早く家に帰りたいな!すげー家に帰りたいわ」

「俺な、前に(個人名)ちゃんからの手紙でな、あと2、3年入ってなあかんて書いたやんか。めっちゃブルーで死のうかなとか思っててんか。でも、今日の朝のオリエンテーションのテープで少年院入ってる期間は2年以内やってわかって頑張るぞ!って思てん。俺きわどいねん!初等と中等のあいだやねんなムズいやろ?でも初等も中等もあと2年で出てるらしい」


事件のその後

2001年8月、遺族は9500万円の損害賠償を求めて提訴。

2003年6月、少年院を出たAとBが和解協議の席に出席して初めて遺族に謝罪。母親は事件当時に息子が着ていたボロボロのシャツを二人に見せた。二人は号泣し、Aは泣きじゃくり、Bは「一生かけて償う」と頭を下げた。

7月、6000万円を支払うことで和解成立。

2004年1月、遺族は取り巻き3人とその保護者に対して3000万円の損害賠償を求めて提訴。

2006年5月、大津地裁の裁判長は訴えを棄却してきた。3人は見張り役をしていたことを否定し、「死亡予見性もなく通報義務もない」と主張。尋問に対しても「死ぬとは思わなかった」「自分が止めたら何されるか分からなかった」と証言している。裁判長は3人は直接暴行を加えておらず、助長したこともない、制止する法的義務はないと判断。


12月、大阪高裁は一審の地裁判決を支持し、「死の可能性は予知出来たが法的責任は負えない」として控訴を棄却。2008年2月にも最高裁に上告しているが「救護義務はなかった」とされ棄却された。


最後に (記事を閲覧して頂いた皆さまへ)

この「忘れてはならない事件」シリーズは、また同じような悲劇が起こらないように「戒め」「教訓」として考えてもらうものとして編集したものです。過ちを繰り返さないために。

2020年3月1日 管理人