1リットルの涙
第7週 - 私のいる場所 -
 
年が明け、家族みんなで神社で初詣をした。この神社は、病気平癒で有名なところで、車で2時間かけて向かった。
「家族みんなが幸せでありますように」
父が家族を代表して祈祷。
「お姉ちゃんの体が良くなりますように」
末っ子のリカも手をパンパンさせて頭を下げた。
 
この頃になると長距離移動には車椅子を使うようになっており、家族の介助がより必要になっていた。境内の段差もとても登れないため、父におぶってもらった。
「何だこんなの、俺は段差に慣れてるんだよ。昔ダンサーだったから!」
「町内会の盆踊りで鍛えたの?」
「盆踊りも世界的に見りゃ立派なダンスだろうよ」
父はいつもの調子で笑って冗談をかましている。
 
初詣から帰り、家の前で記念写真を撮ることにした。これは毎年やってることで池内家では恒例行事。おせちも煮しめや昆布締めといった本格的な母お手製のものでこれも毎年変わらない。亜矢のためにスプーンで食べられるように料理を柔らかくしたり、子供たちの食器も割れにくいプラスチックのものにしたりと配慮をするようになった。
 
1月8日、新学期が始まった。亜矢は車で登校して、マリと早希たちに手伝ってもらう。母が、荷台から車椅子を取り出すと二人は動揺を隠せなかったが、友達のためにサポートし続けた。
 
この日、進路希望の書類が配られた。この学校は公立ながら特殊で、2年次はクラス替えがないが進路ごとに授業が別になるという仕組みを取っている。
 
放課後に母の迎えを待つ間、理科室で徹朗と話になった。
「麻生くんはどうすんの?文系か理系か」
「何にも決めてないわ」
「そんな気がした。獣医とかは?だって動物のこと詳しいし」
「そんな先のことは分からんよ。池内は?」
「私は、今はひたすら他の人に何かしてもらってる立場だから...将来は人の役に立てる仕事がしたいかな」
「マザーテレサみたいだな」
「わりと本気なんだけど」
「へえ...」徹朗がニヤリ。
「やっぱり、あれじゃん。生きてるからには何か人の役に立ちたいじゃん」
徹朗の頭に誰かの顔が思い浮かんだ。
「前に、池内と同じこと言ってた人がいたよ」
「誰?」
「医者目指して医大に行って、親にすげェ期待されて、俺とは大違い」
「友達とか、そういう?」
「俺の兄貴...なんちゃって」
「また、嘘?」
徹朗が笑ってうなずいている。亜矢は微笑んで...
「お母さん迎えに来るから、そろそろ行くわ」
「ここで待ってればいいじゃん。車来るの見えるだろ」
理科室の窓は校門に面している。
「でも、邪魔になりそうだし」
「だったら...そこの水槽見ててよ。人の役に立ちたいんだろ?」
水槽には小さなメダカが泳いでいる。しばらくして母が迎えに来た。
 
「理科室な、お前の待合室にしてやるよ」
徹朗は亜矢を車椅子に乗せて廊下を進んでいく。
「...その代わり、手伝えってことでしょ?」
「正解!よく分かったな」
「...あ、ごめん。ちょっと待って」
亜矢は車椅子からおもむろに立ち上がり、廊下の床を踏んだ。旧校舎は老朽化していてギシギシと音がする。
「何してんだよ」
「私、どういうわけかこの音好きなんだ。学校来ると必ず踏むの。なんか挨拶してくれてるみたいで」
「...変なやつ」
徹朗が笑みを浮かべた。
 
その日の夜、両親と進路の話になる。
「亜矢はどうしたいの?」
「身体を使う仕事は無理だけど、将来、私にも何か出来ることあるよね?」
「当たり前だ。今は家の中でも出来る仕事だって多いんだぞ」
「お母さんから提案なんだけど、勉強頑張って翻訳とか校閲をするとか、資格取ってみるとか...」
「私、病気になって人の優しさがあったかくて嬉しかった。だから、いつか母さんみたいに人を支える仕事がしたいな」
「わかった。でも、焦ることないからな。お前の人生なんだ、じっくり決めるんだぞ」
亜矢は強くうなずいた。
 
授業でノートを取ろうとしてもが手が上手く使えないため早く書けない。そのため黒板の文字を消されそうになったら、マリが「まだ消さないで」と教師にその都度報告していた。そのためクラスの授業進行は遅く、生徒たちの不満が亜矢に集中し...
「...すいません。いいです、次に行ってください」
亜矢は気を使って頭を下げるようになった。マリも不憫だからとノートを亜矢に貸していた。
 
1月下旬、母は高校に呼び出された。教室に担任教師と教頭がいた。
「...担任としてこんなことを申し上げるのは非常につらいのですが、亜矢さんは新学年からもっと設備の整った学校に移られたほうがいいのではないかと
校舎は戦前に建てられたためバリアフリーになっておらず段差も多くて亜矢には少し厄介だった。学校側は養護学校へ転入して、相応の対応をしてもらったほうがいいと言い出した。
「今のように教室移動で苦労することもないでしょうし、他の生徒に負担をかけることもないでしょう」
担任もそんなことを言うのはつらかった。
「あの、娘はいつも友達に申し訳ないと思いながら、毎日毎日感謝して...」
「それは重々承知しております。ですが、クラスの何名からは授業が遅れて困るという声が出ているのです」
母は突然の話に動揺してしまう。
 
数日後に、母は主治医の水野医師にも相談している。
「確かに養護学校という選択もあります。町田市の養護学校に以前私が担当していた患者さんがいます。一度お会いになってみませんか?彼女は亜矢さんと年が近かったはずです。奥さん?養護学校に行くのはあくまで選択肢の一つです。今後も、学校以外のことで色々な選択を迫られることがあるでしょう。同じ病気の患者さんや家族の方と話をしてみるのも参考になるはずです」
 
水野は筑波医大に出向き、脊髄小脳変性症研究のための実験用ネズミを提供してもらった。教授とも連携を取り、治療法を模索していた。
 
1月末、亜矢はバスケ部退部を申し出た。そして部員たちにそれが告げられると...
「聞いてないよ、そんな話...」
マリが部室を飛び出して、車椅子で帰ろうとしていた亜矢のもとへ。
 
「何も言わないで辞めるとか、ひどくない?」
バスケのユニフォーム姿で息を切らして追いかけてきたマリに驚いてしまい、すぐに言葉が出なかった。
「バスケ部だよ。何で相談してくれないの?」
「...ごめん」
「亜矢が部活辞めるのは身体のこともあるし、しょうがないと思ってた。でも何で一言も言わずに辞めちゃうの?私に「どうすればいいかな」って一言言ってくれればよかったのに。私ってそんなに頼りないの?
「ごめん...そういうわけじゃなくて」
「...いいよ、もう」
彼女は走り去ってしまった。
 
母は町田の養護学校を訪ねた。その患者は及川明日美という18歳の女の子だった。彼女が不安げな母を優しく出迎え、校舎に入ると明日美の母が一礼してきた。明日美の母は自分と同じくらいの年齢だった。
「遠いところ、ようこそ」
「すいません...」
 
中庭で母親同士の会話になる。
「発病は娘が14歳の時でした。不治の病だなんて、自分が認めたくなかった。出来るだけ長く友達と一緒に普通の生活をさせてやりたかったんです」
養護学校は穏やかな空気が流れていた。
「亜矢さんは高校生でしたよね?」
「ええ、今年2年生になります」
「いちばん楽しいときですね。私は、養護学校より普通の高校に通わせた方が娘のためだと思っていました。だから、受け入れてくれる学校を全部回って、転校もさせました。でも、今は間違いだったと思っています」
「どうしてですか?」
「結局、養護学校に行きたくなかったのはなんです。もっと早く娘をここに連れてくるべきだった」
 
「また昔の話?
明日美が聞いていた。
「聞いてたの?」
「うん。地獄耳なんだから」
母はじっと明日美を見つめた。
「私、毎朝着替えに30分以上もかかるんです」
「...そうですか」
「でも、誰も助けてくれません。ここじゃ自分でやれることは自分でやることになってるから」
つたない発音で話を続ける。
「いくら時間があっても足りないんですけど、でも、そのぶん時間の大切さが分かるようになりました。病気のことを本当に受け入れられるようになったのは、ここに来てからです。確かに外の世界に比べたら、今生きてる世界は小さくて狭いけど、失ったものばかりじゃないです。病気になったのは不幸じゃなくて不便なだけ
明日美は笑みを浮かべてゆっくりと母に訴えかけた。
 
その日の夜、母は机で勉強している亜矢のもとへ。
「お母さん...今日ね」
「今日、マリとケンカしちゃった」
「え?」
「何も言わないでバスケ部辞めたから」
「...そう」
「先生に進路希望出してきたから」
母の表情が一変。
「授業は選択だけどクラスは持ち上がりでしょ?私がみんなと対等に出来るのは勉強しか残ってない。だから母さんに言われたように勉強頑張るね!」
「...そう」
母は何もかけてやる言葉がなかった。
 
次の日、亜矢は徹朗にもケンカの件を話している。
「部活辞めたくらいでいちいちケンカすんなよ」
「私、本当は悔しかったんだ。マリとは中学からずっとバスケしてきたから。マリにしてみれば裏切られた気持ちなんだよね。今まで何でも話してきた仲だから、怒るの無理ないよね」
「池内、俺に言ってることそのままアイツに言えばいいだろう。待ってるんじゃないの?」
 
この日の迎えは母だった。今日の夕食はすき焼きらしい。今月は豆腐の売れ行きが良く、思わぬ収穫があったからだ。
「いや...あの」
徹朗が渋ってきた。
「都合悪い?」
「お父さん...ご在宅ですか?」
 
「ガンガン食え!男はドンと食うんだよ。遠慮することないぞ?」
すき焼きがグツグツ煮えている。
「これが我が家自慢の豆腐だよ。うちのは原料からこだわってるからそこいらのスーパーの豆腐とは訳が違うんだ。これが焼き、そんで木綿、で絹ごしな」
徹朗は夕食に参加。器に豆腐が山盛り入っている。
「すき焼きだってのに豆腐ばっかりって!」
母が笑って豆腐に肉をかぶせた。
「いや、俺は別にケチで言ってるんじゃねェぞ?」
「...あっ、美味しいです」
「な、だろ?美味しいだろ?」
「すいません、至らない父で」
ヒロがふざけている。
「ドウモスイマセン...って至らないとは何だ」
「林家三平じゃん」アコも笑っている。
 
「麻生くんって将来、お父さんみたいに医者になるの?」
母が聞いてきた。
「いえ、まだ決めてないです」
「お兄さんがいるって聞いたけど、大学生?それとも、もう社会人?」
「お兄ちゃんホントにいたんだ」
亜矢がつぶやいた。
「兄は亡くなりました。2年前に」
「...え、そうなの?」
「水難事故で」
しばらく沈黙してしまう。
「...ごめんなさいね、知らなくて」
「だったら、あれだ。兄貴の分まで親孝行しないとな!」
父は徹朗の肩と腕を叩き...
「肉を食いなさい肉を!なんで豆腐ばっかり食ってんだ」
徹朗の器は豆腐と肉が山盛り。思わず苦笑い。
 
食後、亜矢と徹朗は縁側で話をした。ガンモちゃんが駆け回っている。
「大きくなったな。毎日豆腐食わされてるんだろ?」
「んなわけないじゃん」
「あの親父ならあり得るね。池内んち、いい家族だな」
「うん。私もそう思う」
「お前はちゃんと居場所あっていいな」
「え?」
徹朗は視線をガンモちゃんに移した。
「な?ガンモ」
 
次の日、亜矢はマリを校舎裏に呼び出した。
「マリ、あのね...」
「中学のとき、スリーポイントが決まらなくて二人で特訓したよね」
「...うん」
「初めて決まったとき、すごい嬉しかった。大会決勝覚えてる?」
「忘れもしない都大会!杉並体育館!最後のシュートで逆転されて、大泣きしてたよね」
「次の日、目がこんなに腫れて!」
マリが微笑む。
「私、中学の部活は亜矢がいたから辞めずに済んだんだよ」
「どういうこと?」
「先輩とウマが合わなくて...でも、亜矢が一緒にいてくれたから頑張れた。今頃言うなって感じだよね」
「いいや」
「あの時、亜矢が辞めるって聞いて、急に心細くなって、ついキツイこと言っちゃったの。ごめんね」
「私こそ、ごめんね」
「ねえ、バスケ辞めても友達だよね?」
「何言ってんの?当たり前じゃん」
二人はわだかまりが解けた。
 
家に帰ると、リカが家族の似顔絵を描いていた。上手なので絵を貼るためにテープを探していると、タンスの隅から何か書類が出てきた。パンフレットがあり、そこには受け入れ難い事実が書いてあった。亜矢はひどくショックを受けてしまう。
 
その日の夜、亜矢は両親に...
「養護学校行ってきたの?パンフレットあったから」
さっきの書類は養護学校の手引きだった。
「ああ...この間、行ってきた」
「折を見て、亜矢にも話しておこうと思ってたんだ」
両親の返答に、娘は険しい表情を浮かべた。
「水野先生に亜矢と同じ病気の患者さんを紹介されたの。亜矢より一つ上だけど、すごく明るくてしっかりした女の子で」
「父ちゃんと母ちゃんは、亜矢が将来を選べるように色んな選択肢を用意したいと考えてて...」
「自分の将来は自分で決めるから!」
亜矢は自分の気持ちを吐き出した。
「病気になったから部活とか辞めなきゃいけないのはしょうがないよ。他にも色んなことをあきらめてきたけど、それもしょうがないと思ってきた。みんなと同じようにいかないのもしょうがないことだよ。でも、それでもマリたちと一緒にいたいの。友達のいない場所なんて行きたくないの。友達までいなくなったら、私が私じゃなくなるから...だから、お願いします」
涙を浮かべ頭を下げた。
「...わかった。亜矢がいちばん亜矢らしくいられるのは今の高校なのね?」
母は微笑み....
「だったら、もう何も言わない。私も亜矢の将来は自分自身で決めてもらいたいから」
亜矢は微笑んだ。
 
数日後、亜矢はアコと一緒にバスケの新人戦を見に市立体育館へ行った。母は保護者会のために高校へ向かった。
「段差多いからキツイんじゃない?」
亜矢がニヤリ。
「別に。姉ちゃんの友達に出来て実の妹に出来ないことなんかないよ」
「ありがとうね」
試合前のマリたちが亜矢を見つけて駆けよってきた。
「はい、これ!みんなとお揃い!」
マリの手にはミサンガが。
「コートに入れなくても、亜矢は私たちのチームメイトだから。今日は亜矢のために勝つからね」
「うん。頑張って!」
亜矢は声援を精一杯送った。アコも微笑んで試合を見ている。
 
この頃、高校では保護者会が行われていた。その時に亜矢の話題になった。
「ちょうど池内さんがいらっしゃるので、よろしいですか?池内亜矢さんのことについて学校側は今後どう対処なさるおつもりですか?」
父兄から「授業が遅れると困る」「他クラスと差が出るのでは」と質問され...
「今後については、池内さんと現在話し合っているところです」
担任は頭を下げるしかなかった。母が申し訳なさそうに答える。
「皆さまには本当にご迷惑をおかけしています。娘もそれを充分理解しています。私どもとしましても、出来る限りのことはするつもりですので、どうか少しでも娘が本校にいられるように助けてやっていただけませんか?」
保護者たちから...
「充分やっているじゃないですか!現にうちの早希は二学期の成績が落ちたんですよ」
「もしうちの子がお手伝いしてる時に何かあったらと思うと心配で仕方ないんですよ。責任なんて取れません」
「池内さんが娘さんのことを思われるのと同じように私たちも我が子が心配なのです」
問い詰められてしまう。母は...
 
娘の病気は主治医の先生から
治療法のない不治の病だと言われました
いずれは 字を書くこと 一人で食事を採ること
話すことも難しくなるそうです
私も主人も 最初は信じられませんでした 
他の病院をまわったり 何冊も医学書を読んだり
何かの間違いじゃないかと思いたくて
でも、事実は覆りませんでした
娘に病気のことを話したときに言われました
なんで私なのって まだ15歳なのにって
娘はこれまでに 色んなことをあきらめてきました
休みの日に友達と遊ぶこと 大好きな部活動も
でも そんな娘が 学校に行くことだけは
本当に楽しみにしているんです
友達に会える!って 毎日笑顔で家を出るんです
このまま 高校にずっといられないことも
娘はわかっているはずです
ですから もう少し ほんの少しでもいい
娘に考える時間をいただきたいのです
どうか 自分で判断するまで 待って頂けませんか
いつか この学校を去るときに 
自分の将来は自分で決めたんだ って
胸を張って この高校から転校させてやりたいのです
親のワガママなのは重々承知しています
でも どうか よろしくお願いいたします
 
母は深々と頭を下げた。
 
「池内さん、確か保健師をなさってましたよね?
「...はい」
「そんなに娘さんをここに通わせたいのなら、あなたが側に付いていればいいじゃないですか」
「お仕事を辞めることは出来ないのですか?」
 
体育館にひびく ボールの音が好き
放課後の 静まりかえった教室も
窓から見える景色も 床のきしむ廊下も
休み時間のおしゃべりも みんな好き
迷惑をかけるだけかもしれない
何の役にも立てないかもしれない
 でも それでも 私はここにいたい
だってここが 私のいる場所だから
 
  
(参考・どらまのーとドラマレビュー)