1リットルの涙
第1週 - 15歳 ある青春のはじまり -
 
人間の脳には140億の神経細胞と その10倍もの
神経細胞を指示する細胞があります
それらの神経細胞は中枢神経と末梢神経に分類され
中枢神経は大脳、間脳、小脳、脳幹、脊髄に細分され
その中で小脳と脳幹、脊髄は身体を動かすための
大きな役割を果たしています
娘さんの病気は何らかの異変で小脳が萎縮し
そこに存在する様々な神経細胞が失われていくもの
...つまり、「壊れていく」と理解してください
最初はほとんど自覚症状は見られません
まず、歩行時にふらつきが見られるようになります
転倒も多くなって、自分と物の距離が取れなくなって
病状が進行するにつれ、上手く文字が書けなくなって
言葉を上手く話せなくなるんです
病状はゆっくりですが確実に進行します...
 
 
東京の下町で豆腐店を営む家庭があった。「池内豆腐店」。池内家は6人家族で、人情味あふれる職人気質の父、区の福祉課で働いている保健師の母、中2になる次女のアコ、小6になる長男のヒロ、今度幼稚園に入園する末っ子のリカ。この話のキーになるのは長女の今度高校生になる亜矢である。
 
豆腐屋の朝は早く、夜明け前から店頭に出す豆腐の下ごしらえをする。手伝いは家族全員で行うものだと母は決めていて、この日は亜矢の高校受験の日だったが関係なく仕事させた。父は「英単語の一つや二つ覚えた方がいい」と部屋に戻そうとする。
「ここまで来たらじたばたしないで腹をくくる!」
亜矢は笑顔で両親に微笑み、手伝い続けた。
 
次女のアコが起きてこない。父が起こしに行く。
「ほら、いつまで寝てるんだ。はーい、仕事だぞ」
「...うざいよ」
アコは第二反抗期真っ只中の中学生である。
「アコちゃん、朝ですよ起きてちょうだいねーっと」
「うざい!」
「何だとバカヤロー」
父はアコの布団をめくり、無理やり叩き起こした。
 
「毎朝毎朝うるさいね、これじゃ虐待だよ」
アコがボサボサの寝癖をつけて起きてきた。
「働かざる者食うべからず、文句言うな!」
「文句じゃないよ。ねー、おこづかい上げてよ!毎日1時間働いて毎月3000円?時給100円、ブラック企業だね」
「毎月必ずあげてるでしょう?何がブラックよ」
母が朝ごはんの支度をしながら娘の要望を軽く流す。
 
「俺は月1000円だから...」
ヒロが引き出しから電卓を取り出して時給に換算してみる。何故か掛け算をし、採算が合わない。
「あのね、時給換算は割り算でするんだよ」
「ヒロ、お前は豆腐屋の跡取り息子なんだ。そんな計算も出来なかったら商売なんか出来ないぞ」
ヒロにデコピン。
「亜矢、豆腐持ってきてくれる?」
母の声を聞き、亜矢は流しに浸しておいた豆腐を手ですくった。ボウルに移し替える時に手を滑らせて床にぶちまけてしまう。
「姉貴、もったいねー!」
「おちちゃった」
リカの発言にきょうだいが凍りつく。
「今日はそういう言葉を使っちゃいけないの」
母が説明。3歳の女の子に受験は分からない。
 
朝ごはんを食べてアコとヒロが学校に向かっていく。亜矢も玄関で靴を履いて出掛けようと動き出した。
「ちょっと忘れ物!受験票!そそっかしいんだから、これなかったら何にもならないでしょう...」
母が慌てて走ってきた。
「まったく誰に似たんだかな」
父がタバコを吸いながら亜矢のもとに。
「これ、お守りだ。持ってけ」
父は娘に内緒でお守りを買っていた。中身は...
「これ、商売繁盛って書いてるよ...」
「ふふっ、さすが親子ね」母がニコリ。
「ご利益は一緒だから持っていきなさい」
父は照れ笑い。
「うん。じゃ、行ってきます!」
亜矢は元気よく走り出していった。
 
亜矢は学区内トップの進学校である明和台東高校を受験する。しかし、通学バスの中で連日の徹夜勉強がたたり、つい寝過ごしてしまう。数分後に亜矢は自分の状況に気付き、とりあえず運賃を払い、高校まで全速力で走っていく。
 
高校の教室では入試問題が配られていた。吉岡マリという中学時代からの親友と受験しており、マリは亜矢が来ないことに関して心配を隠せなかった。
 
試験開始時刻が過ぎても、高校前の自転車置き場でたたずんでいる男子生徒がいた。
「ジエンドってことだよ...」
その生徒が受験票を破り捨てようとした時に背後から大きな音がした。振り向くとドミノ倒しになった自転車と女の子が倒れていた。亜矢が勢い余って転んでしまったのだ。
「痛って...」
亜矢は膝から血を出していた。
「勘弁してくれよ...」
二人で自転車を片付ける。
 
雨が降ってきた。亜矢の鞄からは受験票が見えていた。とっさに男子生徒は亜矢の手を引っ張り、高校の保健室へ。
 
亜矢は保健室で手当てをしてもらい、男子生徒は用が済んだので帰ろうとする。その時、教員が入ってきた。
「良かったな!二人にはここで受験してもらうことになったから」
「いいんですか!?」亜矢の目が輝く。
「でも、他の受験生と公平を保つために1時間目の終了時間は予定通りにするけど...いいな?」
「はい!ありがとうございます!」亜矢は一礼。
「いや、俺は...」男子生徒は困ってしまう。
「入試に遅れてまで人助けなんて中々出来ることじゃないぞ!偉い!」
「え、そんなんじゃ...」勝手に美談にされてしまう。
二人は保健室で高校入試を受けることになった。
 
父は自慢げに常連に「娘が名門校に入るかも」と言いふらしていた。浮かれてお釣りの採算を間違えてしまい、客のおばさんに「トンビが鷹を産むっていうか」と突っ込まれてしまう。
 
試験を終えて亜矢はマリと合流。マリに流れを話し、まだあの男の子がいたので話しかけた。
「本当にありがとうございました!」
「お前のせいで俺まで受けちゃっただろうよ」
亜矢には彼が何故そんなことを言うのか理解できなかった。
 
その日の夜、亜矢はそのことを家族に報告。
「男に助けてもらった?」父が食いつく。
「じゃ、遅刻したの?大丈夫だったの試験」
「うん。でも試験はちゃんと受けたから」
「男ってのは、どこのどいつだ?」
「姉ちゃんなら平気でしょ。時間がなくてもスラスラ解けるだろうし」
アコが嫌みを言う。
「でも半分くらいしか書けなかったんだよねェ...」
「でも、その男の子に感謝しなくちゃね」
「...そうだね。お礼言っておくね」
「感謝?その考え方、俺よく分からん。嫁入り前の娘が男と手をつないだんだぞ!」
「嫁入りじゃなくて男と手をつないだことがマズイんじゃねーの?」
ヒロに核心を突かれて、父は気まずそうに箸を進める。
「亜矢も、その男の子も受かってるといいね」
「落ちてたらどうしよう...」
「亜矢...弱気になるんじゃないぞ」
 
そして合格発表日。亜矢とマリは見事合格。二人に中学時代のバスケ部の先輩の河本さんが話しかけてきた。亜矢にとっては憧れの先輩だった。
「二人とも合格したんだ、おめでとう」
「ありがとうございます!」二人は一礼。
河本は同じバスケ部の友達と一緒にいた。
「池内、高校でもバスケするんだろ?」
「もちろんです!」
 
先輩たちが去ったあと、二人だけの会話になる。
「片想いしてるんでしょ?いい加減コクったら?」
「無理無理!」
「じゃあ、私が代わりに亜矢の気持ちを伝えて...」
「だめ!絶対にしないでね!」
「ほんと亜矢ってオクテなんだから...」
 
その日の夜、池内家では合格祝いのパーティー。
「良くやったぞ、さすが俺の娘だ!」
「父さん、東高校じゃなくて工業高校卒でしょ?」
アコの不機嫌な態度に父が睨みつける。
「おねえちゃんおめでとう」
リカが歯医者でもらったのを貯めていたあめ玉6粒を、ヒロは小遣いをはたいて買ったブローチをプレゼント。
「ありがとうね、みんな」
「ありがとうなんてよく言えるね。そんなのもらったって嬉しいわけないじゃん」
「嬉しいですよ?だってみんなが一生懸命選んで...」
「はいはい優等生」
「アコ、そんなことばっかり言わない!」
母に叱られた。
「なあ、アコ姉ちゃんは何あげんの?」
ヒロが聞く。
「あげるわけないじゃん。自分が欲しい服もろくに買えないのに。だいたい、みんなで合格合格って大騒ぎしちゃってバカみたい!」
「これは父ちゃんからのお祝いだ」
父は「AYA」と彫られた手作りの腕時計を差し出した。
「それと、アコにも特別ボーナスな」
「なに?お金?」アコの表情が一変。
父が差し出したのは現金ではなく、チューリップと「あこ」のアップリケが付いたTシャツだった。
「可愛いだろ?父ちゃんは昔、縫製工場でバイトしてたんだ」
年頃のアコはTシャツを受け取ろうとしない。
「本当にいろんなことやってんだね...」
「逆に言えば、何しても長続きしなかった...?」
「何を言うか。俺は自分に合った仕事を見つけるために妥協しなかったの!」
「モノは言い様だねェ」アコの冷たい言葉。
「でも色んな仕事して、やっと店を継いで豆腐を作りたい!」って心の底から思えるようになったんだから、それで良かったのよ」
母の言葉に父は気を良くして、Tシャツをアコに照らし合わせてみる。
「こんなダサいの着れないよ!」アコが部屋を出る。
「部屋着なら用途あるよね」亜矢が提案。
「えっ、家だけ?」父の表情が曇ってきた。
「寝るときに重宝するかもね」母も提案。
「セーターの下に着たら暖を取れるね」ヒロも提案。
「セーターの下?そんなにダサいの...?」
父は落ち込んで台所でタバコを吸いに行った。
 
「ねぇ、せっかくの合格祝いなんだから父さんにビール飲ませてあげよう」
亜矢が母に提案。父は医者から肝機能が悪くなっているため「あまり酒は控えるように」と言われていた。父が台所から母に懇願の眼差し。
「...しょうがないか。じゃあ1本だけね」
父が喜んで部屋に戻ってきた。
「いやー、亜矢のお酌。俺は幸せ者だなあ」
ビール瓶を持つ手が滑ってしまい、父の手にビールがかかる。
「私ってホントにそそっかしい!ごめんね!」
「いや、いいんだよ。母ちゃん、布巾ちょうだい」
母は亜矢の様子に少し不安を抱いた。
 
一方の男子生徒はというと、ひとり部屋にこもってベッドでラジオを聴いていた。その時、ノック音がする。
「遅くなってすまない。急なオペが入ってな。合格おめでとう」
父が部屋に入ってきた。彼は明和台東高校に合格していた。父は城南大学病院の執刀医であった。
「ありがとうございます」
彼は父の顔を見ない。
「これで私や圭輔の後輩だな」
圭輔とは彼の兄の事である。
「もう少し嬉しそうにしたら?」
母の問いに何も反応しない。
「変な子ね。合格発表にも見に行こうとしないし、合格したことは担任の先生から聞いたのよ」
母も部屋に入ってきた。
「自信がなかったのか?今日は食事に行くぞ、早く準備しなさい」
彼は両親と目を合わさなかった。二人が出ていった後に家族アルバムを手に取り、それを見ていく...
 
亜矢は高校関連の書類を見ていた。書類に書いてある文字が大きく歪んで見えた
「疲れてんのかな...」
彼女は目薬を差した後、あまり気に留めず、この日は早く寝た。
 
そして入学式当日。亜矢はブレザーに身を包み、父からもらった腕時計をはめた。両親は豆腐屋という仕事柄、入学式に行けない。父が...
「午後からやりゃいいだろう。今日は娘の大事な...」
「午後から開ける豆腐屋なんて聞いたことないよ」
母が却下。見かねた亜矢が...
「じゃあ、みんなで写真撮ろうよ!」
 
家の前で家族みんなを集めて記念写真。亜矢をセンターにして、父がシャッターを押す。
「亜矢、少し痩せた気がするぞ。食べてるか?」
「変なダイエットとかしてないよね?」母が聞く。
「してないよ」
「ならいいけど、今は体をつくる大事な時なのよ」
「分かってます」
一眼レフのタイマーをセットし、カメラの前で家族みんなで笑顔を作る。アコだけが不機嫌そうな顔をしている...。
 
「行ってきまーす!」子供たちが学校へ向かっていく。
「おう、気をつけてな」
父が言った途端に、亜矢がつまずいてしまう。
「言ってるそばからこれだよ。ばかだなあ」
 
亜矢の担任は西野良三先生という若い教員で、女子バスケ部の顧問であった。縁なのか受験日に保健室で受けさせてくれたのもこの先生だった。クラスはマリとあの男の子と一緒。この日は入学式だったが男の子は遅刻してきた。
「麻生、何で遅刻したんだ?」
ここで彼の名前が「麻生」ということが分かった。
「途中で女子高生が転んでケガをしてて、ほっとけなくて病院に連れていってあげました」
「お前も大変だな」
すれ違い様に、亜矢は麻生に会釈するも無視された。
「なぁ徹朗、今の話ってマジなやつ?」
彼の友達が小さい声で問いかける。
「ウソに決まってんだろ」
徹朗がニヤリ。
 
「変なの..」
亜矢はここで彼の名前が麻生徹朗であることが分かる。徹朗の第一印象は「変わったヤツ」であった。
 
西野は早速クラス委員を決めようとするが、いきなり過ぎて立候補する者はいない。ラチが明かないので出席番号の1と2の人を指名した。徹朗と亜矢の名字は「麻生」「池内」なので揃ってクラス委員になってしまう。
 
西野は二人に1カ月後に控えた合唱コンクールの指揮者決めと曲目を決めるように言い、教室を出た。
「とりあえず...指揮者を決めましょう」
亜矢が話を始めると、他の生徒から「クラス委員がやれよ」と意見が出た。
「じゃあ、多数決取ろう。指揮者は...名前、何?」
「池内です」
「池内さんに反対の人?」
徹朗がいきなり多数決を取って、亜矢を指揮者にしようとする。新学期初日でクラスメイトの顔を覚えていない人が大多数のため、誰も手を挙げない。
「そういうことだから。頼むね」
強引に指揮者になった亜矢は徹朗に文句を言おうとするも、徹朗はさっさと曲目を決めようと話を進めた。
「クラス委員が決めればいいと思います」
亜矢はあまりにもクラスが非協力的なのでやる気をなくしてしまう。
 
その日の夜、亜矢はそのことを家族に報告。
「男子のクラス委員なんか全然やる気ないの。ほら、あの子。入試の日に助けてくれた男の子」
「あの男!?」父が振り向く。
「同じクラスになったの?じゃあ、今度連れていらっしゃいよ」
母がご飯をよそっている。
「しょうがないな。豆腐の一丁でも食わしてやるか」
「この間はあんなに怒ってたのにね」
アコが食器をテーブルに並べる。
「だってしょうがないだろう。その男がいなきゃ亜矢も高校に入れなかったかもしれないんだからさァ」
「合唱コンクールの指揮者まで私に押し付けるの」
「本当か?うちの娘が大観衆の前で指揮棒振るのか!」
「マジかよスゲーじゃん!」
父とヒロは大喜び。
 
この日の夕食は豆腐ハンバーグとサラダだった。亜矢は箸でハンバーグをつかめずに手こずる食器と箸がカチャカチャと当たる音がする。
「おねえちゃん、へたくそだね」
リカが笑っている。
「ホントだね。リカの方が上手かもね。さ、食べよう」
母はその光景を見て不安を覚えた。ビール瓶を持てなかったこと、箸でものをつかめなかったこと...
 
夕食後に母が亜矢に「病院行った方がいいかも」と話をぶつけた。
「え、なんで?」
「ちょっと気になるの。最近よく物を落としたり、よく転んだり...」
「たぶん疲れてるだけだって。寝たら治るよ」
「うん...でもねェ...」
「驚かさないでよ。保健師やってる母さんにそんなこと言われたら怖いよ」
「おどかすわけじゃないけどね...」
「そこまで言うなら、母さんの顔を立てて病院行ってあげてもいいけどね」
「そう...じゃあ、そうしてくれる?その方が安心できるからね」
大丈夫。私まだ15だから
亜矢は微笑む。
 
次の日の学校...
「あの、冨田さんだよね。合唱コンクールの伴奏をお願いしたいんだけど...」
冨田さんは昨日「クラス委員がやれよ」と言った生徒だった。
「え、他の人にやってもらってよ」
「でも、うちのクラスでピアノ弾けるの冨田さんしかいないんだけど...」
「クラス委員がやれば?」
「指揮と伴奏なんか同時に出来ないよ。隠し芸じゃあるまいし」
亜矢の反論にイラっとした冨田は部屋を出ていってしまう。徹朗の方を向くと、彼は面倒くさそうに寝たフリをして動かない。
 
亜矢は放課後、バスケ部の体験入部に行った。亜矢含め新入部員は8人。先輩部員らが手始めに実力確認のため、一人ずつパス回しを行わせた。
「よろしくね!私、バスケって初めてなんだ」
亜矢とマリに、同じクラスの松村早希が話しかけてきた。
「次、池内!」
亜矢の番が回ってきた。持ち前の運動神経を生かしてシュートをバンバン決めていく。
 
徹朗は生物研究会に入部を決めていた。
「なぁ、なんで生物研究とかそんなの選んだんだよ」
中学からの友達の恩田耕平に質問された。
「部長が女で、美人なんだよ」
耕平は「美人」につられて徹朗と一緒に理科室へ。
「君たちも生物に興味あるんですね。よろしく」
部長は女子ではなく男子。耕平は口を開けて呆然、徹朗は勝手に椅子に座ってくつろぎはじめた。
 
次の日、アコが寝坊してしまう。母が思わず...
「少し甘え過ぎなんじゃないの、亜矢が中学生の頃はね...」
「どうせ私はお姉ちゃんと違って出来損ないの落ちこぼれですよ!」
「そんなこと言ってないと思うけど...」
亜矢は居間で朝ごはんを食べていた。妹を諭す。
「何よ、いつも良い子ぶって!姉ちゃんなんかいなきゃ良かったのよ!」
アコは捨て台詞を吐き、制服に着替えるために子供部屋に入っていった。
「朝から何なの...」
さすがに亜矢もイライラ。
 
亜矢は家を元気よく飛び出して行ったが、いきなり足がもつれて転倒してしまう。
「亜矢、大丈夫か?」
店の前で配達車を磨いていた父が駆け寄ると、亜矢は下を向いて泣いていた。よく見ると顎をコンクリートに打ち付けて出血していた。
「母ちゃん!救急車!」
母が飛び出してきた。とりあえず怪我の具合を見て、タオルで傷口をおさえた。
「...とりあえず、私が病院連れていくから」
母は車を借り、娘と一緒に病院へ向かっていった。
 
城南大学附属病院に着いた親子は待合室で少し待つことに。そのときに娘の手が無傷であることに気づき、母の不安がいっそう高まってきた。
 
亜矢はとりあえず消毒してもらい、絆創膏を貼って診察室から出てきた。
「あれ?麻生くん...」
診察室の前の長椅子に徹朗が座っていた。父の忘れ物を届けるために病院に来ており、用件を済ませたので少し休憩していた。
「何、その顔」
徹朗が呆れた顔で顎を見ている。
「転んだの」
「お前、よく転ぶよな」
「麻生くん、どこか悪いの?」
「...俺、もう長くないんだってさ。若いから進行も早いらしくて」
徹朗が深刻そうな顔をして、亜矢を見つめた。
「そんな...」
「嘘に決まってんだろ」
徹朗は舌を出した。
「え?」
「水虫」
「やだ!水虫ってうつるんだよね?」
「それも嘘」
「はァ?」
ナースたちがすれ違いざまに徹朗に会釈していく。
「知り合い?」
「あれは元カノ」
「え、ずいぶん年上なんだね」
「これも嘘」
「ずーっと嘘しかついてないよ」
「俺の親父、ここの主任教授だったりして」
「どうせこれも嘘なんでしょ?」
「...バレたか」
徹朗はフフッと笑った。二人が会話を交わしたのはこれが最初だった。
 
「骨に異常もなく、1週間もすれば傷口もふさがりますよ」
医師が塗り薬の処方箋を母に渡した。その時に母が医師に相談している。
「先生、ちょっと気になることがありまして。普通、人が倒れる時っていうのはとっさに手が出るはずなんです。でも、娘の手にはカスリ傷ひとつなくて...直接顔をぶつけているようで」
医師の表情が一変。
「おかしいですよね。それに最近、よく物を落とすし、お箸で食べ物を上手くつかめないことがあるんです」
 
「合唱コンクールの曲、考えといてね」
二人の話は長く続いていた。徹朗が帰ろうとする。
「決めてよ。何でもいいから」
「何でもいいことないでしょ。明るい曲がいいとか、こんなテーマの曲がいいとか」
「別に。俺は何の欲もないし」
「え?」
「文句言わないから。...人間って欲張りだと思わない?動物も植物も生まれたときから自分の寿命を知ってるんだよ。欲張って余分に生きようとするのは人間だけだよ
徹朗は意味深な言葉を残して立ち去っていく。
「やっぱり変わってる...」
母が戻ってきた。
「いい機会だから...ちょっと検査してもらおうよ」
「え、検査?」
親子は神経内科の水野宏医師の診察を受けた。
「歩く前にふらつきを感じるようになったのはいつ頃からですか?」
「1カ月くらい前からです。でも、それは睡眠不足のせいだと思いますけど」
「転倒するようになったのは?」
「は?高校入試の日に転びました。でも、私そそっかしいんで」
「ろれつが回らなかったことはありますか?」
「ないですけど...」
水野は亜矢に歩行テストと片足立ちさせて平衡感覚のテスト、人差し指と自分の鼻を交互に触れさせる瞬発力のテスト、速度を上げるとついていけなくなる。目の検査、MRI検査を受けさせた。
 
検査の合間に、母は父に公衆電話から連絡している。
「綺麗に傷跡は治るって」
「あー、良かった!」
母は娘の異変を話そうとするが、父が喜んでいるため本題に切り出せなかった。
 
「検査結果は後日、お伝えしますから」
「あの、私...どこか悪いんですか?」
先ほど、ろれつの件や転んだ件について質問されたことが気にかかっていた。
「毎日、自分の体の調子で気になることがあったら書き留めておいてください。難しく考えずに日記だと思って書いてくれればいいですから」
普通の病気でこんなことは求められないことは知っている。亜矢の顔が曇る。
 
「どんな転び方したら、こんなとこ怪我するんだか」
家に帰るとアコが傷口をさすってきた。
「はいはい、私はどうせドジですよ」
「どうだ、傷口は痛むか?」
父が聞いてきた。
「ちょっとね。でも、初っぱなから学校休んだから...」
「学校休めてラッキーだったじゃん!」
きょうだいが口を揃えて亜矢に反論。
「だよな!やっぱり俺の子供だからそういうとこ気が合うんだよな!」
「また、おっさんが入ってきましたよ」
アコが冷たくあしらう。
「父に向かっておっさんとは失礼な。...とにかく、少しは手を抜けよ。勉強も大事だが、まだまだ大事なことってたくさんあるんだ。とにかく「いい加減」が大事だ」
「いい加減?」
「いい加減じゃなくて「良い」加減にやりなさい」
「そうだね」
 
数日後経ち、亜矢のクラスでは合唱コンクールの話題に。
「池内さんが決めてよ。何でもいいから」
クラスの女子たちは面倒臭そう。
「じゃあ、みんな適当に好きな曲書いて、俺のところに持ってきてよ。そこから適当に決めるから」
徹朗は仕方なくこの手段を取った。クラスメイトは全く乗り気ではない。
 
保健師を勤める母は区役所で「親と子供の健康促成セミナー」に参加していた。幼稚園に上がる前の幼児が教室横の託児所でパズルやトランポリンで遊んでいる。
「池内さん、お電話です」
職員から呼ばれ、電話に出ると神経内科の水野医師からだった。
「検査結果が出ました。すぐに病院に来ていただけますか?できればご両親揃ってのほうがよろしいかと」
ただごとではないことが電話越しでも伝わる。
「あの...それは、電話で話せるようなことではないということですか?」
「とにかく、いらしてください。お待ちしています」
 
学校では自習時間になっていた。亜矢が口を開く。
「あの、合唱コンクールの曲のことなんだけど...」
「なんか候補あるの?」
マリが聞いてきた。
「そういうんじゃないんだけど、あの、自習ってことだから...みんなで曲について話し合うのもいいかなって」
クラスメイトたちは聞く耳を持たない。
「みんなで参加する合唱コンクールなんだし、みんなで協力して...」
亜矢の提案に「そういうノリうざい」「やること自体ムダ」「テストまで時間がないから勉強したい」と反論してきた。
「時間はいくらでもあるじゃないですか!」
亜矢は大声を出した。クラスメイトたちが注目する。
 
私の父は豆腐屋をしています
父は祖父がやってた豆腐屋を継ぐのが嫌だったので
違う仕事に就いていました
最初は市役所に勤めていたんですけど
デスクワークが向いていなかったので
市役所を辞めて 色んな職業に就いたそうです
飽きっぽいのか 何をやっても長続きしなくて
でも 父は 手作りで腕時計を作ってくれたり
ちょっとダサいけど ブラウス縫ってくれたり
それに結構 料理も上手かったりして
...私が言いたいのは 父は遠回りをしてきたけど
でも何一つムダなことなんかなかったって
遠回りしたからこそ 豆腐屋を継ごうと思ったんです
だから 寄り道したり 遠回りしたっていいって...
焦らずに色んなことに挑戦したり 夢中になったり...
 
亜矢の話をクラスメイトたちは呆然と聞いている。マリと早希は誇らしげに彼女を見つめている。
「みんなでムダなことするのも悪くないんじゃないかな?だって私たちには、まだまだたくさん時間があるんだから」
窓際でたたずむ徹朗も亜矢を見つめていた。
 
 
「お嬢さんの病気は脊髄小脳変性症だと思われます」
「脊髄小脳変性症?」
母は怪訝そうに聞いた。
「もう一度、詳しい検査をしてみますが...間違いないでしょう」
水野医師は亜矢のレントゲン写真を見せた。
「症状はゆっくりですが確実に進行する病です。ただし、身体を動かす神経は破壊されても知能には何ら問題ありません。話したいのに話せない、身体を動かしたいのに動かせない、そういう自分をしっかりと認識出来てしまう非常に残酷な病気です」
「...治るんですよね?」
私の知る限り、完治した例は一つもありません...
「え...」
母は唐突な宣告に状況がつかめなかった...。
 
花なら つぼみの私の人生
この青春のはじまりを
悔いのないように大切にしたい...
 
病気の進行には差があります。2005年のドラマと「どらまのーと」あらすじノートを参考に作成したストーリーです。加筆修正がありますことをご了承ください。
 
(参考・どらまのーとドラマレビュー)
 
フジテレビ系列 ドラマ版のキャスティング 
(実際のドラマ放映時の役名と小説版では名前を差し替えている箇所があります)
池内亜也 (15) ... 沢尻エリカ
池内亜湖 (14) ... 成海璃子
池内弘樹 (12) ... 真田佑馬 (ジャニーズJr.)
池内理花 (5) ... 三好杏依
池内潮香 (40) ... 薬師丸ひろ子
池内瑞生 (45) ... 陣内孝則
 
麻生遥斗 (15) ... 錦戸亮
麻生の父 (55) ... 勝野洋
 
水野医師 (35) ... 藤木直人
担任教師 (30) ... 戸次重幸
河本先輩 (17) ... 松山ケンイチ