将軍とは


正式名称は征夷大将軍。古くは8世紀の坂上田村麻呂からはじまり、藤原氏、北条氏、足利氏と歴史は古い。1600年に江戸幕府をひらき、1868年に王政復古が行われるまで250年余りにわたり徳川家が日本を統治した。

7歳で死んだ将軍?


それは徳川家7代目将軍の徳川家継である。

1709年、6代目将軍の徳川家宣の息子として生まれた家継だが、彼の子供たちは病弱で家継以外は生後すぐに病死。やがて家宣も倒れ、跡継ぎを早急に決めなくてはいけなくなり、側近たちの考えでたった4歳で将軍になってしまう。

まだ4歳で世の中の流れは分からない。そのため側近たちが分担して仕事を行い、将軍という名前だけの扱いになっていた。幼い家継に対して側近たちは帝王学を叩き込み、勝手に天皇の生後1ヵ月の娘と婚約をさせていた (本人には全く相談なし)。

家継は間部詮房という側近を気に入っており、越前守という役職から「越前」と愛称をつけて、間部の帰りが遅いと「越前を迎えに出よう」と外に出て門の前で待ち、間部が帰ってくると喜んで抱きついたというエピソードがある。

また城内の能舞台で見よう見まねで踊ったり、体調が悪くて早退した側近を気づかい、「元気になるようにこれを渡して」と自分のご飯を差し出したという。

家継はまだ子供なのでワガママな面を見せることがある。側近たちは「詮房さまが来られます」と言い、家継を大人しくさせていたという。というのも間部は将軍の教育係的な役回りをしており、きつく叱ったりすることもあったので家継にとっては父親のような存在だったのではと推測される。

将軍就任から3年後の1716年3月、家継は風邪をひいてしまう。江戸時代は風邪薬も何もなく自然治癒を待つしかないため、横になって安静にしていたが風邪をこじらせて肺炎になってしまい、4月30日に息を引き取ってしまう。わずか7歳だった。そのため婚約は破棄される。

300年経った今、彼の遺骨は雨水にさらされ残っていないが、髪の毛と爪の一部、刀などの形見は残っているという。さらに身長が135cmあり、巨人症ではないかという説もある。


確かに7歳で死んだ将軍がいた。