志村けんとは
今もなお活躍する日本を代表するコメディアンであり、舞台演出や自分で番組をプロデュースするなど多方面で活躍。
昔と変わらない安定の笑いを提供し続ける志村けん。
1、付き人時代
志村けんは高校卒業を控え、ドリフターズに弟子入りすることに。当時、芸人になるには落語家などに弟子入りするのが普通である。
志村少年はリーダーのいかりや長介の家に弟子入りの志願のために数時間待ち続け、帰ってきた長介に門前払いを食らうもなかなか引き下がらなかった。
しばらくしてドリフのメンバーに空きが出たので長介が正式に弟子入りを認めることに。志村は高校卒業からだと思っていたが、長介から「バカ、明日からだよ」と告げられ、翌日から青森に巡業に行くなど多忙に。卒業式の日も午前中だけ時間をもらい、午後にすぐに仕事に戻ったという。
とりあえず加藤茶の付き人になった。そして同じドリフの付き人だった井山淳という男とお笑いコンビを組むことに....。
2、芸人コンビ時代
1972年、志村は前述の井山淳と「マックボンボン」というコンビを結成。志村はツッコミで井山はボケ担当だった。顔面に蹴りを入れる斬新なツッコミで歌謡ショーの前座などで注目される。
そして秋に新番組「びっくらボンボン」という番組のレギュラーに抜擢されるも、知名度があまりにも低かったこと、10年続いた「シャボン玉ホリデー」の後番組ということで比べられてしまい、視聴率は低迷。大晦日に2ヶ月で終了してしまう。さらに1月に「シャボン玉ボンボン」とリニューアルをはかるも低迷し、15回で終了。
井山は失踪。志村は自衛隊出身の福田正夫という男と心機一転をはかるも、福田は芸人志望ではなかったため、ネタ合わせをろくにしないなどで、「マックボンボン」は自然消滅へ。
3、志村のスランプ
1974年、志村はメンバーに空きが出たので「8時だョ全員集合」にドリフターズとしてレギュラー出演することに。「なんだばかやろう」でおなじみの荒井注が辞めた枠を加藤茶の推薦で志村が埋めるという形でドリフのコントに本格的に参加したが、ネタが全くウケず、裏番組の
「欽ドン」に視聴率で逆転されてしまう。
志村は「東村山音頭」で注目されるまで2年ほど爪跡を残せず、スランプに陥ってしまう。加入して1年半後にドリフは今後の活動を話し合うために1ヶ月近く番組を降板してしまった。
事実、志村がスランプだった頃の映像はほとんど公にされていない。DVDにも存在しない。