第10話 「もう一度笑って....(前編)」

胎児早期剥離で未希のお腹を帝王切開し、赤ちゃんが取り出された。そこに一人の小児科医がかけつける。
「お願いします!」と春子。
「任せてください!1分1秒の油断が命取りになる。慎重にいこう」
帝王切開したことにより未希の血圧はさらに低下し、出血が止まらず危険な状態に陥っていた。
「とりあえず、赤ちゃんは保育器入れて集中治療室に運ぶから、母親の止血の方を頼む!」
保育器に入れられた赤ちゃんがオペ室から出てきた。
「すいません!一ノ瀬の家族なんですが!」
加奈子が小児科医に駆け寄る。
「小児科医の土田です。仮死状態だったので新生児集中治療室で処置します。ご家族はここでお待ちください」
「仮死....状態...」加奈子は動揺を隠せない。
「心臓はしっかり動いているので大丈夫です。女の子ですよ」
「助けてやってください!お願いします!」
加奈子は集中治療室に向かう土田の部下たちに深々と頭を下げてお願いする。それを遠藤と柳沢さんは心配そうに見つめているのであった。

オペ室では、未希の出血がまだ止まらない。医師たちが懸命に輸血を行う。
「早くしないと本当に間に合わないぞ....」
「諦めちゃいけません!頑張りましょう!」

その頃、忠彦は新小岩のボロアパートの一室で変わり果てた静香と智志の姿を目の当たりにし、動揺を隠せない状態だった。
「なんか用?」と智志が忠彦に聞く。
「大丈夫なのか?....具合でも悪いんじゃ....」
「だから....何の用ですか?」
「いや、頼みがあって来たんだ。私と一緒に病院へ来てくれないか?今、未希は手術を受けてるんだ」
「....えっ?」智志が目を見開いて驚く。
「予定よりも早く産まれることになったんだがな....危険な状態で大学病院に運ばれて、子供の命も五分五分と言われてるんだ」
智志が目を伏せる。静香も忠彦の方を向き話を聞く。
「もし、子供の命が助からなかったら....未希は。一目だけでも会ってやってほしいんだ。何をしてくれというわけではない!未希も何も望んでいない!ただ、お母さんの仕事がああいうことになって、君も行方が分からなくなって、未希はすごく心配してるんだ。せめて無事な顔だけでも見せてやってほしいんだ!」
「いっそ「死んじゃった」って言えば?」
静香が水を飲みながらつぶやく。
「え?」
「業界では、桐野は息子を道連れに首をくくったって噂が流れてるんだって」
「そんな....」
食パンをむさぼりながら静香が忠彦に、
「その方が、おたくの娘もすっぱり諦めがついていいんじゃない?」
「待ってくれ、約束はわかってる。息子さんには認知も金も一切求めない。我々も納得した。でも、未希は今....頼みます!なんとか会ってやってくれないか!」
忠彦が智志に頭を下げる。
「元気な顔を見せてくれるだけでいい。10分でいい!一目でも構わない!」
「だから産むなって言ったじゃない!」静香が怒鳴る。
「帰ってください」智志が忠彦を玄関前に連れていく。
「君まで....頼む。いつだったか「俺は逃げない」って言ってくれたじゃないか....」
「うるさい!俺が会いに行ったってどうなるわけでもないだろ!どいつもこいつも勝手なんだよ!帰れ早く!」
智志は忠彦をドアの外に突き飛ばし、カギを閉めた。

その頃、オペ室から春子が出てきた。
「先生!」加奈子が春子に迫る。
「手術は....終わりました」
「ありがとうございます!」
「これから未希さんにはICUに入ってもらいます」
「えっ?」
「子宮の収縮が悪く、出血性ショックを起こしています。4000ccの輸血を施しましたが、危険な状態です」
「危険って....未希もですか?」
「とにかく、全力を尽くします!」

-未希、目を覚まして。お母さんはもうなにもいらないの。人に何て言われていい。もう一度、あなたの笑顔が見たいの。お願い....-

そして翌朝、加奈子と忠彦はICUで未希と再会した。が、未希の意識は戻っておらず、ずっと眠っている。
「どうして目が覚めないんですか?もう手術が終わって12時間も経つんですよ?」
「出血が多く、ショック状態が長く続くと、意識が戻りにくいことがあるんです」
「まさか、このまま一生眠ったままなんてことは....」
「今は....待つしかありません」
「どうしてこんなことに....なんとかできなかったんですか?昨日の朝まで未希はあんなに元気だったのに!たった、たった一日でなんでこんなことになるんだよ!」
忠彦は涙を流しながら、春子に訴えかける。
「出産は何が起こるか、私たち医者にも予測できない部分があるんです。人知を越えた営みなんです。我々にできることは全て行いました。未希さんの回復力を信じるしかないんです!」

そこに土田がやってきた。
「一ノ瀬さん、赤ちゃんの状態が落ち着きました。よかったら面会できますが?」
「すいません。せっかくだが、娘がこんな状態だから今はちょっと....」と忠彦。
「そうおっしゃるのが当然でしょう。落ち着いたらまた私に申してください」
「待ってください。伺います。未希がこんな思いで産んだ子です。一刻も早く会ってあげなきゃ」と加奈子。
「加奈子....よしわかった。俺も会う」と忠彦。

土田が加奈子と忠彦に説明する。
「体重は1648グラムです。ずいぶんと小さいと思いますでしょう?でも母体から離れても充分、頑張れます」
「1600って、普通の子の半分じゃないか!」
「1648、細かいですが、未熟児にとってはこのわずか1グラムが生死を分けるんです」
「はぁ....」
「ミルクを飲むようになると体重はぐんと増えます。越えなければいけないハードルは多いですが、2500グラムを越えたら退院できます。1ヶ月から2ヶ月くらいです」
「....えっ?」
新生児集中治療室、加奈子と忠彦は保育器に入る未希の子供をはじめて見た。チューブにつながれている。
「これくらいの大きさだと人工呼吸機が必要な赤ちゃんもいるんですが、この子は自分でちゃんと呼吸してるんですよ。それだけでも果報者、褒めてやってください」
「自分で....呼吸..」
加奈子と忠彦は未希が産んだ赤ちゃんを愛しそうに見つめている。それを土田も微笑みながら見つめる。

その頃、ベランダに洗濯物を干していた智志はふと、昨日の夜に未希のために病院に来てほしいと言ってきた忠彦のことが頭をよぎる。
部屋には静香の元秘書が来ていた。
「アンタも偉くなったわね。私に指図するの?」
「いつまでもこんな生活を続けるのは良くありません。破産宣告を受けるべきです」
「アンタさ、簡単に破産宣告とか言ってるけどね、破産宣告を受けたら、もう銀行から融資は受けられないの!」
「息子さんが心配です」
「智志の学校にはちゃんと連絡してるわよ。高等部に上がるまでには戻るから。ね?」
静香が智志に微笑みかける。
「来月は決算期だから、処分してない株を売り抜いて、なんとか資金をつくるから。そしたらきっと巻き返せる。それまでの辛抱よ」
「ちょっと....買い物行ってくる」
智志は部屋を出ていった。そしてどこかへ向かう....。

病院では加奈子が眠る未希に話しかけていた。
「未希、赤ちゃんは元気だったよ。ちっちゃいけど、自分で呼吸ができるの」
すると健太がマコトと一緒に部屋にやってきた。
「ずっと....寝てるの?」
健太が心配そうに未希の寝顔を見つめながら言う。
「うん。そうなの」
「どうなっちゃうの?大丈夫....なの?」
「大丈夫だよ。大丈夫に決まってんだろうよ。な、姉ちゃん!」とマコトが加奈子の肩をポンとたたいた。
「意識さえ戻れば、若いから回復は早いだろうって」
「じゃ俺が起こすよ。姉ちゃん起きろよ!起きろよ!姉ちゃん!姉ちゃん....起きろよ....ウンコ....」
健太は泣きながら未希を揺らして起こそうとする。
加奈子はあまりにもつらくて部屋を出ていってしまう。
マコトがそのあとを追う。
「姉ちゃん....少し休めよ。俺がかわるから」
「ありがとう....でも平気」
「無理すんなよ。未希なら大丈夫だよ。アイツ、赤ちゃんに会いたがってたんだから、会わないでどうにかなるわけないよ」
「アンタに言われなくてもわかってるよ。未希は大丈夫。だってもう、一人の母親なんだから」

その頃、新生児集中治療室ではチューブを通してミルクが赤ちゃんに運ばれた。土田がその様子を見つめる。
「よ~し、吐かずにいった。やるな君!お母ちゃん守ってやれよ」

学校ではめぐみたちが遠藤に未希の状態について質問していた。
「今は授業中よ。質問はあとにしてちょうだい」
「無理だよ。みんなどんな勉強より知りたいもん。子供を産むってことはどういうことか、一ノ瀬と赤ちゃんがこれからどうなるのか」と柳沢さん。
「さっき、病院に電話しました。赤ちゃんは危険な状態をクリアして、初めてミルクを飲んだそうよ」
「そうですか!」と安堵する生徒たち。
「ただ、一ノ瀬さんの意識はまだ戻ってないの」
「私....病院行きます!」とめぐみ。
「久保田さん....まだ授業中なのよ?」
「だって、まだ仲直りしたばっかりなのに....」
生徒たちは口々に「謝りたい」と言い出した。
「一ノ瀬さんは謝ってほしいなんて思ってないわ。彼女はみんなに教えてくれてるのかもしれない。人が産まれてくることは実は大変なことなんだって。こうやって毎日学校に来て、みんなと一緒に勉強することが実はすごいことなんだって

その頃、病室に忠彦がやってきた。
「どうだ?」
「まだ....意識が...」
忠彦は家から頼まれて持ってきた着替えなどを加奈子に渡し、ボストンバッグからラジカセを取り出した。
「あと....これでいいのか?」
「何かの役に立つかなと思って....」
加奈子はラジカセに入っていたカセットを取り出した。
『妊娠のきろく 9月18日~』
「とりあえず、聞いてみよう」忠彦はカセットをラジカセに入れ、二人でそのカセットを聞いてみることに。
「9月18日、今日の体調はマル。体温は36.56度。血液検査は痛かったけど、病院が決まって「やったー」って感じかな。一ノ瀬未希、頑張ります!
12月18日、今日は母子手帳をもらいました。偉そうに「産む!」なんて言ったから、誰にも言えないけどすごく怖いんだ。でも、母子手帳もらって、頑張らなきゃ!って気持ちになりました。
12月20日、今日は母親学級1日目。当たり前だけど私は最年少。友達になれそうな人はいないし、旦那さんたちがいっぱい来てて、さすがにグサッときちゃった。でもそんなことは気にしちゃダメなんだよね。やっぱりお母さんは強くなくちゃ!」
「未希....」加奈子と忠彦は涙ぐみながら聞いている。
すると、看護師が部屋にやって来て、面会者が来ていると知らせてきた。
「君....来てくれたのか!」智志だった。
「どうぞ!」加奈子が智志を病室に入れる。
「未希!桐野くんよ!桐野くん、来てくれたのよ!」
「....」智志は黙っている。
「赤ちゃんは無事に産まれたんだけど、逆に未希の出血が止まらなくて、ショック状態になってるの....」
「え....」
「黙ってないで、未希に何か言ってやってくれないか」
「す、すいません!僕、僕が、なのに...何も....僕が、僕、子供なんて死んでほしいと思ってました。責任取りたいなんてかっこいいこと言ったけど、ほんとはずっと産まれてこなけりゃいいって....だから、きっと....こんなことに」
未希の口がかすかに動いた。
「未希!未希!」加奈子と忠彦が何度も名前を呼ぶ。
「一ノ瀬さん!大丈夫ですか!」通りかかった医者も駆けつける。未希の意識が戻りはじめる。
「....ごめんなさい!」智志が病室から飛び出していく。
「おい!」忠彦が智志を追いかける。
「未希!目を覚まして!未希!」
加奈子が必死に未希に話しかける。


(参考・どらまのーと)