1931年(昭和6年)の、茨木カントリーで開催された、日本アマチュア選手権に、文隆は、16歳で3位となります。
マッチプレーですから、準決勝で敗れ、3位決定戦に勝利したのは、間違いないでしょう。
ただ一度敗れたのは、優勝者である、かつての、慶應大学野球部のエース、新田恭一(1898 〜1986)当時32歳との対戦とも、推定されます。
と言っても、遥か昔の人で、私とは何の関わりもない人と思ってましたが、どうして、どうして。
200年以上続いたパーシモンに代わり到来したメタルウッド時代、ジャンボ尾崎の、ハイティー、オープンスタンスドローから、完全スクエアを、実現しようとした、あの打法。
昔、皆さんも真似ようとして、頓挫したのでは?
私も、その1人でした。
これは、元を辿ると、この新田氏に行き着くのです。
新田氏の弟子が、知る人ぞ知る、ゴルフ軍師 後藤修 (1934〜)その人なのです。
後藤修は、左投手で、プロ野球選手希望でしたが、どこにも相手にされませんでした。ところが新田恭一にかいた手紙が縁で、松竹ロビンスに何とか入団します。
1955年に東映フライヤーズ、1956年に大映スターズ、1957年に読売ジャイアンツ、1959年に近鉄バファロー、1961年に南海ホークス、1963年に西鉄ライオンズと日本プロ野球史上最多の8球団を渡り歩き、移動型民族になぞらえて「ジプシー後藤」「ジプシーの修」と呼ばれたそうです。松竹を、頸になったのは、何と趣味がオペラ鑑賞だからだとか。
プロ通算9年間で、18勝31敗、年間、大映時代6勝12敗と、南海時代、5勝6敗がベストですから、野球選手としては、大成はできませんでした。
しかし、新田スクエア打法を取り入れ、プロを教えるゴルフコーチとなります。
ジャンボのOBか、落合のホームランかと言うほど不調に陥っていたジャンボ尾崎を、見事に復活させ40歳を過ぎ、尾崎は第2期黄金期を築き上げます。
尾崎と喧嘩別れしてから、今度は不調に陥っていた中嶋常幸を、同じ完全スクエアを実現するための、オープンドローメソッドで、世界トップレベルに復帰させます。
しかし、中嶋とも喧嘩別れしてしまいます。
つい最近、第49回日本女子オープンにアマチュアで初めて優勝した、スーパー高校生、畑岡奈紗のスイングにも新田の息吹は生き続けているかも知れないのです。
色々話が飛びましたが、次回は、文隆のアメリカ留学時代から語りたいと、思います。