2017年06月26日(月)
突然ですが………
関ヶ原の戦い ってご存知でしょうか
(勿論
)
じゃー 東軍 と 西軍 の リーダー は
(えええ~~~っと………ちょっと待ってくださいよ
せきっが はらのたたかい~~~せきっが はらのたたかい~~~
せき、せき、せき がはら………ファイ
東軍リーダー 家康 西軍リーダー 三成
………
あっ
東軍リーダー家康 VS 西軍リーダー三成
)
はいっブ~~~
(えええ~~~………)
東軍 の総大将 は、勿論 徳川家康………
ただ………
西軍 の総大将 は、毛利輝元 です。
(誰ですかそれ
)
おい………
そもそも、関ヶ原の戦い は何が 原因 で起こった か知ってる
(あっ
ソレは知ってますよ
)
嫌われ者の三成 と 家康 の 天下分け目の戦い でしょ
はぁ~~~………
秀吉 は、自分の死後、天下が割れる ことは、予想しとった。
そこで、五大老 と 五奉行 という 制度 を作り、力の均衡 を保とうとした。
しかし………その内の1人、唯一、家康 と同等の権威を誇っていた
前田利家 が亡くなった。
チャ~~~ンス と見た 家康 は、先ず 前田家 を潰そうと、無理難題 を吹っ掛けるも
利家の妻 マツ が 江戸城 に、自ら上洛(実質的な人質)したので、
前田家 を潰せず………
次に 狙いを付けたのが………上杉家、またまた 無理難題 を吹っ掛けた
家康『………何でもお前んとこは 謀反 を企んどるらしいやんけ
ちゃう ちゅーんやったら、城まで来て、申し開き せぇーやっ』
勿論、事実無根、コレに 上杉景勝 の 家臣 直江兼続 が ブチギレた
兼続『あほんだらぁぁぁ~~~
何ぬかしとんねんっ
そんな分けあれへんやんけ
ウチは、なぁぁぁ~~~んも悪ないのに
何で、出張らなアカンねん※都まで上洛すんのに、結構、経費がかかる。
行くかボケ~~~………
文句あるっちゅーんやったら上等じゃ、何時でもやったんどっ』
コレが、関ケ原の戦い の原因 である。
言うてみたら、家康 の ムチャ振り が 原因 なんですね
そこで………
①むちゃくちゃ やけど………これからの時代のリーダー は、家康 やし 派
②家康の言うてることは、むちゃくちゃ やっ 上杉はん が可哀想 派
に分かれて、大戦
この時点では 家康 は、逆賊
西軍 は、秀吉 の 嫡男 秀頼 を 総大将 に据える気でいたが………
ボケ の 茶々(秀吉の側室) が 出しゃばってきて………
秀頼 を、総大将 には出来なかった………
ほいじゃったら………ワシが………と言いかけたのが………三成
すると………
『
アホかっ
こんな(お前)は 嫌われモン なんじゃけぇ~
総大将にはなったら、イケンのんよ』
っと止めたのが………
大谷吉継 である。
わぁぁぁ~~~けがぁぁぁ~~~あぁぁぁってぇぇぇ~~~西軍 に居る武将
(さっきも言うたよぉーに、東軍 は、この時点では 逆賊)
みぃぃぃ~~~んなぁぁぁ~~~ 三成 大嫌いぃぃぃ~~~………
(朝鮮出兵の際、勘定奉行やった 三成 の各武将への評価 が低かった
ことが 要因 らしい………)
裏切る 秀秋~~~………ソレ をきっかけにぃぃぃ~~~………
ありとぉぉぉ~~~あらゆるぶしょ~~~が 謀反謀反謀反………
(コレって………家康 の ムチャ振り が 原因 なんじゃろ
アホらしゅ~~~て………マジにやっとられんわい………)
ちゅーて、皆、様子見 やったんですが………
埒が明かないことに業を煮やした 家康 は
一番若い 秀秋 に クンロク を入れる。
(秀秋 の陣 に、鉄砲を打ち込んだ んですね)
①鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス By 信長
②鳴かぬなら、鳴かせて見せようホトトギス By 秀吉
③鳴かぬなら、鳴くまで待とうホトトギス By 家康
家康はん って………待つ派 やったんとちゃうの
家康『あほんだらぁぁぁ~~~………
待つんは、ボケども が居らんくなるんを、待っとっただけ じゃ
それに、もう待つんは、沢山なんじゃ~~~』
この 家康 の ブチギレ に
ビビッてもうた、秀秋 が、先ず裏切り………
一番に仕掛けて、貧乏くじを引きたくなかった 他の武将達
(数的には、西軍が圧倒的に有利………もし誰も裏切らんかったら………って想いが)
も次次に裏切る………
これで、一挙に形勢逆転 結果は………東軍の圧勝で幕を下ろしました………
P・S
大谷形部(大谷吉継)以外にも、反乱を予測していたモノが居た。
島津義弘 である。
その為、何度も 家康暗殺 を 進言 するも………
光成『数もウチ(西軍)の方が圧倒的やし………
暗殺なんて 武士 のすることじゃない』
っと取り合わなかったそうである………
義弘『あんな(三成)はアホじゃ………
金勘定 は、出来ても、
戦の先を見通すことは、出来りゃせんみたぁーなの………』
と、自軍の城 から一歩も出ず、戦には 参戦 しなかったそうです。
光成 が敗れた後
義弘『ほれ、見たことか………』
っと、とっとと 鹿児島 に帰還した………
コレが、かの有名な 島津の退け口 である。
しかも………
退却 では無く、前進 したのである
てっきり 退却する と思ってた 東軍 は、物凄い勢い で 突進 してこられて
思わず、道を開けてしまった のである………
コレは、心理戦で
折角の 勝戦 やのに、無駄死に はしたく無い と思うのが普通である。
あっ
因みに、あの関ヶ原の戦い は
史実上の 関ヶ原の戦い としては 2回目 なんです。
1回目は、大友皇子 と 大海人皇子 が戦った 壬申の乱 がそうです。