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F1速報の増刊 「F1メモリーズ 1990-2010」




私の失われかけた記憶を、呼び覚まして、




ブログを、少しは正確なものにしようと思い



買っちゃいました。










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中嶋 悟、鈴木 亜久里、片山 右京


三人の対談が掲載されていて



面白かったですよ。




その中で、雨の中嶋とか、納豆走法(命名は古館アナ?)とか呼ばれていたのは、必死に走った結果だったのが良く分かりました。


右京と亜久里は、セミ・オートマや、アクティブ・サスを経験していたようですが、中嶋は、経験が無かったそうで(ロータス時代のアクティブ・サスは、未完成だった。)、自分は、アナログだからと語っていました。


中嶋時代のマシンは、亜久里もそうですが、片手でステアリング、片手でシフト・ノブを操るために、車を思うようにコントロール出来ず(中嶋は、車の方が偉かったという言い方でした。)、早めにギヤを上げてコーナーに入ったり、ステアリングを身体で全体で抱え込み、押さえ込みながらシフトアップしたりと、パワステの無いマシンと格闘し、ブレーキも重かったので、フルタンクだと、中嶋の力では、タイヤロックさせるまで、ブレーキを踏むことも、出来なかったと、語っています。


でも、雨になると、ハンドルは軽いし、ブレーキは、すぐロックするから、中嶋の方がマシンより偉くなるので、思い通りに走れたのだそうで、つまり、特別、雨に強かったのではなく、雨だと、自分の実力通りに思うように走れただけだったんですね。


粘りの走りも、自分の非力さと戦いながら、リタイアしないように走った結果だったということです。


力をつけるために、トレーニングを重ねても、年齢的なものから、思うように力がつかずに苦労していたようですね。


右京も亜久里も、自分達から見た、他のドライバーを語っていて、


「大半のドライバーのマシンの性能なりに走ってタイムを出しているけど、その上には別格のドライバーがいる。」


「以下同文というドライバーとが多い中で、セナ、シューマッハー、ベッテル等は、別のフィールドにいる。」


「自分の思い通りにマシンを操るか、マシンの動きに対応して走っているかの違い。」


「セナやミハエルのような一段上のドライバーは、普通のドライバーが速いと感じる速度が、もっとゆっくり見えているのじゃないか?」


など、自分達に足らなかったものや、可夢偉のことなど、語っています。



読んでる人も多いとは思いますが、読んで無い人は、是非、読んでみて下さい。