いじめられている自分と向き合う事、いじめている自分と向き合う事。
私は、これがいじめの現場に必要な事であると思う。


いじめられている自分と向き合うと言うのはどういう事か。

自分の悪い所を掘り下げる事ではない。 自分の価値を探すという事である。

自分には何の価値もない、何て、そんな筈はないのだ。

醜く成績も悪かった私も、今ではちゃんと働き、社会的に評価もされている。

それは時間が解決した事であると私は思う。

いじめられている時は、この時が永遠に続き、永遠に自分は虐げられ続けるのだと思っていた。

しかしそうではなく、自分の価値を見出し、それを伸ばす事で漸く未来が見えてくるのだと思う。


そして、いじめている自分と向き合うと言うのはどういう事であるか。

それは自分の弱さを認めることであると思う。

理由はどうあれ、人を虐げるのは強者の証ではない。

紛れも無い、自分の弱さを誤魔化す行為だ。

人を嘲笑して喜ぶ、人を痛めつけて喜ぶ。

それのどこが、強い人間だろうか?

いじめを行っている子どもたちは、自分が弱い人間であり、いじめをするという事が特別な事ではないと認識すべきであると私は考える。

連日、いじめ自殺の問題が報道されている。
ニュースで「いじめ自殺」という言葉を見るたびに、私は胸が苦しくなる。

様々なメディアで取り上げられているこの問題。
それに対する意見も様々出ている。
その中で私が気になったのは、「そんな事で自殺するなんて」という意見である。
「チビと言われた」「無視された」「金を要求された」「暴力を受けていた」
いじめの方法は挙げればきりがない。
それと同じで、それを受けた子どもがどんな風に思い、どんな傷を負うのかも一様ではないのだ。

他愛ない悪口が、誰かの心を深く傷付けるかも知れない。
ちょっとした暴力が酷いショックを与えるかも知れない。
何を辛いと思い、何を嫌だと思うかは人それぞれだ。
それなのに何故、「そんな事くらいで」などと言えるのだろうか。
誰かにとっては何でもない事でも、誰かにとっては生存本能すら揺るがすほどの傷となり得る。
それを理解しない、または軽く見るような風潮が、いじめられている子どもを追い込んでゆくのだと私は思う。
先日、いじめがあった学校の校長が自殺をした。
そして連日、いじめを苦に自殺する子どもが後を絶たない。

私はここで、改めて死ぬ事について考えたい。
死が何を生み出すか。
死は終わりなのか、それとも始まりなのか。

いじめられるのが辛くて死を選ぶ。
その時点で、その子どもの人生は終わった事になる。
しかし終わって初めてその子がいじめられていた事が周知の事となり、またテレビでも放送される。
そういう意味では、自殺は始まりであるのではないだろうか。

死を選んだ子どもは、何を望んで命を絶ったのだろう。
辛い生活を終わらせたかったのか。
自分が死ぬ事で、いじめた側を言い逃れられない立場にしたかったのか。
理由は様々あると思う。

彼らの悲しみや苦しみは一言では決して語る事は出来ないし、死を選ぶ理由だって一つではない。
そんな中で私たち大人がしなければならない事だって、一つや二つではない。
「死ぬな」と言って死を思い止まる子どもたちが何人いるだろうか?
「相談して」と言われて実際に相談をする子どもが、一体何人いるだろうか?
必要なのは実際に傍にいて、話を聞き、温もりを与える事であると私は思う。
そういう意味では私がここで何を書いても、テレビの向こうで誰がメッセージを発しても、子どもの思いは変えられないのかも知れない。
私がここで発するメッセージの対象は、子どもたちではなくその周りにいる大人たちに対してが主だ。
勿論、悩みを抱いている子どもたちのたった一人でもこの記事を見て、そして自分なりに考えて死を思い止まってくれれば、これ以上に嬉しい事はない。