ボイジャーの日記☆いろいろあって楽しい人生☆

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こんにちは。このブログでは、毎日のいろいろな出来事を書いていきたいと思います。宜しくお願い致します。

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今日の新聞に小保方さんの一連の事件に関する記事が掲載されていた。

スタップ細胞論文事件で世間が騒いでいた時期から1年以上も経つ。


これは、あくまで根拠のない状況判断だけの邪測ではあるが、以下のような

見方もできるのではないだろうか?


彼女世代のパラダイムと理研と言う組織を創り上げた世代のパラダイム

の断絶があったのではないか?この断絶が、普段の研究業務において

何らかの小さな衝突が集積され、その結果、組織から追放されたのではないか?

その遺恨の深さが、今になってもなお新聞掲載される状況を引き起こしている

のかもしれない。


比較的並列型組織を採られていることが多い研究所という職場。

その中でリーダーとして研究を進めてきたという立場の彼女。

ニュース等で公開された研究ノートの文章形態。


実際の所は、ジェネレーションパラダイム間におけるインターフェース欠落

による人間関係の悪化からなのかもしれない。

未だ記憶に新しいISISによる湯川さん殺害事件以来、20日のチュニジア

の首都チュニスの博物館でまたもや邦人3人を含む21人が殺害された。

さらに、翌21日には、イエメンの首都サヌアの2カ所のモスクで自爆テロ

があり120人を超える人々が死亡した。


このようにISISによるテロ攻撃は、衰えることがなく、また、ISISに参加する

者も後を絶たない。


このような状況を終わらせるため、これまでアメリカやヨルダンが空爆を

行ったが一向に収束に向かう気配がない。


そもそもISISは、なぜ今のタイミングで急に登場し、目的のためには無差別

殺人や同じイスラム教の人々殺害をも肯定するこの集団に、欧米をはじめ、

世界各地から数万規模の参加があるのか?


その理由は、ニュース等で論説されているとおり、社会における差別や格差

が臨界点に来ているということだと思う

さらに、社会全体が個の時代に入り、人の生活思考の判断が自分にとって

有利か不利かといった利己的なもののみに変質し純粋化してしまった結果、

その強いストレスの爆発としてISISへの参加が進んでいるのではないか?


したがって、参加の動機は、ある者は大卒でも就職が立ち行かない失業状態

に生活が限界に達したためや、ある者は、利己的基準の憤りを現状社会の破

壊と言う行為に向けるためであったりと様々である。


すなわち、ISISが勢力を拡大し続けている本質は、あまりにも社会が利己的

基準で構成されてしまったため、人のストレス集積が生み出した怨念では

ないだろうか。


今や人間社会の必須特質である社会性は著しく欠落した状況になり、今まさにかつてのホッブズが言った”万人による闘争状態”に陥り、参加者それぞれの参加理由からのストレス爆発の集積が進んでいると考える。


そのため、その解決法は、それぞれが社会性を取り戻すため、まずは個人

個人が人間共生の理念を再認識し、常に少しでも隣人の事を理解しようとする

努力が必要だと思う。


人間は、完璧な人間など存在しない。だからこそ、利己的基準を放棄し互恵関

係を築くことに基準を置かなくてはならない。


今日は午前中出勤でした。朝いつもどおりJRの駅に行くと

地元の詳×中学の女子バスケ部の集団10人のうち2,3人

くらいから、”キショ”といきなり言われてしまった。


まぁどこの誰だかわからない中学のガキのことなので特に

無視して駅構内に入った。

以前公立中には勤めていたことがあるので、特に驚くこと

でもないが、恐らく彼女らはその時の気分とノリで退屈しのぎ

で、誰かれかまわずそのような言動を繰り返しているのだろう

が、困ったものである。


先週、嵐山のモンキーパークに行った時の日本猿のほうが、

よっぽど行儀が良いように思える。彼女らの親も同じ感じな

のだろう。どこかの学者が言っていたが、かなりの確率で

親の経済レベル、文化レベルは子どもに伝播するらしい。


しかしながら、仕事が終わって本屋に行く途中、街頭で

あしなが募金を女子学生がやっていた。

あまりにも、一生懸命にその必要性を大きな声で真剣に

訴えていたのだが、ちょっとできすぎていると思ってしまい、

街頭募金活動に必要な団体証明も掲示していなかったこと

からスマホで調べたところ17日から全国的にやっている

らしいことがわかった。


我ながら猜疑心の強さに何ともバツが悪い。
ということでしっかり募金。
街頭であれだけ大声で必要性を訴えることは、大の大人でも

なかなか難しいことだと思うのだが、真剣度が違うのだろう。

このような若者には、本当にがんばってほしい。


さて、本屋の用事も済まし、帰宅の電車の中での話をもう一つ。
電車のホームで乗り口の列の先頭にいたので、電車到着後、

運良く座ることができた。

対面シートだったので、私の横に並んでいた女子高生も

私の前に座った。


結構、乗車人数が多かったので見てる間に座席が埋まり、

最後に乗ってきた老夫婦が座席を探しているそぶりだったが

諦め、私の斜め前に立っていた。


気の毒なので、座席を譲ろうとお婆さんに話しかけると、

丁重にお礼を言われて座られた。

とその時、私の前に座ったばかりの女子高生が立ち上がり、

おじいさんに席を譲った。


その老夫婦は、次の駅で下車したのだが降りる際にも、

その女子高生に何度も御礼を言って下車した。

その女子高生は、私の下車する駅で降りたのでバックを見ると

私立高校のブラスバンド部だった。


これはあくまで個人的な見解なのだが、学校のクラブで

礼儀正しいクラブNo1は、ブラスバンド部だと感じている。

以前お世話になっていた公立中学校や今の私立中高一貫校

でも顔を合わせると全員きちんと挨拶をしてくれる。


仕事柄、ブラスバンド部の練習を見る機会が度々あるが、

実に先輩後輩の上下関係が厳しく、練習時に後輩が先輩に

質問できるのは、先輩が質問があるかと聞いてきた時だけ

許される。


硬式野球部もほぼ同様なのだが、残念ながらブラスバンド部

のようにどんな時でも漏れなく全員という訳ではない。


この差は、あくまで憶測だがブラスバンドは演奏会で1度でも

一人でも音を外したりミスリードをすれば、すべてがそこで

終ってしまうと言う緊張感に対し、野球は、ミスをしてもゲーム

中に挽回のチャンスがあり、最終的に勝利すればミスも薄れて

しまうというところから来るような気がする。


いずれにせよ、両クラブともに礼儀正しいことには違いなく
すばらしいと思うが、その一方で何故か一生懸命クラブ活動
を行っている生徒諸君には申し訳ないが、バスケット部、

サッカー部は、私が今まで100校以上見てきた学校において

常にワースト1,2位を争っていた。



この傾向は、何処から来るのかはわからないが・・・。


学生のうちから既に彼らのいずれ出ていかなければならない

社会に向って、早くも差が出はじめている光景の一端を見た

ような日だった。


”未来社会”という言葉について皆さんはどのようなイメージを

持たれるでしょうか?


便利、快適、早い、余裕、新技術・・・。


これから100年後と言わないまでも20年先、30年先はどのように

なっているのでしょうかね。


そういう現在私たちが生活している”今”も、30年から40年前の

高度経済成長期の時代から見た未来と言うことになるのですが、

当時その時代に存在していた私が感じることは、

24時間のコンビニで食料品が買えることやスマフォでネットまで

できてしまう個人電話の生活、実質的にボーダーレスになった

インターネット空間など、正にどこか夢物語の未来社会そのもの

であったということでした。


確かに社会は、競争により企業はより便利で快適空間を提供する

商品やサービスを開発し、人々に次々と休む間もなく提供し続けて

います。


身近な話をすると、私の居住している近隣でここ2年ほど前から

コンビニが次々とオープンしました。私もよく利用するのでたいへん

便利になったと喜んでいました。しかし、3件目のコンビニが建った

1年前くらいから、自宅前に面している道路にコンビニの中型搬送

トラックが頻繁に通るようになりました。


続いて、夜の11時過ぎと早朝5時過ぎには、ガタガタ大きな音をさせ

ながら走る大型ゴミ収集車が通るようになりました。


おかげで、朝夕はそれらの大型車の音と振動でおちつけません。

また道路のアスファルトには多数の大きなひび割れやへこみが

できています。

公共道路なので、一住民としては、我慢するしか

ありませんが・・・。(苦笑)


コンビニができて、その利便性の恩恵に与ることとバーターに

日々の生活の快適さが損なわれるということになったのですが

このような例は、街へ出てみると、所かまわずスマフォやipodを

操作する人、横断歩道に人がいても平然と通過し続ける車など

枚挙にいとまがないです。


結局、最新技術の恩恵社会で暮らし、その快適さを同時に

維持するためには、限りない経済力による資本が必要になって

きます。


先のコンビニの例で言えば、居住性を改善するために、強固な

防音、防振構造の住宅に自宅を改装するか、閑静な住宅街に

引っ越すか?ということになると思うのですが、それには当然、

お金がかかります。


技術が進歩し、明るい快適で便利な未来社会が到来するはず

であったのが、いざ蓋を開けてみれば、潤沢な資本を保有し続ける

人たち限定の便利さ、快適さとそうでない多数の人々の決して快適

でない不満が常に持ち上がる社会となったように映ります。


未来社会の恩恵を受けるためには、限りない資本が必要であり

その資本を得るために、人々は昼夜を問わず働き、そのために

24時間サービスを利用する。


何か麻痺しているというか、なぜ人々はこのジレンマに気付かない

のでしょうか?


”科学技術の発展と共に、人間の精神も進化しなければならない。”

この言葉は、私が30年来持ち続け、機会がある毎に様々な人たちに

アナウンスしてきたフレーズです。


科学技術の進歩は、物理的に人間の生活を変化させます。その変化が

快適、便利などの良い変化に繋がるためには、人間の精神にも同時に

良い変化が必要だと考えます。


この両輪が揃ってバランスよく動き出すことにより、はじめて人間にとって

快適で便利ですばらしい未来社会が到来するのだと思います。


このことを踏まえるなら、今の時代の人々に必要なものは、さらなる

新技術の追求に追いつく、またその新技術の適切な使い方を理解する

人間の精神にあるのではないでしょうか?



スコットランドの独立選挙の結果は、賛成約160万に対して反対約200万で

独立は成されなかった。一部の評論では、この選挙でどちらが勝利しても

しこりが残り、国民が分裂するのでは?と憂慮されたが、いざ終わってみると

特にそのようなこともなく、静かに選挙の日を終えた。


しかし、この度のイギリス政府が国内の独立選挙を認めた姿勢は、スペイン

のカタルーニャ地方など世界に多く存在する同様の独立を希望する地域の

人たちにとって、強い影響を与えたことは間違いない。


また、スコットランドが独立選挙を行うとしただけで、為替相場は急変し世界

の先進国諸国に大きな影響を与えた。個人的には、世界の一握りの巨万

の富を動かしている投資家が利益をえたように推測する。投資家において

為替が動けば動くほど彼らにとっては、美味しい状況になる。


それにしても、スコットランド独立派の人々が、一人立ちできるとした根拠は、

北海油田の収入と言われているが、果たしてこれだけで独自通貨の流通、

核撤廃=非軍事国家、海外在スコットランド企業の撤退等のリスクをカバー

してやっていけるのだろうか?


このあたりを考えただけでも、今回のイギリス政府の選挙容認は、もう一つ

の投資家たちの世界における力関係からのシナリオが見え隠れするする

ような気がする。

ここ数カ月テレビの国際ニュースでは、今までになく新しい動きが次々

報道されている。

シリア紛争とイラクのシーア派、スンニ派の抗争の隙間に、本来の

イスラム教に忠実に従った国家再建を目指したイスラム国の活動が

勢力を伸ばし、また、今月18日にはスコットランドの独立に関する

国民投票が行われる。


これまでにも国際的な変化は当然いろいろあったが、最近の国際変動は

これまでの動きと異なるように感じる。


イスラム法に基づき、平然として無抵抗の欧米人のジャーナリストの処刑を

行うイスラム国に義勇兵として参加しているのは、イスラム教を母教として

育ったアラブ人だけではない。

そこには、ドイツ人、イギリス人やカナダ人など欧米から3000人程度が存在

していると言われている。

さらに、その数は増加の傾向を示しているらしい。


一方、スコットランドの独立の気運は、以前から少なからず存在していたが、

ここにきていよいよ現実的な動きとなった。


これは、世界経済のグローバリズムが進む中、資本主義が資本の上に限り

なく築き上げられるテクノロジーのイノベーションが経済的に限界に達し、

多くの人々がその流れから脱落していく中、経済的に持てる者と持たざる者の

二極化が今までになく、最近の台風の規模のごとく、すさまじい勢いで発達

していることを示しているように思う。


世界のいたるところで経済的階層が形成され、搾取され続ける層と搾取し

続ける層の経済格差は、限界を超え、現状社会のリセットを望む人々が増加

している結末が、今のこのような動きとなって表れているのではないだろうか。


私たちの身近でも、百貨店の売り場では、高級品から売れていく反面、

スーパーの夕方には、食料品値下げ販売に人だかりができる景色をよく目

にするが、着実に二極化は、大きく深い谷を挟み、その存在を強大にしている。


このような時代においては、今後ますます自らが生きるために考え、判断し、

実行する行動力が必須となるのは間違いない。

働き方においても、サラリーマンであっても、常に自らが考える力がなければ、

ほどなくリストラに消える存在となるであろう。


そのために、自らを律し、哲学を確立し、マネージメントする厳しい覚悟が

必要だ。


さて、経済至上自由主義に謳歌した我々がこの変化に耐えられるか?




昨日の朝、通勤途中での出来事。

通勤に通っている道は、狭い道が多く、また車の通行量も結構

ある。ただでも狭い道なのに、道の両側には電柱が建っている。


電柱が横に立っているため、車がぎりぎり離合できるくらいの

細い場所で、私の歩いている方向と反対方向の車が対向車が

来ていたため、離合しやすいようにと気を利かせて、電柱の手前で

車をぎりぎり横に寄せ停車した。


すると、すぐさま後続のワンボックス乗用車の運転手がクラクションを

何回も鳴らし、いらだっていた。

そのクラクションの音で、対向車も進もうとしていたのを止め、停車した。

仕方なしに、ワンボックス車の前の気を利かせて停車していた車が

ぎこちなく発進していった。


さらに、このワンボックス車の運転手は、窓から紙屑のようなものを

道路に投げ捨て去って行った。


街中では、残念ながら珍しくない光景であったが、朝からなんとも

嫌なものを見せつけられた。このワンボックスの運転手のような自己

中心的な何にも考えていないであろう人に何を言っても時間の無駄

だと思うが、クラクションはともかくとして”道路はおまえのゴミ箱では

ないぞ!!”と言いたい。


一方、場所は通勤時の電車の中。

このところの豪雨でいつもは8両編成の電車が半分の4両で運行され

ていたため、車内が混み合っていた。


車内は、終点駅までの乗車客がほとんどにもかかわらず、皆がドア

付近に陣取っているため、乗るにも下りるにも人の壁を押しのける

必要があり大変である。そのため、いつも電車の到着時間がじわり

じわり遅れる始末。


車内の中ほどは十分空いているのに、いつも出入り口付近が猿団子

の状態は、乗車客が言葉で丁寧に”すいませんが、通していただけますか”

と言ったぐらいではビクともしない。


少し考えれば、どうせ終点駅まで乗車するのだったら、他の人のことを

考えて、中ほどまで詰める配慮することにより電車も遅れず、猿団子状態

のしんどい状態もなくなると思うのだが・・・。


今から30年前の社会では、もちろん同じようなことはあったかもしれないが

あまり多くはなかったように思う。電車が混雑していたら、子ども連れの乗客

なら、親が子どもに”混んでいるから、もう少し中のほうに詰めなさい”と

言って、他の客のことも考えたものだ。


30年前の社会では、今ほど便利でなかったが、他の人のことも考え、協力

しながら毎日を生活する”おしはかる”ことが日常かつ善しとしたj時代であった。


30年前に比べて、社会はインフラ的には格段に進歩し、短い時間でさまざまな

ことを実現できる便利な状況になった。

 しかしながら、便利で快適になったはずの生活が、時間に追われ何かと

神経質で周りを見て感じる余裕が全くなく、さらにそれが個人主義かつ

スタンダードとなった若者世代を生み出した。


電車内でウォークマンを耳にし、公共空間でも離脱に徹する、さながら

カプセル空間となった現状の人々に、はたしてかつての世界に誇れる

”おしはかる”という相手を大切に考える文化は再帰可能なのであろうか?


現代人は、便利さと引き換えにどんどん人間自身から遠のいているような

気がする。


今日テレビで鳥人間コンテストをやっていた。

毎年、恒例になり年々レベルもアップしている。

琵琶湖で行われるこの競技は、今や全国区の大会で

大学生や社会人などさまざまな人々がチームで1年を

かけて、フライトの日にすべてをかける。


しかし、今年の琵琶湖は天候的に非常に厳しく途中で

大会続行不可能となった。


この大会中止に至るまでは、各チームに悪条件の中

競技に予定通り参加履行するか、機体を来年まで持ち越し

次期のチャンスに賭けるか?の選択を迫られた。


その中でも、2連覇を果たしたものの昨年は、まさかの失敗

に終わった東北大のWindNorthチームは、リベンジを賭けて

今年の大会に臨んだのだが、チームの苦渋の決断で棄権

を選択した。


その選択は、1年の全力の努力と今日、雪辱をはらしたい

という思いと、今のメンバーでは最後で最後のチームワーク

という思いが絡み合ったものであった。


棄権を決断した瞬間に、メンバーの誰もが泣き崩れた。


この涙こそ、彼らの人生においてかけがえのないものとなる

ことは間違いない。


この涙の味が、これからの彼らの人生を一回りも二周りも

人間的に厚みのあるものになってくと期待する。


若いということは、すばらしい。

ぜひ、何かを成し遂げた後に泣き崩れることができるほど

ひたむきに、純粋に、どのようなことでもやってみてほしい。

今日は、久しぶりにゆっくり日曜の朝を過ごしています。

普段、忙しくてあまり見ることのないテレビをつけてみると

民放の番組で「60代からの”働く人生”」というテーマを

やっていました。


現代社会では、皆さんもよくご存じの通り”働く”方法の選択

として大半は、まず非正規雇用も含めサラリーマンにつくと

思います。


サラリーマンには、当然、だいたい65歳くらいで定年があり

ますが、今までは定年後の就労率は非常に低かったです。


これは、年金も満額60歳から支給され、終身雇用者のため

退職金もそこそこもらえた時代だったからだと思います。


しかしながら、現状はせっかく苦労して若い時に一流企業

に入っても、40代に入ると早期退職等の事実上のリストラの

リスクが高まり、終身雇用は荒唐無稽なものになりつつあります。

それに加えて、年金支給額はじりじり下がり支給開始年齢は

どんどん延ばされています。


そのような中、健康な60代に再雇用の機会が増えていること

や人出不足となってきている内容をテレビで紹介していました。


東京で立食形式でおいしいステーキを提供する店でフランス

で修行をして40年以上のキャリアを持つ方がシェフとして働かれ

ている例や大手商社をリタイヤしてゴルフ場整備をされている方、

航空会社を定年退職して接客に就いている方などなど・・・。


この方たちの映像を見る限りでは、いくつかの共通点を見出すことが

できます。


一つは、どの方も仕事の目的ありきで傍から見てもそれが伝わってくる

ということ。

ステーキ店のシェフであれば、お客様にとっびきり美味しい本場

フランス仕込みのステーキをリーズナブルな価格で食べて欲しいという

意識が仕事の一番の目的であり、決してお金儲けのためと言う訳では

ないという働き方。


もう一つは、皆さん働いていて、たいへん生きがいを感じられているご様子

であったこと。


このように見ると、これからは人出不足の背景があり、高齢者雇用が増加

するので退職後も安心して働くことが出来る社会になりつつあるのかと言うと

決してそうではないと思います。


確かに、人出不足や高齢者の雇用機会増加はありますが、あくまで即戦力

としての豊富な経験・ノウハウを持っていて、その能力がハイレベルである

ことが前提です。この条件は、これからの社会で必須となっていくことでしょう。


雇用者側も、高齢者雇用は余剰労働力の購入ではなく、長年培われてきた

世界に通用するオンリーワンの技術、品質を購入するということです。


土木現場で昨今人出不足が問題となっていますが、これは、ただ単なる員数

不足ということではなく、作業を効率的にかつ安全に進めることができる段取り力

を持った作業員が不足しているということです。


ここからは、特に若い方に考えていただきたいのですが、若い方には高齢者に

ない潤沢な時間があります。この潤沢な時間を”働く”という人生において避ける

ことができないテーマについて、どのように使用し取り組むのか?


ただ単に給与条件や休日条件が良いからといった理由を一番にし、あくまで

”仕事”はプライベートの充実のためにあるという考え方であるとしたら、これから

40年後の生活は、憂慮すべき事態に陥る可能性が非常に高いと言わざるを得

ないでしょう。


人は、他の動物とは決定的に異なる部分があります。

それは、人は社会的な生き物であるということです。また、その社会の中では

、通常、人は一人で生きていくことは不可能です。それ故、”仕事”は、個人が

この社会で生きていくための”役割”なのです。


この”役割”を果たす日々において、役割を果たした結果、他者から感謝され

ることがあった時に、このような自分の仕事の結果に対する

”他者からの感謝”が人の生きがいであり自らの存在理由ではないでしょうか?

さて、だいぶ間が空きましたがいよいよ最後のテーマ”運”の正体について私なりの仮説を

お話しようと思います。


世間ではよく”自分は今日は運が悪い”とか”今年は運が良い”とかとにかく”運”についての

話には枚挙にいとまがないのは、皆さんも十分ご存じのことと思います。

まず、この”運”の基準を第三者的に客観的に見ると、”運”の基準は常にどの時代においても

”自分にとって都合が良いか否かという、理解の簡潔性のため数学的に表現するなら、

時間というx軸と自己都合の優位度というy軸での関数で表されます。


つまり、運が良いとは常に自己都合軸にとって常に+の値がプロットされている状態を示すこと

になります。しかしながら、自分にとって都合のよいことは常に他者の営利関係との複雑な相互

作用の影響によって決定される現実から、自らが決定できるものではありません。


したがって、”運”とは基本的に自己セルフできないものだと考えます。

少し極端ですが、地球上の約50億人の自己都合のせめぎ合いの結果から為替レートのように

常に変動するものが”運”だと思います。


他者からの影響は、自然現象同様1個人の力では如何ともし難いパワーがあります。


このように考えると、戦時中や震災時などの社会的に異常時では、比較的人々の価値観の

ベクトルが揃っているので、その世相に沿った生活に全員が注力すれば全員が運が良い状態

になるでしょう。ただし、”運が良い”というのは”自己都合に叶う”という基準の他にもう一つ

”他者と比べて自分はラッキー”という他者比較前提があるので、全員がラッキーな状態になれば

人々は、おそらく”自分は運が良い”ということは認識に至らないでしょう。


”運”とは、自己都合が造り出した幻影なのかもしれません。