教会を去ってから試練の四年目で四か月が過ぎました。
私の霊の目はぼやっと見ていても、まだはっきりと見ることができる霊の目に成長していないせいか、その試練にある主の証しをうまくことばで伝えられません。

今日の朝、祈りの最中に主からの啓示を受けて、私の母教会に導かれて水曜礼拝に参加してきました。

霊の願いが教会に行くことであるのを魂では知りつつも、教会の内部に潜むサタンに対して十字架につけられる苦しみに耐えられないという不安から、三年四か月も教会へ行くことができなかったのです。

牧師による律法的なメッセージと、問題解決を魂の力に訴える「~しましょう」、「「~しなければなりません」的なメッセージは、私を十字架に導くことはないばかりではなくて、反対に聖霊に頼らずに魂のちからに頼ることに導くという反神的なものだったのでした。

この解析は霊と魂を分けるといった識別(霊による)によって真理の御霊が導いたのです。

今日、わたしはメッセージを聞きながら真理の御霊が働くとき、律法が私に対して無力であり、機会をとらえて沸き上がる罪は私にたいしては無力になることを知りました。

牧師によるメッセージを、霊による天的なものと魂による地的なものとに分けて聞く(霊の目による)ことで、私の魂は守られて平安にメッセージを聞いていました。

以前は、教会に潜むサタンに対して、私の内に働くサタンは反応し、私の魂を霊の支配下から遠ざけようとしていたのです。

教会の目にある塵は、私の目にある梁よりも小さなものであることは霊的な真実です。

私が自分の目の梁を除くために十字架を負ったなら、教会の目にある塵は私に対して何の影響を及ぼす力もなくなります。

私の霊の目が盲目状態であったために、教会にある罪を肉的に裁き分裂し、私自身が負うべき十字架を知りませんでした。

真理の御霊は試練を与えて、試練の年月日後の「とき」に霊の目を開いてくれたのだと思いました。

その霊の目は、三年四か月もの間、私へのとりなし祈りを続けてくれていた数人の兄弟姉妹の愛を見せてくれました。今、私の霊にある喜びとともに魂は満たされて感謝しています。

今、何処の教会にでもキリストの素晴らしさはあることを思い浮かべています。

私が三年四か月前に、誰もが信じることはできなかった「教会から出なさい!」と啓示を受けたことが真実なものとして証しされました。

サタンはクリスチャンをふるいにかけて、暗闇に落として神を見せないようにしようとして、教会の中に密かにふるいを張っています。真理の御霊はふるいを見分けて焼尽くしてくれると信じます。

欠けたところがないキリストのからだが、教会に建てあがるように切に祈りたいと思います。

教会の外に居るクリスチャンにある、そしりと非常な困難を、聖霊なる神が癒し、キリストの恵みへと導くことを信じて祈っています。


飢饉のために契約の割り当て地を棄てて、呪われたモアブの地に満ち足りて移り住んだ、エリメレクとその息子二人はそこで死にました。残されたエリメレクの妻ナオミはすべて失いました。

私達がクリスチャンとして召されたときには、ほとんどが教会を母として、その教会で新生しました。

母なる教会は産みの苦しみをするのかもしれません。
そして生まれたばかりの赤ちゃんは、母に抱かれ乳を飲みながら少しずつ健康に育っていきます。

小さいながらも自分の足で歩ける年頃になると、一方的な母の愛から少し離れて、みことばを食べることも覚えて育ちます。

神の教会の中で、母なるキリストのからだと、教会のかしらなるキリストは、神によって教会をキリストとした契約であり、教会にある恵みや愛は割り当て地とみることができると思うのです。

多くのクリスチャンが、教会から離れてこの世の呪われたモアブの地で生活しています。
その中には生まれたばかりの赤ちゃんが多くを占めていることでしょう。赤ちゃんクリスチャンにとっては過酷なこの世の生活環境では霊的な成長は望めないと思うのです。それは赤ちゃんクリスチャンが、キリストなるかしらと結び付いた母教会からの愛によってしか育たないと思うからです。

新生したばかりのクリスチャンは誰でもが、生まれながらの魂に支配されていて、しかも肉的なクリスチャンです。
肉的なクリスチャンには、霊的な食べ物は受け付けることができず、食べさせても吐き出してしまいます。肉は霊的なことに敵対するからです。
ですから新生児は、母の愛という乳によって育てられるのでしょう。

母の乳を充分に与えられない乳児は、教会の中に潜む霊的なモアブ人にまやかしの乳を与えられて教会の外へと連れ去られてしまいます。

新生児に硬い食べ物であるみことばを与えて育てるのは、かえって消化不良による弊害が大きいでしょう。食べるのに硬いみことばは大人の食べ物です。肉的なものを征するには、イエスの流した血の代価を払うことのできる霊の人によるキリストの愛が必要です。多くのクリスチャンが教会の外に迷い出てしまうのは、教会には霊の人がいないと言わざるを得ません。

イエスがこの世に現れてからの新約時代には、神が直接に御手を使うことはしないのです。すべの神の力はキリストを通して行なわれ、キリストと結び合わされたキリスト者を通して御力を現すようにされています。ですから神の愛を行使できるように、キリストを求めて祈りキリストとひとつになることが、肉的なクリスチャンを救うためには重要なことと思うのです。パウロのような偉大な使徒であっても、コリント教会の肉的なクリスチャンを愛して成長させるためには、産みの苦しみをしなければならないと言っています。その苦しみとは十字架につけられる苦しみに他なりません。霊の人とは、自分の十字架ばかりではなく、愛する兄弟姉妹のため十字架を負う人のことで、まさにそれはキリストとひとつです。

乳児には母の乳が唯一の食べ物であり、教会の中には肉的な魂をあがなえる神の力があるものと思います。

ですから教会から受けた愛が生けるキリストの証しであり、乳児が母から受けた愛は、霊的に忘れることはありません。そしてその愛が彼のクリスチャン人生にとってはいつでも土台となるべきものなのかもしれません。

そうして育った子は、いつまでも自分を生んだ母を忘れないでしょう。
そして産みの苦しみを通して生まれた我が子に充分な乳を与えた母なる教会は、決して呪われた者に我が子を抱かせることはしないので、教会の外へ連れ去られることはないでしょう。

もし連れ去られてしまったとしても、必死になって我が子を探しに行くのではないでしょうか。

モアブ人はロトがその娘との近親相姦によって生まれた子孫で、主の会衆に加わってはならないとなっています。

モアブ人は霊的な意味でサタンに支配されている者としての意味も含んで使わせてもらいました。

昨今教会の中には、いたるところにまでサタンの支配が及び、キリストのからだを欺いて見せていると思われます。

契約の割り当て地である教会から、知らずに呪われたモアブの地である教会の外に居るクリスチャンは、神の愛を受け取れずに、恵みを受け取れずに、かえってたくさんの悲劇に襲われているのではないかと想像しています。

教会の外にいるクリスチャンでも、神の愛を霊が覚えているはずですから、切に祈りその愛を呼び覚ますことが急務です。

そして内なる人であるキリストの霊を知れますように!

聖霊なる神からいつも注がれている愛が魂の領域に広がりますように!

モアブの地で悲劇に見舞われて苦しみの中にあるのであれば、教会の中に入って苦しみを受けることの方が、魂は救われると思うのです。

ナオミは手ぶらになって嫁のルツと一緒に、神がイスラエルの割り当て地に居る民にパンを与えたという、福音を信じてイスラエルに戻りました。
イスラエル(教会)に戻ってからは、落ち穂拾いによる苦しい生活でしたが、やがて割り当て地にある神の契約によって大きな恵みにあずかりました。

教会はキリストですから、キリストにある栄光の恵みを受けることができます。

教会の外にいるクリスチャンは、いのちの水が飲めずに渇いて、更には悲劇が続けて起こり、その霊は瀕死のようになっています。

どうか、パンを与えてくださる神の福音が、モアブの地に届きますように!

教会にある人の造った門が広げられますように!

私は、私を生んだ母を決して忘れてはいません。聖霊の力によって、私はやっと、わずかずつでもみことばの硬いパンを食べるようになってきました。私もまた教会の外のクリスチャンであり、やせ細った私の霊は聖霊から直接の養われによってクリスチャン生命を生きています。教会を知り、キリストを知り、教会の外に居るクリスチャンが、ナオミとルツのように神との契約の中入れられる復活を知ることができますように!

ブログ開設してから、一度記事を載せてからそのままになり、いまやっと二回目のメッセージを書いてみることにしました。

私達クリスチャンがクリスチャンデビューしたときに信じて告白したこと!
私達の罪の身代わりになって、神のひとり子であるイエス様が十字架で裁きを受け、死に渡されました。
死んでから三日後に死人からよみがえり、弟子達に現れてから天にのぼりました。
私達がどこから来てどこへ行くのか知らずに、罪をおかしながら彷徨い歩んできたことを赦してください。イエス・キリストを主として信じて受け入れます。いのちの書に私の名前を書いていただき感謝します。

この救いに入るときに信じたことや告白した話は、信じていないひとにとっては、愚かでばかげた話でしょう。
しかし信じるひとにとってはキリストの永遠のいのちに入り、この世の生活では神の知恵と力によって生きるようになります。

神の力によって救いを体験されたクリスチャンは、生まれながらの人のままでいたときには死んでいた霊が、イエス・キリストを信じてよみがえりました。そして聖霊がその生かされた霊の中に、聖なる宮として住まわれました。

私が教会を去ってひとりになってもクリスチャンであるという確証を持っているのは、救いの神の力の体験を発端に神の存在を認識するようになったからであり、私には聖霊なる神が住んでいるという事実があるからであり、キリストの霊を受けていることを聖霊が証ししているからです。

聖書の知識も無くて無学で知恵の無い私が、私の信仰が私の知恵と力に支えられているのではなくて、聖霊の力にささえられていることは私自身の魂も認める明白な事実です。

パウロのことば(1コリント2章)にもありますが、信仰は神の力にささえられるとあります。

教会を去ったからといって、一度与えられた聖霊を取り去られることはありません。

私達の生かされた霊も、イエス・キリストによる完全な愛の贖いによって、再び死ぬことはなくキリストとともに永遠に生きると約束されています。

いわゆる教会の外のクリスチャンでも、教会を離れてから何十年経ったとしても、霊は生きていて自分の意思に関わらずクリスチャン生命の火は消えることはないのです。
このことは間違いのない真実なことです。

私のような無学な者でも、聖書を知らなくても、霊から確証を得た真実なことです。

教会から離れたクリスチャンは、神から離れたのではありません。聖霊なる神がいつも一緒にいますから。自分の中に住んでいる聖霊を知ることができないのであれば、神に敵対する肉の働きが強いからでしょう。

イエスが迷い出た傷ついた羊を捜しにきています。

苦しむ者、罪ある者を救うために、今も生きて働いているイエスは癒しの愛を携えて来てくださいます。

教会の外にいるクリスチャンの信仰ほど、神によるささえを必要としているのではないでしょうか。

ユダヤの民が神によって散らされても、聖地エルサレムからどんなに遠く離れても、アブラハム、イサク、ヤコブの神に対する信仰だけは取り去られることはありませんでした。

外にいるクリスチャンが、信仰心を持つち続けることは、神のあわれみの力であり、しかもより霊的な信仰が与えられて、教会のために祈る者になると思うのです。

ユダヤ人にとってイエス・キリストがつまづきの石となり盲目にされました。それは異邦人に救いが及ぶためだとされています。
それは異邦人がユダヤのために祈るためではないでしょうか。

教会の外にいるクリスチャンは、どれほど多くいるでしょう。
教会はキリストのからだの奥義を見る目が盲目にされ、キリストのからだがつまずきの石になっているのではないでしょうか。

信仰は、神がささえることと、自分の魂が神を求めることが交わったときに形作られると思うのです。ですからあきらめないで、神様のささえを待ち望むことが、選ばれた者のゆるがない信仰へと強められるのでしょう。

そして私自身も教会につまずいたのですが、すべてを益にされる神様は、真理によってすべてを照してくれるはずだと信じて祈りたいと思います。