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He is Infinity - V.K応援ブログ

台湾の作曲家 / ピアニスト「V.K」の応援ブログです。

5/13に米国のラジオ局「星島中文電台」で放送された番組「粉絲樂翻天」のインタビュー内容を動画と併せてご紹介します。

※本内容は、V.K克本人の了承を得て翻訳したものです。無断転載はご遠慮願います(このブログページへのリンクは大歓迎です)。

<文中の記載内容について>

・内容を分かりやすくするため、補足説明を()で加えました。

・文中の下線部をクリックするとウィキペディアの説明を見ることができます(別ウィンドウで開きます)。

・タイトル(太字)の横に該当部分の時間を記載しました。







名前の由来(1:30~)

僕はネット発のアーティストです。ネット上で使われるニックネームは基本的にユニークなものが多いです。僕はゲームが好きで、「Kloud」は、僕の好きなゲーム「ファイナル・ファンタジー7」の主人公が「クラウド」という名前だったので、ずっとこの英語名を使っています。それから「V」は別に付けた英語名のイニシャルです。

「克」についてですが、僕は小さいとき、祖父にとても可愛がられていました。彼は亡くなる間際にも僕のことを気にかけて50元札をくれました。僕と祖父は大の仲良しでした。それで祖父をしのんで彼の名前である「克」を・・・彼の名前は「克」といいました。僕の苗字は「許」なので、祖父の名前は「許克」です。僕は彼の名前を「V.K」と組み合わせました。だから、「V.K克」という名前なんです。


ポピュラー音楽への道(3:09~)

実際には(クラシックからポピュラーに)転向したわけではなくて、中学のときからずっと(ポピュラー音楽が好き)でした。中学生のとき学校に電子ピアノがあって、何もすることがないときや授業の後、放課後はずっとそれで遊んでいました。その後、パソコンで作曲することに興味を持ちました。高校のときは音楽クラブやコンクールにも熱心に参加していて、パソコンを使って曲をたくさん作りました。

高校の時に、大好きだったアイドルが台湾に来ました。僕は昔、酒井法子が好きでした。その頃は高雄の高校に通っていて、高雄に住んでいました。試験期間中なのに勉強もせず、母と口論になりましたが、それでも彼女のコンサートを見に嘉義まで行きました。コンサートに行ったのはそのときが初めてです。彼女は音楽面ではなくて容姿が人気だったんですが、僕はあの日の彼女の歌に大きな衝撃を受けました。コンサートは初めてで、自分が好きな歌手だったので。コンサートが終わったあと、好きなアイドルとの距離がものすごく遠く感じられて、その感じがずっと自分の中でぐるぐる回っていました。翌日試験のために学校に戻りました。あの頃僕は日記を書いていて、「しっかり努力して、音楽プロデューサーになろう。大物歌手や海外の歌手とコラボできるようになれば、自分の好きなアイドルに近づける」と記しました。高校のときはそんなふうに考えていました。

また、(ポピュラー音楽に進んだ)もうひとつの理由は、久石譲や坂本隆一など大物アーティストの映画音楽や、アニメ音楽が小さいころから好きだったことです。好きだから、この分野の作曲にも携わってきました。

大学のときもポピュラー音楽やアニメ音楽のようなものを作っていました。僕の通っていた大学はアカデミック寄りでした。僕は作曲を専攻していました。作曲は現代音楽、例えばシェーンベルクバルトークといった無調音楽を学びます。僕は調性のある曲を作っていて、しかもポピュラー音楽だったので、大学の先生には受け入れられませんでした。だから、大学1年の前学期に、専攻が作曲であるにもかかわらず、作曲の試験を受けられないと通告されました。すごく厳しかったです。大学1年のときは入学したばかりで興奮していて、少し目立ちすぎていたので、出る杭は打たれるというか、先生が少しにらみをきかせたんでしょう。だから、僕は大学1年の前学期、入学したばかりなのに試験が受けられませんでした。すごく悲しかったです。母に何て言えばいいのかわかりませんでした。大学に入ったばかりなのにこんなことになってしまったので。

結局留年することになりました。追試や補修は受けられなかったので、単位を落としたんです。だから半年卒業を延ばして単位をとりました。でも、あのときは僕も真面目にやっていたんですよ。準備万端でしたし。1学期目は7重奏曲を書きました。作曲科は1学期目は比較的自由で普通であれば合格できるので、大学の環境や(自分が)作曲したものを試してみたかったんです。あのときはかなりショックでしたが、2~3日で立ち直りました。学生にとって一番心配なのは留年になることですが、僕はすでに留年が決まっていたので、それからは怖いもの知らずでした。

それ以降は大学側に受け入れられたというわけではありません。大学側は最初の時点ですでに僕を懲らしめていたので、他に方法がなかったんです。僕は自分の方向性が分かっていたので、大学が求めるものを学ぶ一方で、自分の作りたい曲を作っていました。これは自分の領域なので、大学は干渉できませんから。心配する人もいたかもしれませんが、僕は気にしませんでした。すでに事(留年)は起こってますから。自分のやりたいことを続けました。大学側は妥協したのではなく、一応OKしたんです。ほかに僕をコントロールする術はありませんから。

僕は音楽はみんなを楽しませるものだと思います。どうしてポピュラー音楽、耳に心地よい音楽の作曲に携わるのか。それには大きな理由があります。1つ目は自分が好きだから。2つ目は、クラシックを学んだ先生や後輩たちが、自分たちの作品や演奏会のチケットを売るのに苦労していて、学生に頼んでまで買ってもらっているのを見てきたからです。僕の音楽は人に頼んで聞いてもらうものであってはならないと思っています。人に頼んで聞いてもらうのは普通ではないでしょう。僕は自分の音楽が大衆の中に入っていってほしいんです。学生に強制的に売ったりするのではなく、好きで聴きに来てくれることが僕を肯定する形だと思います。


ドラマ『蘭陵王』の音楽担当となった経緯(9:33~)

僕は無名小站で「花水月(Hua Sui Yue)」という曲を発表していました。この曲は中国風の曲です。この曲はネット上で知名度が上がってきていてました。その後僕はピアノアルバムを出しました。

あるとき、『蘭陵王』のプロデューサーが僕のアルバムに収録されている「花水月」を聴いて、事務所に来てほしいと連絡をくれました。すぐにその翌日会う約束をしました。その会社について検索してみたら、大変知名度の高い大手ドラマ制作会社で、自分がずっと関わってみたいと思っていたような会社だと分かりました。これはいいチャンスだと思い、すぐにスケジュールをこじあけて事務所に行きました。そのときは僕もすごく緊張していました。でも、思いがけずプロデューサーの方がとても良くしてくれました。彼女は僕の音楽やこの曲が『蘭陵王』の主人公とヒロインのラブストーリーにとてもマッチしていると言ってくれました。僕も彼女の言うとおりだと思いました。彼女はこの曲の音楽プロデューサーとして僕を推薦してくれて、僕がこの歌(手掌心)に関することすべてにおいて力を発揮できるよう、取り仕切ることができるようにしてくれました。だから、彼女には良くしていただいたと思っています。MVへの出演も推薦してくれました。(この曲の歌手であるDellaとのコラボについても)蘭陵王がきっかけです。


雪舞MV(11:43~)


演奏形式について(20:00~)

協奏曲の概念について分かりやすくいうと、カラオケに似たようなものです。もちろん、協奏曲は実際に演奏するものです。事前に音楽を作る場合は伴奏音源となります。僕の音楽もいろんなタイプのものがあります。先ほど聞いていただいた「雪舞」は交響曲に近いです。通常は旋律を作って、伴奏はパソコンで編曲します。それから楽譜を作り録音スタジオで実際の楽団の音を録音します。最後にまた録音スタジオでミキシングを行い、各楽器の周波数を調整して1つの作品を完成させます。

演奏者の音源を録音する場合、楽譜は必須です。演奏者とのコミュニケーションが必要ですし、楽譜がないと演奏できませんから。パソコンを使って自分で作曲する部分については、演奏者がいないので楽譜は必要ありません。
演奏は一緒に行うものなので、誰かとコラボする場合、ある部分についてその人と自分との考え方が異なる場合もあります。でもボーカル曲やポップスであれば細かく分担されるので、違う人に(各楽器の部分を)編曲してもらうことができるし、効果も変わってきます。

(伴奏音源を使う場合)制限はあります。先に伴奏音源を作るので、そのスピードに合わせなければなりません。このことは舞台の複雑さの度合いに関係してきます。つまり、舞台音響が重要になります。舞台で演奏していると伴奏が聞こえないことがあります。そうなると伴奏の音とずれてしまって、聞きづらいですよね。だからモニタリングが大事です。僕はイヤーモニターをつけるようにしました。クリック音や伴奏の音がよりクリアに聞こえます。制限については、スピード面での制限があります。でも僕は制限された枠組みの中で自由なスピードを作ります。

(伴奏の有無について)それぞれに長所があると思います。伴奏音源がないときはピアノソロで、途中で自由に即興を加えたりスピードを変えたりと、そのときの気分で演奏できます。伴奏がある方が聴く人をひきつけるでしょう。バリエーション豊かな楽器の編曲を聞けるので、演奏効果もかなり違ってきます。


BGMの作曲について(23:39~)

BGMと通常の曲との一番大きな違いは、テーマだと思います。たとえば「手掌心」の作曲では、歌のメロディラインがはっきり分かるようにする必要があります。ヴァース(Aメロ)、コーラス(サビ)、そして最後のコーラス、少し盛り上がる部分です。この起承転結を1曲大体4~5分に収める必要があります。長すぎるとポップスっぽくないですよね。クラシックみたいに長くなってしまい、覚えられません。だからルールに合わせないといけません。でも、特別なケースもあります。大まかな方向性について言っただけです。

BGMの場合は、メロディラインが目立ちすぎてはいけません。映画や芝居においては、演じるための十分な空間を役者に与える必要があります。そのため、音楽はまったくの脇役または雰囲気でしかありません。この場合、コードや反復音の方がメロディラインよりも好ましいです。これが(通常の曲との)大きな違いだと思います。聴き心地の良い弦楽器の音をすぐに使ってしまうような作曲はいけません。その芝居にとってプラスではなく邪魔になってしまう可能性があります。

(BGMを作曲するときは)動画を見れるのが理想の状態だと思います。1度見てから全体の枠組みを決めて作曲するのが一番好ましいです。ただし、まだ撮影されていなくても先に作曲が必要になるときもあります。このとき自分の想像力と計画力が試されます。シナリオの内容はとてもいいのに、撮影されたものはそうでなかったりと、差が生じる場合もあります。だから、作業の流れや調整といった様々な問題があります。この状況でも作曲者の実力が試されます。(そういう状況があるため)ずっと調整していることもあります。(BGMの作曲は)一般の作曲より時間がかかります。

でもそれぞれの難しさがあります。普通曲を書く場合は旋律のことを指しますが、旋律を作るのは速くても遅くてもかまいません。みんな書いていますから。敷居は低いけど、競争相手は多いです。だから、このような条件で名曲だったり多くの人に好まれる曲を創るのは容易ではありません。これに対して、BGMの作曲の難しいところは、時間をたくさん費やして綿密に曲を創らなければならないことです。


音楽を担当した映画「到不了的地方」について(26:56~)

5月23日に台湾で上映される「到不了的地方」は李鼎監督の映画です。この作品は彼が父親を想う過程について描かれたもので、台湾各地の風光明媚な場所に行き、バイクで島めぐりをする映画です。バイクで海を渡って蘭嶼にも行きます。映画の風景やストーリーはとてもすばらしいと思います。さらに、この映画の主題歌は蕭敬騰が歌っています。この曲は彼のために作り上げたものでもあります。この歌についての彼の解釈は、この曲にとってプラスになっていると思います。


自身の病気について(28:28~)

強直性脊椎炎という病気です。周杰倫もこの病気にかかっているので、おそらく皆さんよく知っているんじゃないかと思います。この病気は不治の病です。一旦かかってしまうと一生この病気がつきまといます。病気と共存しなければなりません。強直性脊椎炎は、理論的に言えば、細胞が細胞を攻撃するという免疫系の病気です。この病気は遺伝します。だから僕も遺伝です。小さいときにバスケをしていてけがをしたのが引き金となって発症したようです。

この病気はすごく苦痛です。自分の行動や普段していたことが少しずつできなくなるからです。僕は昔バスケが好きでしたが、脊椎への負担が大きいため今はできません。もともとできていた些細なこと、たとえばジョギングだったり、芝生に寝転ぶことだったり、見るからにありふれたこと、もともとできていたことが、すべてできなくなりました。心を慣らして、自分が今できることを大事にしなければと思っています。

痛みについて分かりやすく説明しましょう。普段横になって休んでいるときに電話がかかってきたら離れた場所にある電話のところまで行きますが、基本的に僕は電話に出られません。起き上がるのにすごく時間がかかるからです。発作が起きたときは、楽になってから大体5~10分で起き上がれます。台湾の一部の旧式マンションの場合、配達の人が速達や書留を届けにきても、呼び鈴を押してすぐに去ってしまうので、受け取ることができません。このことは強直性脊椎炎患者にとってすごく不便な点です。

薬は(病気を)コントロールできます。少し楽になるし、病状の悪化を遅らせることができます。それから運動を取り入れます。

あと、もう1点、ほとんどの人には痛みがあるように見えません。元気そうに見えますから。あるとき歯医者に行ったんですが、椅子は倒れている状態ですよね。歯科医は診終わったら自動的に椅子が起き上がるスイッチを押しますが、あるとき(強直性脊椎炎患者だということを)忘れて、誤って押してしまったんです。するとそのせいで僕は息ができなくなって大変でした。おそらくショック状態だったんでしょう。些細なことが僕たち患者にとって大きな危険になります。これが怖いところだと思います。

両親はすごく心配してます。あの頃(過去にいろいろな治療法を試した時期)はとても苦痛でした。(最初は病名がわかりませんでしたが)大学生のとき自分で検査に行き、そこで病名が分かりました。それ以前にも病院で検査を受けたことがありますが、何の病気か分かりませんでした。おそらくその時点ではまだ分からなかったんでしょう。それまで長い間民間療法を続けてきました。すごく苦痛で怖かったです。母が近所の人に会うと、その人も僕のことを気にかけてくれて、あれやこれやと不思議な治療法を話すんです。そして、毎回試しても何の効果もありませんでした。それですごく疲れてしまって。以前はとても痛かったし、試す勇気がありませんでした。でも母は試してもらいたいと思ってるんです。親にとってはそれが一つの希望だったので。僕も親に背くことはできないので、あの頃は苦しい状況でした。


インタビュー動画(33:14~)

V.K克:以前、舞台で発作がおきたことがあります。鍵盤を弾くたびにひどく痛みました。

V.K母:最初は打撲だと思いました。

V.K克:そのときから腰の辺りに激痛が走るようになりました。それから目が急に赤くなってきて涙が出ました。僕は眩しいものを見ることができません。

V.K母:それで、民間療法から始めていったんです。

V.K克:痛みがひどいときにはベッドから起き上がることができません。病気が僕の創作活動に大きく影響しました。

その後、医者に薬を勧められてからは大分良くなって、舞台でも活力のある音楽を表現できるようになりました。

V.K母:この子は体の具合が悪いことを言いません。「痛い」と言うことさえほとんどないです。

V.K克:体の痛みや、僕がどれだけ苦しみに耐えてきたか、あまり知られたくないんです。両親の心の痛みは僕よりもずっと大きいだろうから。

V.K父:ずっと頑張ってほしいですね。

V.K母:息子よ頑張れ!父さんも母さんも応援してるよ。

V.K克「僕は、より確固たる自分を持つ力を音楽に見出した。

僕はV.K克。僕は僕の音楽で人生を綴ってるんだ。君は?

これが唯一無二の僕。」

V.K克:どれだけの道のりがあるか分からない。でも僕は知ってる。一歩前に進めばその分だけ夢に近づけるってことを。


V.K克にとって音楽とは(36:57~)

音楽が僕にくれるパワーは「出口」だと思います。自分の感情を吐き出す場所であったり、みんなに言いたい心の声だったりするからです。聴く人は音楽を通じて僕が何を伝えているか知ることができるし、自分で想像してもらってもOKです。音楽はこういった効果をもたらしてくれる以外に、僕の声(音楽)を皆が聴くことによって癒しになったりするんだと思います。このことは良い循環だと思います。つまり、僕は作曲で表現し、それを聴いた人が楽しんで、facebookとかでフィードバックしてくれます。それがまた僕にとって大きな原動力となります。とてもすばらしいことだと思います。


CDデビューへの道のり(40:49~)

ネットを通じてプロモーションをしてきました。最初はいろんな大手レコード会社に売り込みに行きましたが、断られました。僕はそれでも自分の夢は持ち続けようと思いました。まず作品を完璧なものにしました。念入りにチェックし作品を完成させてからインターネットにアップしました。アップする場所も知名度の高いサイトにしました。人気を集められる場所であることが要件の1つだったからです。最初は無名小站でした。「香草泡泡的季節」と「花水月」の2曲はネット上の多くの歌手を打ち負かして、ネットユーザーの人気を集め、ブログのBGMに使ってもらうようになりました。その頃から、自分の音楽がネット上でかなり人気があることに気付きました。それからアルバムを出したいと思い、自分でCDの生産・包装を始め、電話を受けました。アルバムを出すことをブログでみんなに伝えました。これはすごく勇気がいることだと思います。一般の歌手みたいにMVも記者会見もあったわけではないので。こうやって自分で郵便局に行ってアルバムを郵送し、電話で販売しました。

ラッキーだったのは、僕が好きな音楽と聴き手が好きな音楽がちょうど一緒だったことです。だから多くの人気を集めました。それで最初のアルバムは5,000枚以上売れました。そのときネット上に海賊版のフォーラムがあって、(僕のアルバムの)海賊版のダウンロード数が当時の人気ドラマ「ブラック&ホワイト」のサントラのダウンロード数と同じくらいでした。そのときは海賊版のユーザにかなり注目されました。

それから2ndアルバムと3rdアルバムを出して、本や楽譜も出して、コンサートもしました。無名小站の時代が過ぎてからはfacebookを始めました。動画も撮影しました。動画は最も直接的な方法だと思ったからです。メディアは変わりつつあります。宣伝やCMにたくさん資金を費やしても、レコード会社はそれほど大きな効果は得られないでしょう。だから、僕らにとってはチャンスの時だと思います。それで動画を撮ってYoutubeにアップし、facebookのコミュニティー力を通じて、みんなにシェアしてもらい拡散してもらっています。


ピアノコンクールについて(43:56~)

「琴之翼V.K克国際ピアノコンクール」を開催しています。今年で3回目になります。




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