鬱に襲われたり夜勤が連発したりで落ち着く暇なく過ごし今に至りて思うのは( ゚д゚)ハッ!ブログを忘れていたよ。ということ。毎日書くのをオピニオンにしていたのに良くないと反省猛省をして原点回帰、ランニングして音楽聞いて小説読んで無意識が潤って産まれる生まれる字面の嵐が頭の中で(_๑òωó)_バァン

 とかく夜勤というものが続くと人間本来の力が減少して意識下に澱のようなぱんぱんに溜まって気づくと己が消え人生というものが不明になり非常に良くない。から、私はともかく他者に優しく接して頭の中ではブルハの人にやさしくをずっとリピートさせて生きる、とまぁ自己の存在に光がさして存在価値のようなものがぱぁ✿゚❀.(*´▽`*)❀.゚✿と生まれて生きていることに感謝できる。そこでやっと表層意識がデフラグされて無意識にアクセスできるようになる、つまり瞑想状態へ持って行くことができる。禅である。「随所快活」といういまを大切にして常に自分らしく生きるという禅語を胸にいまは生きている。それは瞑想状態にアクセスできたゆえに得られた、天啓のような言葉である。

 人間って、瞑想状態にはいると神仏から言葉を得られる。その言葉の中に忘れられぬものがある。曰く「あるがままに ありのまままに ゆるりゆらりと生きる。そして、他がために鐘を鳴らそう」
である。
それが25歳の時に得られたのだが、それをモットーに11年間生きている。まぁ躁になったり欝になったりもするけど、わりとうまく生きれるようになった気がする。他者に敬意を愛を持つとなぜか己の中で花が咲く。やはり人間はひとりでは生きれないということであろう。または、私の前世がそのような生を送ったがために私の潜在意識が歓喜するためかもしれない。そう考えると、すごく形而上学的な話になるが、人間は前世に縛られて前世に救われて生きているのかもしれない。つまら、魂の存在なのだろう。昔、GLAという宗教団体に入信していたことがあったが、そこでは魂の発見といって非常に良いテクストを用いて信者を導いていたなと思う。でも、私には思考を固定化させている気がして思考の檻をを感じてしまい退団した。そのような檻を感じない人にとってはよい宗教だと思う。

 まぁとにかく復活したのでまた毎日書記を欠かさずまた日々を生きていこうと思う。

 hozierのTake me to churchがgoodsongでこの頃毎日聞いている。coldplayにしても最近はメインが目立つ音楽よりも背景の美しさを際立たせる音楽に着目している。絵画でいえば風景画のような音楽が世界のトレンドなのだろうか。