形骸化した宗教が巷には溢れている。隣人を愛せよと教えたキリスト教者が戦を繰り返し、血と涙を背負った十字架が雨に濡れている。聖書を実践して実地で行うことを良しとせず、神をアイテムとして戦をするための理由として活かすようになった人類の行く先は創造のない破壊あるのみである。
 形骸化した宗教が巷には溢れかえっている。南無妙法蓮華経と唱えれば願いが叶うと、家にある仏壇を破壊して葬式では親族からお金をもらう、そんな日本の新興宗教である創価学会はフランスではカルト宗教として認知されている。それを日本人は馬鹿の一つ覚えで疑いももたずに家の壁に池田大作のポスター、聖教新聞のポスター、公明党員のポスターを貼る。宗教とは一体なんなのか?人類がみな幸福になるためのものではなかったのか。北野武が宗教とは礼儀や道徳を教えてくれるものである。といっている、その通りだと思う。では、その観点から近代の宗教はなんなのか?

 私はマザーテレサを尊敬する。心から愛している。あのようなキリスト者がほんとの宗教者ではないだろうか。

 介護をしていて怒りが溢れる時もあるし、自分が嫌になる時もある。だが、私は彼女を思って仕事を行う。なぜなら、介護とは自分にとって宗教的活動だからだ。