ともかく村上春樹が好きでテーブルの上には彼の文庫がないと落ち着かない小生です。

 いまは1Q84を置いて暇な時に読んでは文書のうまさに舌を巻く事甚だしい数。(ほんまに青豆という名前は存在するのでしょうか)

 この記事はスマフォで書いているので短いです。やはりノーパソで書くのがベストですが炬燵から出たくないという怠惰に負ける太宰信仰の小生でもあります。

 では、今回のテーマが人との出会いですが。
私はいま介護施設で介護職員として働いています。利用者様にしてもナースにしても介護職員にしても人がうじゃうじゃいる職場です。
 私は様々な仕事を経験していまして(飽き性)、本屋、服屋、マンゴー栽培、工場、出会い系のサイト管理など多種に渡ります。その経験を踏まえまして私が思うのが、人が多い職場は人間の勉強になるということです。

 勉強になるとはなにか?といえば、色んなパーソナリティに触れる事により自己の世界が少なからず影響される訳です。そこにはもちろん、仕事ができる人、できない人などのシンプルな影響もありますが、もっとも大きいのが生きる事に対する考え方です。

 なんてたって、死が傍にあるので嫌でも死生観を持つ訳です。その中で一番興味深いのが無宗教の方々です。独特な死生観を持っています。ただただエゴのみで生きる人、他のために生きようとするもの、ともかくお金を求めるもの、様々な思考形態の上でみなさん頑張っているわけです。

 そこに触れていると自分の死生観も醸成されます。生きるとは何か。私とは何か?隣人愛とは?あらゆる事を思考するのですが、仕事内容は排泄、食事、入浴というプリミティブな内容です。そこに差異はなく、人間本来の生活をもう一度考える機会を与えてくれます。何故なら、人間はその三つを古代から送ってきたわけで現代に始まった訳ではないからです。

 そのような環境から得られる印象としていま一番感じている事は「ともかく人間はたくさんの他者と話すこと」が最も重要だという事です。

 それは自分のためにも他者のためにもです。他者に映る自己が私なのでそれが他者にとっての私の真実なわけです。その鏡の作用をうまく利用し人間は成長し続けるのだろうと思います。

 そこにはもちろん他者の意見を素直に聞く謙遜の耳を持たねばなりません。バイアスのない心で他者と向き合わねばなりません。そのためにも、人は人との出会いで成長するという、シンプルな真理を意識して生きる事が重要なのではないしょうか。