子どもの頃は、時計が不思議な物体に見えた。目覚まし時計でも、同じところから出ている長い針と、短い針が別々の動きをするのが不思議だった。持っていた自動車とかロボットとかのおもちゃは、分解してから組み立てることができていた。その自信があったので、目覚ましを分解した。おもちゃとは比較にならないほど複雑だったが、見ているうちに、分解の仕方が見えてきた。そこで、細いドライバーで分解にとりかかったが、歯車を外すため、全体の枠を支えているネジを緩めると、「ピーン!」とすごい勢いでゼンマイが跳んだ。すると枠が一気に緩んで、あちこちの歯車がボロボロと外れ始め、修復不能となった。しかし意外にも、父はそれほど怒らなかった。

 

その父親が遺した、これは腕時計だ。こうして写真を撮ると、長い年月を感じる。と同時に、少し手を入れれば、もっとマシに写るかと反省もする。父が没したのは2000年で、その10年ほど前に購入しているから、もう30年近く動いていることになる。確かクォーツが出初めのころのだが、今でも圧倒的に正確だ。電池の交換は3年に1回程度。急に何時間も遅れが出るので、それとわかる。そこに至る前の時刻の狂いは毎度30秒くらいか。家電量販店で電池を替えてもらうとき、時刻合わせをしてくれるが、自分では3年間、一度も時刻合わせをしたことがないと言うと、係の人は一様に驚いてくれる。そんな時計は、いまの最新型でも滅多にないそうだ。だからオーバーホールを勧められても、取り合わない。変に調整して、正確さが失われたのでは、元も子もないから。

この時計が役に立たなくなるときは、私が腕時計をしなくなるときだと思っている。腕時計がなくても、時間を知る方法はいくらでもある。

 

長野朔太郎