心の薬箱~一生使える“心”を楽にする方法~【名古屋の心理セラピー】

心の薬箱~一生使える“心”を楽にする方法~【名古屋の心理セラピー】

一生使える『自分の感情の癒し方』と『自分との付き合い方』
――すべて実践に基づいた、今日から使える方法を紹介――

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『考え方が変わると現実が変わる』


それを今日立て続けに3つも体験したので、シェアします。


『考え方が変わると現実が変わる』というフレーズ、見たこと読んだことあるかと思います。


「考え方」を思い込み、観念、潜在意識など、他の言い方で表現される場合もあります。


本当に考え方や思い込み、要は自分自身の思考の癖が変わると、目に飛び込んでくる世界も変化するんだ、とものすごくわかりやすい例で今日は3つも登場してくれました。


1つ目は、人生で初めての四つ葉のクローバーを見つけたこと。


これまでの人生、おおよそどこに住んでいても三つ葉のクローバーが群生するところばかりでした。


子どもの頃、しろつめくさで花かんむりや首輪を作った位に足繁く通い詰めたし、大人になってからも四つ葉を真剣に探したことがあります。


それでも一度も見つけられたことがありませんでした。


よく見つける人は、一気にいくつも見つけたり連日見つけたりするそうです。


そんなすごい人がいるんだ!と思っても、何せ一度も見つけられたことのなかった私、それは私には縁のないことだと思っていました。


今日だって「さぁ今日こそ見つけられるはず!」と思ったわけではありません。


ここ1~2ヶ月位時間をかけて色々変わってきたことがあるから、本当にそれで何かが変わっていたら四つ葉のクローバーが現れてもおかしくない、という程度の思いで見たのです。


近所で用事を済ませ、いつも通る公園の道を歩いていました。


三つ葉が群生しているところがあり、たまたま葉っぱの形が見やすい形状で群生しているスポットを見つけました。


「まさかねぇ」と思いながら、立ったまま1メートル以上上から地面を見下ろしてみると、なんと四つ葉のクローバーらしき姿が!


うそ!?!?!?と思い、今度はかかんでもう一度よく見てみます。


本当に正真正銘の四つ葉のクローバーでした。


37歳の今、人生で初めて自分の目で四つ葉のクローバーを見つけました。


かかった時間、おおよそ2~3秒。


嘘みたいな本当の話です(写真は、証拠写真)。





2つ目は、犬との出会い。


1つ目の用事を足す時の行きの道で、1匹の白い中型犬とすれ違いました。


すごく人懐こそうな犬で、首輪で行ける最大の距離で私に近付いてきました。


私とすれ違っても私を後追いするような感じで、犬と飼い主の女性にこんにちはと挨拶してその場を去りました。


ちなみに私はようやくここ何年かで犬に触れるようになりましたが、基本的には苦手です。


四つ葉のクローバーを発見し、そのまま帰路をたどっていた時です。


30メートル先に、その犬と飼い主さんの姿が見えました。


さらにその30メートル先に、着物を着た女性が見えました。


犬はその着物の女性にものすごく吠えていました。


てっきり知り合いの女性なのかと思いきや、女性は次の角で頭を下げることもなく曲がったので、全くの知らない人だと判明しました。


そうこうしているうちに、またその犬と私がすれ違ったのです。


今度の時も犬はとても静かに私の方に少しずつ近寄り、飼い主さんに行くわよという感じで首輪をひかれるものの、それでも犬は少しでも私に友好的に近付こうとしていたのです。


私はそれを見てびっくりしました。


犬に吠えられたことはたくさんあったし、あまり近寄ってこられることもない私です。


ですが、その犬は、ある人には吠えるのに私には全く吠えないどころかやたらと友好的に振る舞うというとても不思議な光景でした。


だから何!?って話ですが、要は「吠えられて当たり前」「犬に好かれなくて当たり前」だった今までの私の世界とは、全く別の世界を今日は目の当たりにしたのです。


3つ目は、頑固な洗面台の汚れが落ちたことです。


明日から人がうちに泊まりにくるため、掃除をしました。


洗面台ですが、もう何度掃除をして磨いても、どうしても落ちない汚れがありました。


風呂用洗剤もハイターもカビキラーも全く効果なし。


歯ブラシやブラシ、目の粗いスポンジも効果なし。


もうその汚れは落ちないものだとずっと思っていました。


今日ふと「そういえば歯磨き粉って研磨剤が入っているはず。これで取れたりしたらすごいな」と9割は冗談で歯磨き粉のチューブを絞って、それで掃除用の歯ブラシでごしごしと磨いてみたのです。


もうびっくりしました。


他の何も効果が出なかった頑固な汚れが、きれいに落ちました。


しかもきれいにした箇所は、新品同様の輝きまで出ています。


もう何年も落とせなかった汚れが、歯磨き粉で一瞬ではないにしても数分できれいに落ちました。



四つ葉のクローバーも、友好的な犬も、洗面台の汚れも、どれもこれも特別な話ではありません。


ただ3つ共に共通しているのは、私がこれまで全く疑うこともなかった自分の世界の在り方を、がらりと変えてしまう程の変化だったということです。


その3つの劇的な変化を見て思うことは、多分自分でも気付かないところで思い込みや思考の癖、観念などと呼ばれるものたちが変わったのではないかということです。


この1~2ヶ月は特に、自分が苦しくなってしまう思考のパターンを変えたいとは常々思っていました。


ただ長年の癖は、そう簡単に変わってくれるものでもなく、あれこれ試すもののあまり効果を感じないことの方が多かったです。


でも今日3つも立て続けにわかりやすく変化したものたちを見て、何か少しずつ自分の中で変わっているのかもしれない、と思えるようになりました。


今日は長くなったのでここで止めますが、次回以降この1~2ヶ月私がしたことを紹介したいと思います。


あれこれやったので、実際はどれが功を奏したのか、またはどれも実は関係なかったのかもしれません。


ですが、やったことはそこそこ楽しくやれたので、その楽しくやれる幾つかのことを紹介したいと思います。


最後までお読みいただきありがとうございました。


関連記事:『自分の思いと異なる状況に身を置く時のヒント』
人生の中で、自分の思いと異なる状況に身を置く時があります。


それは置かざるを得ない場合だとか、自分でその状況をコントロールできないようなもの、自分の中では全く納得できないけれどそうなってしまったもの、そんな場合です。


離婚、リストラ、病気、死別、転職、などなど。


今日、とある方に、そうした時に自分のためにできる心構えを聞いてきました。


とてもわかりやすいアドバイスだったので、シェアします。


1:一旦は、その状況を引き受ける。仕方がないとあきらめる。


2:目の前のことに対して、淡々と動く。



1を経て2を実践していくうちに、どこからともなく応援が入るからと言われました。


「あきらめる」というのも2種類あって、この場合は「明るいあきらめ」だと言われていました。


もう仕方ないから、そうなったものは仕方ないから、それを引き受けようというものです。


何で私ばっかり…というような類いの後ろ向きの気持ちでいるうちは、いつまで経っても変わらないとも言われました。


別に納得しなくてもいいから、もうそうなったものは仕方ないと思えるようになったら大丈夫とのこと。


事実、アドバイスしてくれた方は、人生の中でやむなき事情で自分がしていた大好きなことを辞めて、全く別の道を10年近く前に歩まざるを得ないこととなりました。


それを受け入れるのに半年近くかかったそうですが、今ではそちらの道に進みすごく幸せだと満面の笑顔でおっしゃっていました。


おっしゃらずともその表情や姿勢を見ていたら、とても幸せだということは伝わってきます。


これから私自身もある種の方向転換をします。


前向きになれないことだらけの中で、今日のアドバイスは本当に心に響き渡りました。


なんとなくシェアしたくて書きました。


最後までお読みいただきありがとうございました。
「言葉の力」というのは、ビジネスでも育児でも色んな場面で使えるものとして紹介されています。


アファメーションと呼ばれる自分で自分にかける言葉を工夫しそして自分の望む結果を手にしていくというような手法もあちらこちらでよく紹介されています。


私の場合は、言葉の力を実感できる時と、全然言葉なんか役立たない!と思う時と半々ですが、今日さきほど「言葉の力」を用いて一気に問題が解決できたので、それについて紹介します。



若干くだらない内容ではありますが、原理原則を理解するにはかなり良い例だと思います。


先ほど6年ぶりぐらいに大きなスーツケースを開けようとクローゼットから出しました。


使う前に一度日光浴をさせようと思ったのです。


ロック解除をしようと3桁の数字をセットしました。


ところが開きません。


他のいくつか思い当たる数字を入れましたが、すべて全滅。


ですが、明日必要です。


何があっても開けなくてはいけない。


6年ぶりとあり、スーツケースの鍵のありかも不明。


下手したら何百キロも離れた実家に置いたままという可能性もあり。


途方に暮れながら、とりあえず000から順に数字を入れてみました。


少しやっただけで嫌になり、999までの1000通り全部試すなんてやりたくない!と思ったのです。


他に方法はないものかと、ネットで検索しました。


そうしたら検索でヒットしたページの最初の記事にこんな文章がありました。


スーツケースロックの色んなケースを紹介し、どの方法もちょっと厳しいなぁなどと思いながら読み進めると、例の000~999を1つ1つ入れて試す方法のところに行き着きました。


そうしたら太字+色文字で、
「ほとんどの場合10分以内で開きます」
とありました。


このたった一言が、999まで試すなんてやってられない!とさじを投げた私に希望を見せてくれました。


10分以内で何とかなるなら試してみよう!となったのです。


それであっという間に設定した数字を見つけ、無事スーツケースは開き、今日光浴している最中です。



ちょっと分析してみると。


実際は、私が最初に試した方法も、ネットで方法を調べて試した方法も全く同じでした。


唯一違ったのは、どういう視点で取り組んだのかだけです。


自分で最初に試していた時は、1つ1つの数字を入れていくのが半永久的なものに思え、全く終わりが見えていませんでした。


面倒くさい、本当に見つかるんだろうか?、もしそもそもロックの方が不具合だったら開かないままじゃないか!?など、もうありとあらゆるネガティブな想像を頭の中で繰り広げ、これがさらに気持ちを沈ませる原因となっていました。


例の「10分以内で開きます」という言葉を見た後は、10分程度なら試しても苦じゃない、大体は開くとあるから開くのだろう、と「開く」ことに意識が向き、そして面倒だったものが面倒ではなくなりました。


そして10分やっても開かなければ、次の方法を探すことにしよう!とこれまた気持ちが自然と切り替わっていました。


何が起こったのか、そのたった1つの影響は、「言葉」でした。


たった一言の言葉が、脳内でこれまでネガティブ一辺倒だった景色に、「可能性あるよ、面倒じゃないよ」という景色を見せてくれるきっかけを作ってくれたのです。


言葉の力をこんな風に使えると、一気に問題を解決できるんだという良い例になりました。



最後までお読みいただきありがとうございました。
ひょんなことから始めた「予想外のことが起こるかどうか」をただ見る実験。


「予想外のことが起こってもいい」ということにして、あとはそのまま放置。


日常をいつもと同じように営んでる。


何が起こったかって、もうびっくり仰天。


それらを引き起こすための確率を計算なんかしたら天文学的な数字になること間違いなし。


お金も人もヒントも想定外の形でやってきている。


これがどこにどう繋がるかなんてわからない。


だけど今しているのは、「予想外のことが起こってもいい」という信念の下に日々を送っているだけ。


「予想外のことが起こってもいい」…やってみると面白い結果が出てくるかもしれません。


そこから見えてきているものはまた後日シェアしたいと思います。



最後までお読みいただきありがとうございました。
今を基準に、10年前・10年後と言われたら、あなたの中にどんな思いや場面が浮かびますか?


10年前というと2006年、10年後というと2026年。


私にとっての2006年は、人生の中でそうそうない激動の1年でした。


失恋に新しい恋に、退職確定に次の新しい進路(引っ越し伴う)に、色んなものが一新された年でした。


あれから10年経った今、私が最初に思ったことは、10年後には10年前のことが20年後に変わるということでした。


この「20年後に変わる」というところに、私はものすごく希望を感じたのでした。


その激動の始まりと言ってもいい2006年から今の2016年に至るまで、良くも悪くも人生の酸いも甘いも幸せも苦しみも全部一緒に怒涛のように押し寄せてきた時間でもありました。


10年前に起きたことを自分の中で噛み砕くのに、私は10年必要でした。


もう100%癒された!とは言い切れなくても、日常生活に差し支えない、何だったらそのことをほとんど忘れて日々を送れる位に回復したのが今です。


もちろんいつまでも過去に固執するとか、過ぎ去ったことをいつまでも握りしめて離さないとかいうことではありません。


色んな感情が複雑に絡み合って、最初の数年はそのこと自体に向き合えない程でした。


蓋をしても起こったことは消せるわけもなく、だけどそれをありのまま見つめるにはあまりにも心の準備ができていませんでした。


少しずつ向き合えるようにはなったものの、痛みは依然として当時とさほど変わりなく、この痛みがいつか解き放たれるなんていうことは、さっぱり想像できずにいました。


時間が過ぎて行くだけで痛みは痛みのままだった当時、「時間薬」なんていうのは人間のとても都合の良い解釈にしか過ぎないと、ものすごく批判的に見ていました。


10代~30代前半の私は、「時が解決する」なんていう言葉は嘘かと思っていたのです。


なぜなら「時が解決」してくれたことが体験として1つもなかったからです。


だから大人たちが言うところの「時が解決する」なんていうのは、あれは妄想か期待の範疇での話かと大真面目に思っていたものです。


ところが自分も30代も後半に差し掛かり、当時のこと含め過去の色んなことを思い出すと、「時が解決してくれる」ことがあるということを体験し始めました。


何て言うんでしょう。


過去のことはもう何にも変わらなくても、時間と共に傷になっていた部分が和らいでいくというか、前ほどに気にならずに済んでいるというか。


もちろんそうした過去を癒すための手法も学んだり自分で実際に試したりセラピーを受けたりと色々してきたことも功を奏したのでしょう。


ただそうしたことを一切していない過去のことも、なぜか癒されていたということがあるのです。


「時間薬」というやつかもしれません。


で、そんなこんなを思っていたら、今から10年後は当時からしてみたら20年後に該当するわけで、20年後なんて言ったら今よりももっともっと癒されて時間薬の効果が発揮されてるのではないかと思ったのです。


自分がその時も生きているのかどうかとか、もしかしたらその時もっと他のことで思い悩んでいるとかどうかとか、そんなの関係なしに、とりあえず20年前のことはこれから先の10年という時間の中でさらに癒しが進むだろうと、とても自然に期待を持てている自分がいました。


「時間薬」という、文字の通り時間が経たないことには効果を実感できない薬が、それでも確実に自分のためにあるんだ、とわかったことは大人になって発見できた偉大なことの1つです。


この「10年前・今・10年後」という物の見方は、他にももっと応用が効く面白い視点です。


今回は過去の癒しや時間薬についての希望を見出しましたが、他にも別の希望や視点を与えてくれるものだと思います。



最後までお読みいただきありがとうございました。
「同じことが起こっているように見えて、結果全然違うことが起こることもある」、ということを先ほど体験したのでそのシェアです。


先ほど、パソコン上でエラーが発生してあたふたしました。


それというのも、約1ヶ月前に起こったエラーと全く同じ症状が出たからです。


1ヶ月前も別のブログで文章を完成させ、あとはアップするというだけの状態でした。


ところがパソコンがなぜかフリーズし、文章の一時保存もできず、再起動するもその完成させた文章はとうとう復元できぬままとなりました。


ネット上の履歴からもそのフリーズした時間だけきれいに消えていて、そこからの文章の復元もできませんでした。


ものすごくよく書けただけに、しばらくショックで茫然としたほどです。


そしてまさかのまさかで、今日も先ほど全く同じ症状に陥りました。


文章を完成させ、あとはアップという頃。


いつから停止していたのかはわかりませんが、時計は14:38でずっと止まったまま、やたらに長い1分だなぁと最初は思っていたのです。


でもあまりにも長すぎると思い、携帯で時間を確認するとすでに15時を過ぎています。


もしや!?と思い、アップさせるボタンを押しても無反応。


そのうち画面上には砂時計のマークが現れ、何も動かなくなりました。


また前回の二の舞だと最初は思いましたが、もしかしたら活路が見出せるかもしれないと思い、とりあえず強制終了を試みました。


ところがです。


この強制終了がなんと強制終了にならず、なぜか再起動したのです。


6~7年の付き合いのパソコンですが、未だかつて一度も強制終了して勝手に再起動したことなんてありません。


その再起動もうまくはいかなかったのですが、代わりに完成させた文章をパソコン内のメモ帳にコピーし一時保存することはできました。


再度、再起動を手動でかけて、それで今度は無事立ち上がり、保存した記事をそのままアップすることができました。



パソコンの不具合云々の話をしたくてこれを紹介したのではなく、この一連の出来事にはメッセージが含まれているように思いました。


1:過去の失敗と同じ流れが発生したからと言って、結果も同じになるとは限らない

2:「何とかなるかもしれない」と一瞬思ったことが、後の結果を変えることもある

3:想像すらできない奇跡的なことが起こり、問題を解決することもある



1ですが、過去の失敗した何かと同じプロセスを途中まで辿る時、往々にして「また今回も前回同様の結果を得るんじゃないか」と私なんかは思いがちです。


そしてそういう時は、大体悪いことを想定しています。


ただ今回は、なぜか不思議な現象が勝手にパソコン内で起こり、すごく意外な形で事無きを得たのです。


その事無きを得るに当たり、一瞬でも2の「何とかなるかもしれない」と咄嗟に思ったことは憶えています。


ちなみに前回は「何とかしなきゃ」でした。


今回は、「何とかなるかもしれない」と一瞬考えたのです。


その願いが通じたのか、自動で再起動がかかった時、とりあえず文章を作成したままのページが表示されたので、それをスマホで撮影しました。


最悪文章の保存ができなくても、写真に収めたらあとで写真を見て文字を打ち直せばいいと思ったからです。


そう、いざとなればパッとその状況を何とかするひらめきがもたらされたりもすることに今回は感動しました。


それで3に書いたように、想像もしていなかった方法でパソコンが勝手に私の勝手に合わせるように動いてくれ、それで事無きを得たのです。



パソコンはさておいても、今現在、過去と同じような流れを1つ体験しており、自分では苦虫を噛み潰したような思いでいます。


あぁまたやってしまった!また同じ失敗を繰り返してしまった!という気分で、ここしばらくは気持ちが落ちていたところです。


そこにきて、このパソコンの不具合と摩訶不思議な解決法がやってきたのです。


この一連の流れを体験して、今少し「過去と同じ失敗」と思っていることに対し、実は違う何かがあるのではないかと思っています。



起承転結のはっきりしない文章でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
『子どもの頃の好きなものが思い出せない理由』を書いた日に、色んな保育園時代の記憶がよみがえりました。


その中の1つに今日は焦点を当てて、『思い込みが作られるプロセス』としてお話したいと思います。


誕生日が3月なのですが、4歳になったばかりの私は年中から保育園に行くこととなりました。


母いわく、何をさせてものんびり、興味のないことはとことんしない、非常に頑固、泣きだしたら1時間でも2時間でも泣き続ける、というのが私の子どもの頃の特徴だったようです。
(大人の今もそう大差ありませんが…)


プラスして、今だったら絶対に「発達遅延」だの「○○障害」だの名前がついてもおかしくない位に、知的に非常に落ちこぼれた子どもでもありました。


そんな私が保育園に通い始めます。


こうした新しい環境に身を置くことになった時、
①楽しみ♪
②行きたくない(涙)
の大きく分けて2パターンの反応があるように思います。


私は、断然後者派です。


「行きたくない」と泣き叫ぶ子どもでした。


毎日のように全力で泣き続けた自分のことは今でもうっすらと記憶にあります。


ちなみにですが、私社会人になってから初めて「毎日何の抵抗もなく仕事に行ける自分」にものすごく感動を覚えた時がありました。


保育園に始まり学校も全然好きではなかったので、それは友達関係がある程度安定した高校・大学時代ですら「今日も学校行きたい♪」などと思ったことはなかったので、とにかく何も抵抗なくむしろ少しの楽しみを持って仕事に行けるというのが、私には奇跡に近い体験だったのです。


おそらく、この最初の保育園時代の集団生活で私は「外に行きたくない」という気持ちをやたらと高めることになるのですが、そのきっかけとなった1つの出来事を紹介します。


何せ保育園に着いたら「嫌だ!行きたくない!」と大声で泣きながら訴える子どもでしたから、送りに来た母親がいなくなっても泣き続けているような毎日でした。


それがたった一度のことだったのか、それとも毎日だったのかは覚えていません。


ただ、その泣き続ける私が連れて行かれた部屋というのが、未満児クラスでした。


本来私は、年中の「ばら組」なのに、行先は赤ちゃんから2歳児までが属する「もも組」の保育園の中の一番奥の部屋でした。


行けばわかりますが、まだ歩けない子や1人でようやく座れるようになった自分より体の小さな子たちが点在しています。


そこでも私は泣き続けるのですが、そこで言われた言葉です。


「ふみこちゃん、こんなに小さな子たちが泣いていないのに、もっと大きいふみこちゃんが泣いているなんて恥ずかしい、泣きやもうね~」


と声質やトーンは優しいのですが、言うことが鬼でした!!


これまで数百人の子どもと関わってわかったことですが、子どもが泣く時って絶対に理由があります(それは大人もですね)。


特に、不快や不安を訴えるタイプの時は、言葉にする代わりに泣くことがあります。


基本的に私は子どもが泣いていても、最低限の声はかけても(⇒あなたのことは気にかけていますよアピールはします)、でもそれ以上はしばらく放っておきます。


放っておくというか、変に泣いていることを否定したり止めさせたりはしません。


時間が経てば落ち着くし、話を聞くのは落ち着いてからでも十分だと思っています。


もちろん、すぐに抱っこすることで落ち着くタイプであればまずは抱きます。


余談が過ぎましたが、大事なのはここからです。


当時の私は、行きたくないとか、教室に行っても自分の居場所がないとか、みんなと同じようにしようと思っても同じように行動できない=自分の下に不利益がもたらされるとか、色んなことを敏感に感じすぎていて、それらの全てに対する拒否が「泣く」という行為そのものだったのです。


たしかに、朝の会が気持ち良く始まるという時間帯に1人でぎゃあぎゃあいつまでも泣きわめかれたら困るのはわかります。


ただ、そこに安心感のようなものを感じられなかった当時の私は、ありったけの「泣き叫ぶ」行為を通して、自分の意思表示をしていました。


ところが、受け止めてもらえるどころか、自分の行為はおかしいこと恥ずかしいこととして周りの大人には評価されます。


自分がありのままにしている(=この時なら、不安や不快で泣き叫ぶ)ことが、そのままでは駄目、さらには恥ずかしいと言われるのです。


何せ知的能力が著しく低かった当時、
「そんな風に言う大人が間違っているんだもん!」
なんていう思考回路を私が持つはずもなく、代わりに、
「泣いているのって恥ずかしいんだ、駄目なんだ」
というラベルに付け変わるわけです。


自分の自己評価の低さ、それがたとえ表彰されるレベルの偉業を成し遂げても全然埋まらない意味不明の空虚感、そうしたことは上に書いたようなことを繰り返ししていたことも大きな要因の1つだと思います。


今なら私はわかるのです。


「泣いてても大丈夫」
「落ち着くまで待ってるから、落ち着いたら教室に行こうね。
行きたくないんだったら、ここでもいいからね」
そんな風に声をかけてもらいたかったのだということ。


そして少なくとも、
「泣いててもふみこちゃんはふみこちゃん。
かわいいふみこちゃんだからね」
と言って欲しかったのだろうと思うのです。


↑のような言葉を大人になってから、言われたことがあります。


号泣でした。


ちょっとがんばりと言うか意図する必要が少しありますが、「どんな自分であっても大丈夫」という根幹の安心感みたいなのは、過去にいかなることがあったとしても、自分の思い込みを変えることは可能だと私は思っています。
(このことに関しては、また別の記事で取り上げていこうと思っています)


話があちこち飛んで申し訳ないですが、「効率」とか「平等」とか「周りと一緒が良い」というような教育を受けてきた世代の人たち、私も含めてですが。


その時に、最初からはみ出しまくりの私は、それは個性ともなれば反対に「駄目・落第・劣等」という風にもなり、私の場合はどちらかと言えば後者の方でした。


そうした思い込みの積み重ねが、自己否定や無価値観なんかと深く結びついています。


こうした思い込みは大人になるとどんな風になって表れるかというと(例です)、


・○○ができない自分は情けない

・周りは○○できているのに自分はできない、自分って駄目だな

・○○できない自分は努力が足りない

・もっとがんばらないと

・弱点克服しないと


まだまだ挙げたらきりがありませんが、上のように思う傾向が強くなります。


私何年もかかって、こういう自分の思考パターンにようやく気付くようになりました。



最後に、そういう自分の自己否定や無価値観に繋がるような過去の記憶や現在の思考パターンに気付いた時に自分のためにできることを紹介します。


実際は、気付くだけでも御の字です!


それで感情の解放が起こる時もあります。


ただパターン化していて厄介な場合もあります。


そうした時は、

・どんな自分が出てきても、まずはそこに寄り添うこと(否定するとますます否定モードが強まるので、まずは「そうかそうか」と寄り添う)

・「○○な自分は駄目、価値がない」というタイプの思考を見つけたら、「それって本当?」と自分に問い掛けてみること


この2つが特にすぐにできて、自分の痛みを和らげる効果が高いと思います。


似たようなパターンを繰り返しやすいですが、それでもやり続けると少しずつ自分の中に変化が現れます。



最後までお読みいただきありがとうございました。
何十回と質問されてもいつも答えに困ってしまう質問ってありませんか?


私の場合は、
「子どもの頃好きだったこと・夢中になってやっていたことは何ですか?」
というものです。


過去に参加した色んなセミナーやワークショップ又はワーク付きの書籍なんかで、必ずと言っていい程に出くわす質問です。


毎回同じことを聞かれているにも関わらず、まずは思考が止まります。


思い当たらないからです。


とりあえず飛ばしたのかそれとも適当に答えたのかも、今となっては思い出せない程です。


今日全く関係のないことをしていた時に、急にその質問に対してのはっきりとした自分なりの回答が出てきました。


というか、その前に自分の中で質問の内容を変えたのです。


「どうして、子どもの頃の好きなものや夢中になったものを思い浮かべるとか思い出すことが全然と言っていい程できないのか?」


その質問を軸に探ってみました。


ちなみに付け足しですが、そうしたセミナーや書籍なんかで
「子どもの頃何かに夢中になった感覚を思い出して、それを今の大人の自分の生活の中に取り入れてみましょう」
みたいな続きがあります。


もう、私にははっきり言って毎回お手上げの感覚、わからない感覚を呼び覚まそうにも呼び覚ます前に知らないんだけど…というちょっと皮肉った気持ちにもよくなっていました。


で、今日子どもの頃の記憶があれこれぽんぽんと出てきて、ようやく全てに合点がいきました。


私は小学校の3年生になるまでは、オール1、時々2が混じる程度の能力の子どもでした。


読み書きそろばん全滅、運動神経スーパー音痴、図工なんかの自己表現系はからっきしアウト、それに加えて場面緘黙のような感じで基本的に自分から話さない、聞かれても答えない・答えられないなんていうことが日常茶飯事でした。


当然集団生活からも大幅に遅れを取り、一事が万事集団からはみ出てしまうような子どもでした。


今思い出せる記憶で、保育園時代から私は社会生活でつまずいています。


やることなすこと注意されることがたくさんあって、とにかくいかに集団生活に少しでも合わせて動けるようになるか、そんなことにばかり力を注いでいた子ども時代でした。


あまりにも沢山のエピソードが今日頭の中を駆け巡ったので、それはまた今度別の視点から自己否定や罪悪感、無価値観などと絡ませて話をする予定です。


要は、子どもの頃何か夢中なことを追いかけたり脇目も振らずに何かに熱中するような余裕が、普段の生活の中でかなり欠如していたかと思います。


アトピー性皮膚炎の子が、体が痒かったら勉強どころではない、というのと似たようなものだと思います。


何かに夢中になる前に、「○○ができるようにならないと」という子どもにとってはものすごく残酷な条件が付いていて、しかも当時は大人に言われるがままに動こうとする自分もいたので、周りから求められるものと自分ができることのギャップの大きさに日々葛藤していた、という感じです。


家庭内ではそこまでひどかったとは思いませんが、一歩外に出て社会との関わり・集団生活の中で、私は最初から大きく落ちこぼれ、それゆえの別の努力が常に求められていたような感じでした。


それらをはっきりと思い出した時、最初の
「子どもの頃好きだったこと・夢中になってやっていたことは何ですか?」
という質問に答えられない理由がはっきりとわかりました。


そこからもっと色んなことが出てきたのですが、今1つ確実に言えることがあります。


たしかに、私は子ども時代、しかも本来なら楽しく過ごせるような年齢の時にしなくてもいいような苦労をしていました。


色々思うこともあります。


実際に、それらの苦痛に近い積み重ねのおかげでかなりできることも増えたので、全面的にそれらが駄目だったとは思っていません。


ただ、好きなものや夢中なものが思い出せないのは少し悲しいなぁとこれまでずっと感じてはいました。


だけど、大事なのはここからです。


私のように子ども時代の記憶が苦いものが大半という人も中にはいるでしょう。


ただ今わかったことは、この苦さのおかげで大人になった今だからわかること、それも自分のことでものすごく深く理解することができます。


あの手のセミナーや書籍では、プラスの面を引き出そうと投げかけている質問だということは重々承知しています。


だからその質問に答えられない自分がピックアップされたこともなければ、さらさらーっとスルーして終わるのがこれまでのパターンでした。


なので、答えられない質問に対してなぜ答えられないのかを自分のために考える、というのは今回自分でやってみて一番しっくりきました。


これまでは、何も答えられない自分がおかしいとか変わってるとか、そんなちょっと自己卑下に近い気持ちを抱いていたからです。


でも私のように、びっくりする位に思い出せない、手掛かりすらも見つけられない、なんていう人は、実はもっと別のギフトが奥に隠されているように思うのです。


答えたくないのではなく「答えられない」、この葛藤が今日初めて解消されました。


無理に答える必要ももちろんありません。


ただ一歩自分の中に踏み込んで、「何で答えられないんだろう?」って考えてみるのはすごく有意義でした。


そして過去の色んな苦しいものが場面として沢山浮かび上がった時、
「答えられなくて正解!」
とさえ思いました。


あの当時は、何かに夢中になる前に社会や集団で定められたルールに少しでも自分を合わせようとそれはそれは必死でした。


だから、楽しい思い出より辛く苦しいことが先に出てきたのです。


質問に答えられない位に色んなことがあった、そしてようやくそうした自分を優しく受け止めるだけの器量が今の自分にあるように思うのです。


さらには、当時の場面を思い出して、自分の思考の癖の成り立ちや今だから訂正できること、そうした自己セラピーのようなことまですることができました。


今日この一連の流れで気付いたことは、多分日本で教育を受けた人なら多かれ少なかれ経験したことがあるものだと思います。


そしてそれらがあまりに自然に行われてきたがゆえ、「あぁそういうものか」で納得して今に至る大人もたくさんいると思います。


自分もそこに賛同して納得しているのは、もちろんありです。


ですが、賛同も何もないまま自然に勝手に身につけて、さらにはそれが大人になった自分を苦しめる考え方や価値観に発展しているケースもあります。


もっともっと踏み込んで色々見えたことがあるので、それはまた明日以降アップしていきます。



最後までお読みいただきありがとうございました。
『思考を簡単に止める方法』をお話します。


方法を探していたよりも、思わぬ副産物という形で本日もたらされました。


楽しかったし、これ条件さえ整えばできるし、条件揃っていない時は他のことで代用可能です。


わかりやすくするために、最初に大きく分けて2種類の思考について簡単に説明します。


そして、今日の『思考を簡単に止める方法』は前者にぴったりの内容です。


思考その1:不安、怖れ、心配事、悩みなどに根ざしたもの。「考える」というよりも同じことをぐるぐると「悩む・悩み続ける」という方がより近いもの。


思考その2:仕事や家事の段取りだったり、ひらめきを拡大させるものだったり、発案・企画・振り返りなど心をネガティブな方向に引っ張らないタイプのもの。


2のタイプの思考は、日常生活に必要でもあれば建設的とも言えるので、これから紹介する方法はあまり威力を発揮できるものではありません。


反対に思考その1の方は、確実にネガティブよりの止まらない思考を一時的に止めてくれます。


特に自分で止めたくても止められないような時に、良いと思います。


何をするかと言うと、
「風を体で感じる」
これだけです。


できれば歩いている方が良いです。


何でこんなこと思ったのかと言うと、今日自分が実際に体験したことに基づいています。


家を出る前は、色んな思考で頭の中がぐるぐるしていました。


不安や焦りや心配というようなタイプの思考です。


そうした思考というのは、止めなくてもずっとせわしなく頭の中を駆け巡るようになっています。


我ながら感心します。


「いや、休んでもらっていいから!」と思考の主の私が思っても、なんだったら命令しても、止まらない程に働きものです。


そんな状態で家を出ました。


今日の名古屋はところどころ白い雲が浮かんでいても基本は快晴に近い青空でした。


ただ、ものすごい風が吹く日でもありました。


左肩にトートバッグをかけ、右手は自由な状態です。


歩幅に合わせて、前・後ろ・前・後ろと規則的に右手を振っています。


その時です。


右ももと右手のひらの間に風が通り抜けました。


顔にも左半身にも風は感じられないのに、右側のほんの小さな隙間、距離にしたら10cm程度の隙間を風が通り抜けたのです。


そんな小さな隙間にも風が通り抜けることにえらく感動したのと、その風が通る時の手のひらの感触がとっても気持ちいいのとで、私はいつ風がくるかとそればかりに意識を集中して歩き続けました。


時間にしたら5~10分程度だったと思います。


はっと気付いたら、それまでの止まらなかった不安やら焦りやら心配事が和らいでいる事に気付きました。


何一つ解決などしてなくても、風のおかげで意識は違う方に向き、そちらに忙しすぎて余計なことを考えている場合ではなくなったのです。


しかも、ものすごく楽しかったです。


最後の方は、左肩にかけたトートバッグをグーの形で握っていた左手の隙間にも風が通り抜けたぐらいです!


風って通り道さえあれば、たとえそれが数ミリ単位の小さな抜け道であってもどこにでも通るもんなんだなぁと、妙に感心したものです。


対処療法的と言えばそれまでですが、これ簡単だし楽しいし短時間でも忙しかった思考から離れられるとっても良い方法だと私は思います。


自信を持ってお薦めします!!


ただし、最初にも書いた通り、これ条件が揃わないとできないことでもあります。


天気が毎日快晴で適度に風もあるわけではないし、今日のようにたくさん歩き回るというのもその日の予定で違ってきます。


個人的に、そうした思考を止めやすいものとして他にも取り入れているものは(今日の風のような楽しさはそこまでないです)、


・歩く時、ももの付け根からつまさきまでを意識して歩いてみる(人間の体の動きを観察している感じで面白いです)


・自分の周りの音を拾う


・料理する


・味わって食べる・飲む


・舌を下側につけてじっとする(→やってみるとわかりますが、相当な集中力を要します)



こうしてみると、要は五感を使ったものはわりかし思考を止めるのにもってこいの方法だと思います。


上のものでも、風を体で感じるでも、今度ネガティブな頭のおしゃべりが止まらない時は試してみてください。


意外な発見に満ちていて面白いものです。



最後までお読みいただきありがとうございました。
とある画家+詩人の方についてのひとりつぶやきです。


最初にこの方の作品に出逢った日のことは今でもよく覚えている。


当時週1の休みすらもままならないブラック企業に勤めていて、その日はまとめて用事を足そうと家から一番近い大型ショッピングセンターに出かけた。


23時閉店間際に、両手に抱えきれない程の食料品や日用雑貨なんかを抱えて、地下鉄の駅まで向かう道すがら、今は無き某市民ギャラリーの掲示板が目に飛び込んだ。


最初そこを素通りした。


だけど妙に惹かれるものがあって、すぐに数歩引き返し、その惹かれたものをまじまじと見た。


畳1畳分ぐらいの横長の掲示板だった。


そこに官製はがきサイズのちいさなちいさな広告が貼られていて、それが私が引き返したくなる程の何かを放っている正体だった。


A4やもっと大きなサイズのポスターの中でその広告はとっても小さかったのに、その一番小さな広告が一番強い何かを放っていた。


荷物を地べたに下ろし、まじまじとその広告を見ると、その画家(と最初は思った)の方の個展の広告だった。


メモしたのか携帯の写真に収めたのかは忘れたけれど、何とか都合をつけてその個展に足を運ぶことに決めた。


別の日に個展に行き、そこで別の会場で本人に会えることを知った。


とにかくどんな人なのか会ってみたくて、私は全く見知らぬ土地へとまたまた日を改めて訪ねた。


丁度、東日本大震災の後で、その画家+詩人のDさんは、客側がまずははがき大のスケッチ用紙に一言メッセージを書き、それと本人との数分程度の対話から得たイメージをそのままスケッチ用紙のもう一方の面に絵と小さな詩を即興で描いた。


たしか千円だったと思うけれど、それは私の家への郵送代を差し引いた金額は全額復興支援への寄付にするとおっしゃっていた。


そうしてDさんが行っている活動に協賛した人は、一旦出来上がった絵をDさんに預け、Dさんはその後その預かった全ての絵を個展にし、個展後すっかり忘れた夏のある日に私の家のポストに届いていた。


ちなみにこれは後で知ったことだったけれど、Dさんのその活動はNHKに取り上げられてDさんのドキュメンタリーとして放映されたらしい。


被災地へ出向いたのかどうかは知らないけれど、たしかに被災地の方たちの絵も飾られていた記憶がある、その個展で。


話は戻って、その数分程度のDさんとの対話の時。


Dさんの話が本当に本当に素敵だった。


正直、Dさんの職業はよくわからない。


絵がベースにしても、作風スタイルがとっても独特でさらに詩も即興で描く。


Dさんが私に話してくれたのは、こんな風だった。


「僕がするのは、こうしてその時出逢った人たちから話を聞くことです。


それは、その人の人生の中でほんの一瞬、映画のフィルムに喩えるならたった1枚の映像に匹敵する小さなものかもしれない。


ただ、その小さな物語を大事にしたいんです。


その小さな物語を聞かせてもらえること、そしてそれを表現させてもらえること、そうした一期一会を大事にして、それで初めて僕の絵が詩が生まれるんです」


何年も前の記憶だから言葉はだいぶ違っているような気もするけれど、おおよそそんな話だった。


そう、Dさんがその時手がけていたプロジェクトは、全て見知らぬ誰かとの一期一会を通じてそこから絵と詩を描くことだった。


仕事の仕方も不思議で、その時ちょっとだけ聞けたのは、
「変な風に聞こえるかもしれないですけれど、1年先の仕事が決まっているのに1ヶ月後は何も決まっていない、なんてことがざらにあります」
って言ってた。


私が会った時も本人の利益はゼロで、他に仕事をしている風でもなく。


自分の絵をポストカードにして販売していたけれど、それだって1枚150円とかで全く利益を追求している風ではなかった。


でも当のDさんはそんなこと全くおかまいなしで、自分のやれることをひたすら追い求めて生きている、そんな風だった。



話は一気に飛んで2016年4月15日の今日。


用事があって、そのDさんの個展を最初に見つけた市民ギャラリーの前を通った。


当時とは少し様子が変わって、例の横長の畳1畳分の掲示板は取り外され、代わりに今は電光掲示板になっている。


個人的にこの電光掲示板の面白味も温かみもないところに、とても残念な気持ちを抱いている。


芸術関係の掲示板は、やっぱり紙ベースの方が伝わりやすいと思う。


今日はもう少し先のところに用事があったのだけれど、そのもう少し先になんとその紙ベースの掲示板が復活というか新設されていた。


復活なのか新設なのかは知らないけれど、とにかく掲示板がぱっと目に飛び込んできた。


そこでまたたった1枚のはがき大の小さな広告が目に入った。


そのはがきの絵の雰囲気がとっても好きだった。


何せ小さな文字での案内だから、最大限ガラス張りのガラスに近付いて広告の中身を読んだ。


なんと、Dさんの個展だった。


しかも丁度今日は開催日の真ん中。


今週いっぱいの個展ということがわかった。


閉館まで20分ちょっと、大急ぎで中に入った。


Dさんはいなくて、ボランティアと思しき会場担当の女性ひとりだけだった。


最初のDさんからのメッセージを読んで、泣きそうになってしまった。


生きることと食べること(命をいただくこと)について、Dさんの思いが数百字でまとめられていた。


そしてDさんスタイルの絵と詩の原画が何十枚とその後続いた。


詩は短くて、その詩を読んでいるだけで楽しくなったり泣きたくなったり笑いたくなったり切なくなったりした。


そこでかかっている音楽もその絵と最大限マッチしていた。


受付の方に頼んでCDを見せてもらったけれど(というか、お伺いして許可を得てから、ひとりでCDを止めてCDのジャケットを確認した)、Dさんの手書きと思しき字で自家製的な音楽で、それがどこの誰の音楽なのかはついぞわからなかった。


大急ぎで見て、でもこれを手にできないもどかしさもあって、祈るような気持ちで空間中央にしつらえられた物販コーナーに最後立ち寄った。


大当たり、今回の個展の全部が絵本になって販売されていた(1200円!)。


値段どうこうと言うつもりはないけれど、本気で利益度外視した値段の付け方で相変わらずびっくりする。


この絵本を買ったのにはわけがある。


絵本には、変わった料理のレシピがたくさん載っている。


私は明日の朝以降、晴れた日は、お気に入りのミルクパンにコーヒー1杯分の水を入れたら、それを持ってベランダに出て水を太陽にあてて、それから実際にガスにかけようと決めた。


そして沸いたお湯で、コーヒーやお茶を自分のために淹れようと決めた。


そんな類いの不思議なレシピだけど楽しいレシピがたくさん載っている。


今はやりのオーガニックとか天然素材とかスピリチュアルの何だとかじゃない。


Dさんの奇想天外な発想がレシピに組み込まれている。


細かいレシピはないから、あとはその短いレシピを読んで自分の想像広げて行動するしかないようになっている。


でもそれがとっても楽しそうで童心をくすぐられる。


この絵本と言うかレシピと言うかが、これからの人生にたくさんの彩りを添えてくれるのは間違いない。


しかも、一度だけじゃない、何度でも繰り返し使えて、さらにその日その日で全く違う気分をそのレシピと共に味わったり、過去の何かを思い出したりするだろう。


そんな素敵なものをDさんは絵と文字を使って教えてくれてる。


ちなみに、Dさんオリジナルのレシピは、私がこれまで目にしたどんなレシピよりも素敵で、読んでいるだけで泣けてくるものだった。



「魂のこもった生き方」というのは、帰り道に浮かんできた言葉だった。


最初「魂を込めた生き方」というタイトルにしようと思ったけれど、多分Dさんは「魂を込めてる」なんていう感覚はなしに作品を生み出していると感じるから、ちょっと違うなぁと思った。


自分の中にあるものに忠実に従って、ただそれを生み出しているだけのような感じに見える。


それが私には「魂のこもった生き方」に見える、言葉にするならそんな風に見えるというだけの話。


そして、魂がこもっている(と勝手に思っているだけだけど)から、あの小さなハガキからとんでもないものを感じる。


今日もそうだったし、数年前の春の日の夜もそうだったけど、他の広告がなんだったのかなんて一切覚えていない。


ただただDさんの小さな広告だけが、ものすごく惹きつける何かがあった。


さらに余談だけど、Dさんの個展の後、今度は本来の用事を足そうとそちらに足を運んだら、なんと臨時の休みだった。


結局今日は、Dさんの個展を見ることが目的そのものとなった。


たった1人の人から生み出されたモノでも、そこにその人の思いが目一杯詰まっているとあらゆるものを惹きつける。


そしてそんな生き方に触れると、これまた全然関係のないところに立っている私のところにまで風を運んでくる。