かなえごと(願い)が現実になるまでの道筋に
こだわらなければ、現実になるのははやい。
道筋よりも、結果を重視。
結果を重視してみたら、
まだ現実になってないと思っていた
かなえごと(願い)は
すでに、現実のものとなっていました。
かなえたいことや、願いがいろいろあります。
こんなこと、やってみたいな。
こういうこと、やりたいな。
「願い」を思い浮かべるとき、
それがかなっていくまでの道筋を
作りこんでいること、ありませんか?
わたしはあります。例えば...
書き終えたお話が
あこがれてる作家さんの目に留まって
結果:わたしの書いたものが本になる。
とか。
地域の祀りをじゃましないように
うたっていたら、地域に迎えられて
結果:お祭りでうたえることになる。
とか。
かなえたいことが現実になっていくときは、
たぶん、こんな風にかなってくのではないかな、と。
勝手に思い込んでました。
だから、他の道筋から願いがかなうことを
知らない、見ない、かかわらない、ことにしてた。
...書いてみると、とっても変なおはなし。
本当に欲しい願いは「結果」の部分のはずなのに、ね。
道筋へのこだわりを手放したら、願いが現実になった例
「うたを、お祭りで。奉納したかった」わたしは、
先日、欲しかった願いが現実のものとなりました。
「一緒にやってみる?」ときかれたその時に、
うたをお祭りの場で奉納すること。
それが現実になるなんて、すごく嬉しい。
その喜びに目を向けることできたから、
「やります」のひとことが出た。
「一緒にやってみる?」と聞かれたとき、
「自分の力を」みつけてもらうんだ!!
「自分の力で」やるんだ!!
となりすぎていたら、
「ごめんなさい」(自分でやりたいの)と
お断りしてしまったかもしれません。
自分がやるの!みたいな気持ちより
願いが現実になる喜びに目を向けることできた
おかげで、
桜月流美剱道のみなさまに合流させていただき
ことの詳細は、こちらに。> 受け取り拒否に気づいたら、ごほうびが届きました -2018.08.31の記事
うたをお祭りの場で奉納させていただくことができました。
願いが現実になってないと思い込んでたことに気づく
小さいころからのわたしの願いのひとつ。
わたしの書いたものを本にしたい。
そして、書いたものたちで
他の方の楽しさやほっとする感じをつくりだせたらな。
まだ、そのことは現実になっていないと信じてました。
でも、もう現実になってた。
書いたものが本になること。
同人誌のなかに、論文の中に、図鑑のなかに、
報告書のなかに。技術短報のなかに。
わたしの書いたものたちがあって、
好奇心、興味、楽しさ、安心を他の方に与えてきた。
わたしの想像していた形の本ではなかったし、
あこがれの作家さんに、わたしの書いたお話を、
みつけてもらったわけでないけれど、
結果としての「わたしの書いたものが本になる」は現実になっていました。
...あんれまあ。
もう現実になってた。
それなのに、かなってないと拗ねてたわたし。
びっくりです。
わらうしかない。
わたしが思っていたほどの「嬉しさ」「楽しさ」が
本になることのなかから生まれなかったことも
願いはまだ現実になっていないと感じた理由かもしれません。
嬉しさが思ったほど出てこなかったときは、
もしかしたら、そもそもの願いの形が
わたしの本心から微妙にずれてたのかもしれない。
ここは、まだ検証の余地あり。
「願いの設定は正確に」ということだろうか。
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かなってない、といいつつ、
すでに現実になってるものがあるかもしれない。
かなえごとを現実にするまでの
道筋にこだわりすぎているから
現実になっていないだけのものあるかもしれない。
年始に書いた2018年のかなえごとリスト。
改めて、見直しです。
どれくらい、現実になっているかな。
そろそろ、来年のかなえごとリストも作る時期がくるし。
2018年かなえごとリスト現実化へむけて
ラストスパートの時期。
できることから、やってみよう。
かなえごとの内容、
かなえごとの設定方法を見直そう。
ついでに、かなえごとは結果重視で。
自分の内にいる頑固さにも寝てもらって。
現実化がさくさく、いくか? の実験です。
今日もすてきな出会いに ありがとうございました
あなたにとってのしあわせの中にあり
きょうもいいことあったな♡ と
あれますように 祈っております