皇居の乾通り一般公開がされていたので、歩きに行ってきました。
関東地方は桜開花のニュースのころあい。
皇居のお堀あたりも桜が咲いていてきれいでした。
人もたくさん、歩いていました。
卒業式の大学生さんもたくさん見かけました。
春は、はじまりをみる季節なのですね。
皇居の乾通からみた景色は、
いつもみえてる景色を裏側からのぞくようでおもしろかったです。
▽桜のおくに櫓が見え、ビル群はほぼみえない状態。
ここで桜と一緒にうつったじぶんの姿を公開
....とはならず。
桜といっしょに写ってみようとあれこれ撮影を試してみるものの断念。
だって、
とっても「がっかり」なじぶんの姿しか撮影できないから。
表情はこわばる一方。
きれいに見せたい意欲が大きくなりすぎて、
どんどん、じぶんの知ってる感じのかおからずれていく。
そういえば、先日いってきた熊野でも、
同行者さんが撮影してくれたじぶんの姿をみて、がっかりしました。
それは、
とっても「残念な」表情で写るじぶんをみつけるから。
もっと、美しく写真に写りたいのです。
でも、写真を撮られていることに気づくと
「残念な」表情を、ひょうげた顔を作ってはしゃぐ(ふりをする)。
じぶんのエネルギーを、いかに「おもしろく写真に写るか」へ向けていました。
それは、美しくなれていない(と感じる)
いまのじぶんをまっすぐに認める勇気がないから。
じぶんのなりたい「美しい姿」を100点満点としたら、
50点や60点のじぶんを見たくない。
でも、いまの自分は50点くらい。
だったら、ひょうげた顔で「残念な」表情を作って写ってしまおう。
そうすれば、
残念に写ってしまうのは「表情が残念」だからで、
わたしの美しさ?が50点だからではない。といういいわけにできるから。
???
美しく写真にうつりたい、美しくありたいのに、
エネルギーをむける向きが間違ってない??
いまの「がっかり」なじぶんの姿、美しさ50点くらいと思う姿を知ってこそ、
100点とじぶんが思える美しさに
どういう風に工夫していけば近づけるか。
研究することができる、はずなのに...
いいわけ作るために、わざと「残念さ」を盛るってどういうこと??
「がっかり」なじぶんの姿をみたくないって言ってる間は、
工夫の仕方をしぼりこんで試すことも難しくしてしまう。
しかも「がっかり」を隠すために、わざわざ「残念」をつくりだすなんて。
そのエネルギーの向け方、なんか違う...
それに。
あれほど「がっかり」なようすで写真に残るじぶんが、
無防備に力がぬけているじぶんの姿。
このがっかり感も「じぶん」なんだな。
そのことを受け入れて。
美しくあるには、どうふるまおうかな?と工夫していく向きへとエネルギーを使ってく。
「美しくあるには、どうふるまおう?」という向きへエネルギーを向ければ、
美しくなれる確率はうんと高くなる
エネルギーを向けていくことも、一度だけではなかなか日常に根付いてゆきづらい。
なんども、なんども繰り返し。
くり返して写真を撮っていくと、前よりは、じぶんが「よし」と納得できるものが撮れるようになる。
それは、風景を撮っても、花を撮っても、鳥を撮っても
じぶん自身を撮っても、きっと同じ。
美しくあるふるまいを工夫して、
写真の撮り方や撮られ方も練習してみて。
あれこれ試しているうちに「奇跡の」1枚が、いつのまにか日常にできるようになる。
▽夕暮れに七里御浜(熊野市)にて。
わたしの知っている「じぶん」の姿にちかい写真が取れました。
いいわけや理由づくりにエネルギー向けてること。
じぶんを撮影することの他にもあるんだろう。
「もっとうまくいきたい」「魔法みたいにかわりたい」と感じてたことも
いいわけ作り出してたと、今はみえはじめてきた。
それに気づくたびに、エネルギーの向き方を束ねて集めて
じぶんの姿をいっそう細やかに詳しくあらわすことにつなげていく。
そうすると、行動も、行く場も変わっていく。
それを続けていけば、
いつ、どの瞬間をきりとったとしても、
自然な、じぶんの姿をあらわして過ごしている。
たましいのままにあるじぶんの姿をみることとなる。
もっと、じぶんを純化しよう
あなたは今 しあわせです♡
あなたはとっても運がいいです♪
時の流れに乗って過ごします
今日も素敵な一日♡ ありがとうございます