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観た映画☆読んだ本

幅広く、とりとめなく、まめに更新(したい)。

true-『クライマーズ・ハイ』


しみじみと敗者の物語だなぁ、と思う。
主人公をはじめ、揃いも揃ってみんな何かに負けている人ばかり。


概念として「敗者」がいるということは、どこかに「勝者」もいるはず、
とこの時点での私は安易にそう考える。

それは誰だろうか。
全国紙か? 国家権力か?
それともここに描かれない誰か?


おそらくどれも違うのだ。

たぶん勝者は、いない。


そう気づいたのは、全然関係のない読みさしの新書に、
「正解のない世界に耐えるという大人の態度」という言葉を
見いだしたとき。こういう時、私にはそのひとことが
ピカッと光って見える。


そういえばそうだ。たとえば私の発病だって、いわゆる
”ブラックな職場”にハマったという明確な原因はあったけど、
特定の誰かや何かが悪いわけではなかった。ブラックな職場を
変えられなかったのは、自分も含め皆が皆、少しずつ力足らず
だった結果のはずだ。


大人の世界に正解はない。
ただ人生だけが続いていく。

この映画を観て、復職前に心をキュッと引き締められた。
今度はせいぜい気をつけろよ、と言われたような気がした。



最後に、
日航機墜落事故にて犠牲となった520名の皆さまの命日に、
心よりご冥福をお祈りいたします。





true-『草祭』


やー、やっぱ好きです、この人の本。

私が新潮社の編集者なら、文庫化して
夏の100冊に入れるけどなぁ。

『夜市』




true-『陰影礼賛』


煽風器などと云うものになると、あの音響と云い形態と云い、
未だに日本座敷とは調和しにくい。それでも普通の家庭なら、
イヤなら使わないでも済むが、夏向き、客商売の家などでは、
主人の趣味にばかり媚びる訳にいかない。

               『陰影礼賛』「陰影礼賛」より


今ではどこでもエアコンが当たり前で、和室に扇風機などむしろ
懐かしいと感じる自分は、先達に鼻もひっかけないような態度を
取っているみたいで、何やら申し訳ないような気がしてくる。


自分の慈しんだ陰影の妙味が今ではすっかり失われたことを
知ったら、谷崎は失望するだろう。

だけど、それでも許してくれそうに思えてくるのは「陰影礼賛」が
魅せてくれる世界が柔らかな色合いに満ちており、
古い日本民家の畳や襖、梁や障子の様子を頭に思い浮かべては、
ほんのひととき、うっとりとした気分になることを許してくれるからだ。

谷崎にそのような優しい語りが可能だったのは、自分の愛する
陰影の妙味を残したいと思いつつ、でも残らないだろうなと、どこか
覚悟を決めていたからのように思えてならない。

そう、現在が過去になるとき、そこから何かが欠け落ちるのは
しかたのないことなのだ。



true-『春琴抄』


現在、とある長編小説とガチ勝負中なのですっかり中断していますが、
以前紹介した『谷崎潤一郎と異国の言語』以来、私の中でひそかに
谷崎イッキ読みフェアが開催されていました にゃLOVE

その第一弾がコレ。『春琴抄』。
自己愛と他者愛の、それこそガチ勝負の物語。

春琴が自己愛、佐助が他者愛の権化という意味じゃない。

春琴は佐助を信頼し、愛していたから、
盲目というハンデを負っていても、その性質の苛烈さから他人に
理解されなくても、自分自身の感受性や表現方法を押し殺すことなく、
まったく正直な彼女のままでいられた。

逆に佐助は、春琴を愛するという至上命題をなんとしても守り抜く
必要があった。そのヒロイズム的自己愛が精神の要にあったからこそ、
極限まで自身の肉体を犠牲にできた。



人間の愛はどれほどの高度に耐えられるのだろう。

その問いの答えがこの小説なら、
少なくとも春琴と佐助の愛は無限だった。

私にはそう思えた。




true-『雷神帖』



このところ、狂ったようーに毎日、毎日、、
ブログを更新していることからもおわかりかと思いますが、
読後レビューが溜まってました。


発病後、読みたい欲求は比較的早い時期に回復したのですが、
書きたい欲求のほうはまるでそんなもの最初からなかったみたいに、
ちっとも私の所に戻ってきてくれなかったのです。


ところがある日ふと、「書けそう・・」という気がして、
せっかく久しぶりに指先に触れた書きたい欲求のしっぽを
むざむざ手放したくなくて、

出来は二の次、とにかく書き続けることを目指して、
ブログの場を借りて、本の力を借りて、
自分の中から湧き上がる何かを書きなぐってきました。


おかげさまで最近すっかり身心は元気を取り戻し、
復職の手続きを進めているのですが、
これが遅々として進まず、ちょっとイライラ。。

とはいえ、会社の都合もあるし、
私がひとりでイライラしてもしょうがないことなので、
ならばせっかくのお休みとチャージ完了のこの活力を有効に使おうと、
学校のレポートに取り組み始めました。


それが、これまで資料集め(脱線含む)ばかり夢中になって、
いざ原稿用紙を目の前にすると、思い浮かぶのはエピソードの断片ばかり、
まとまった論理体系めいたものは影も形も見えずだったのに、

なぜか今になって、マス目を埋める手が止まりません。


アウトプット欲求の暴走。


しかもアウトプットすればした分、インプットしたい欲求も
加速度的に増している。読みたい本のリストはどんどん長く、
かつ重厚になっていて、

『魔の山』
『カラマーゾフの兄弟』
『ドン・キホーテ』
『ロビンソン・クルーソー』
『1Q84』

と、自分で書いてて「オエッ」てなるくらいのヘビー級チャンピオン群が
控えています。



 昔、ぼくはなぜ作家が小説を書けるのか不思議でならなかった。

頭の中にある不定形のもやもやとした曖昧な、そしてそのままでこそ魅力のあるものを
紙の上に書いて定着させてしまう不安に作家はいかにして耐えるのか。

もちろん生来愚鈍でそういう不安をまったく感じないような連中は最初から論外としよう。

書かれる前にはすべてが微妙な色合いを保って優雅にゆれ動いているものを、
書くことによって一つの色に決定してしまう。

そこで失われる階調を惜しんでいたら、筆は進まない。

そこのところのあまりに原理的な矛盾をどう乗り越えるのか。
それがどうしてもわからなかった。

 曲がりなりにも書けるようになったのは、その時々世に問う作品はすべて仮のものであり、
一つ一つで足りなかったり、言いまちがえたり、筆に乗り切れなくて捨てたりしたものへの
無限の未練をそのまま次の先への力にするということだった。

書きつづけることが何よりも大事なのだ。

                  『雷神帖』 「フォークナーの時間と語り」より




これまでの私は、アウトプット欲求を不当に蹂躙していた。

アウトプットする許可を与えられないままインプットされ続けたハコが、

破裂するのは当然だった。

我慢強くはなったけど、先に体が悲鳴をあげた。

回復のためにお医者様と薬の助けが必要なほど、精神を抑圧したのは、

我慢が強さの証であると勘違いした、私の愚かさである。


言いまちがえたり、書ききれなかった言葉を捨てることを、

私は恐れていた。
どうしようもなく怖かった。

少しでも 「言葉を扱う能力がない」 と人に思われるのは、
耐えがたい屈辱だったのである。

それならば、思ったことは書かずに、言わずに、人目に触れないように、
風船のように紐をつけて、ふわふわと漂わせておきたいとでも
思っていたのだろう。


だがそれは、本当のところ、本意ではなかったのだ。


自分にとって言葉がどれだけ大切なのかわかった。

一瞬でも読めなくなって、そして書けなくなったことは、
読みたい気持ちと書きたい気持ちへの無限の未練を与えてくれたようだ。


最近よく、将来の身の振り方を考える。

ずっと読み続けるために。

ずっと書き続けるために。


延いては、誰かに伝えるために。



では、雷神も世に放つとしよう。

いざ、雷鳴と電光をもって衆生を驚欋せしめよ (といきなり強気に
なったりして)。

                同「あとがき」より






true-『エターナル・サンシャイン』


お互いに記憶をなくしても、再び出会い、惹かれあう。

そんな恋人同士を考え出したチャーリー・カウフマンって
きっと相当にロマンチックな人なんだろう。

そして、内省的な男と衝動的な女という、一見デコボコな
カップルは、絆って相性とか運命だけでなく、愛し合って、
喧嘩して、理解して、失望しての繰り返しの中で、強く
結ばれていくものだということをわかりやすく魅せてくれる。

ねじれた時空となくした記憶、正反対の性格、
そんな設定の中でジョエル(男)とクレメンタイン(女)
というそれぞれの役柄を見事に演じきった
ケイト・ウィンスレットとジム・キャリーは、この映画では
ちょっとスゴイ。

本当はジム・キャリー(とニコラス・ケイジ)嫌いなので、
褒めるのはクヤシイんだケド うう


あと、久しぶりに観たなぁ、キルスティン・ダンスト。
こんなところにこんな微妙な役で出てたとは。

あの微妙な目鼻の配置で「カワイイ」と感じさせるのは
これまた結構スゴイもん持ってるよなぁと、なんとなく
気になる女優さんだったのですが、最近出てきませんよね。
今は何をやってるんでしょうか。



true-『エディット・ピアフ』


人間の歌声はどんな楽器の音色よりも美しい、
というのは、誰の言葉だっただろう。

エディット・ピアフを聴くと、あながちそれも
言い過ぎではないと思う。

頭の芯がじんじんして、心はドキドキと高鳴る、
そんな歌声。

良かったら聴いてみてください CLICK




Edith Piaf - Non, Je ne regrette rien


「No, I don't regret anything. 」 という意味らしいです。




true-『読書について』



「読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えること」


読書好きならドキッとして、ページを繰る手に冷汗が
伝いそうな一行ですが・・。


でも、前後を読むと、ショウペンハウエルの意図がわかります。

彼は、書物の力を侮っているのではなく、哲学者として
読書および思索の違いと、それぞれの効果・効能について、
解き明かしているだけなのです。


それに気づいたとき、散文とは、あるひとことや一文だけでなく、
文章全体で意味を成すものであることを実感しました。

また、世の中に溢れる”偉人の名言”、それらの中にも実は、
著者、発言者の意図を超えて一人歩きしているものが多いので
はないか、と考えてしまいました。



true-『ショコラ』


そういえば、いちばん好きなお菓子はチョコレートだ。


私は甘いものに目がないタイプではないし、
チョコ以外に餡もクリームも大好きなんだけど、

チョコはもっと身近で、いかに自分がチョコ好きかを
忘れるくらい、さりげない存在だ。


おいしい和菓子や洋菓子を食べる時って、

たとえばカフェで注文をして待つ間に、
たとえば家で包み紙を開く瞬間に、

わくわくしたり、どきどきしたり、どこか高揚した
気持ちがある。


だけどチョコレートは、それとは少し違う。

スーパーで買った板チョコでも、ショコラティエの作る
宝石のような一粒でも、

味わう私は、ひどく冷静。



なぜだろう?

それはたぶん、私がチョコレートを信じているからでは
ないだろうか。

チョコレートはチョコレートであり、
上手い不味いではなく、味の違いがあるだけだという
気持ち。チョコレートそのものに対する確信的な信頼が
あるんじゃないか。

それは、本やコーヒーを想う気持ちに、少し似ている
ように思う。



true-『水辺にて』


作家さんのエッセイはめったに読まないのですが、
家にあったのでなんとなく、ぱらりぱらりとめくる(それに
しても、なんでこの本がウチに?)。

作家さんの思想や日常を知ると、作品を読む目に
フィルターがかかりそうなので、なんとなく避けてました。

そんな厳粛に、熟読しているわけでもないのにね。。


とはいえ、さすが梨木さんの文章。

カヤックをそっと湖に浮かべて漕ぎだすように、
そろそろと読み始めたのに、スイッーと水面を滑るような
感覚で連れ出され、気づいたら岸ははるか遠く、私は本の
小宇宙の中。

カヤックを漕いで岸から離れ、一人きりになるのも
こんな感じなのだろうか。



カヤックも、カヌーも、湖も、川も、今の私には
遠い世界だけど、もう何年かしたら、田舎に住みたい。

私は海外と海に縁があるらしいので、
空港と海が近いところがいいな。。。なんて(笑)