このところ、狂ったようーに毎日、毎日、、
ブログを更新していることからもおわかりかと思いますが、
読後レビューが溜まってました。
発病後、読みたい欲求は比較的早い時期に回復したのですが、
書きたい欲求のほうはまるでそんなもの最初からなかったみたいに、
ちっとも私の所に戻ってきてくれなかったのです。
ところがある日ふと、「書けそう・・」という気がして、
せっかく久しぶりに指先に触れた書きたい欲求のしっぽを
むざむざ手放したくなくて、
出来は二の次、とにかく書き続けることを目指して、
ブログの場を借りて、本の力を借りて、
自分の中から湧き上がる何かを書きなぐってきました。
おかげさまで最近すっかり身心は元気を取り戻し、
復職の手続きを進めているのですが、
これが遅々として進まず、ちょっとイライラ。。
とはいえ、会社の都合もあるし、
私がひとりでイライラしてもしょうがないことなので、
ならばせっかくのお休みとチャージ完了のこの活力を有効に使おうと、
学校のレポートに取り組み始めました。
それが、これまで資料集め(脱線含む)ばかり夢中になって、
いざ原稿用紙を目の前にすると、思い浮かぶのはエピソードの断片ばかり、
まとまった論理体系めいたものは影も形も見えずだったのに、
なぜか今になって、マス目を埋める手が止まりません。
アウトプット欲求の暴走。
しかもアウトプットすればした分、インプットしたい欲求も
加速度的に増している。読みたい本のリストはどんどん長く、
かつ重厚になっていて、
『魔の山』
『カラマーゾフの兄弟』
『ドン・キホーテ』
『ロビンソン・クルーソー』
『1Q84』
と、自分で書いてて「オエッ」てなるくらいのヘビー級チャンピオン群が
控えています。
昔、ぼくはなぜ作家が小説を書けるのか不思議でならなかった。
頭の中にある不定形のもやもやとした曖昧な、そしてそのままでこそ魅力のあるものを
紙の上に書いて定着させてしまう不安に作家はいかにして耐えるのか。
もちろん生来愚鈍でそういう不安をまったく感じないような連中は最初から論外としよう。
書かれる前にはすべてが微妙な色合いを保って優雅にゆれ動いているものを、
書くことによって一つの色に決定してしまう。
そこで失われる階調を惜しんでいたら、筆は進まない。
そこのところのあまりに原理的な矛盾をどう乗り越えるのか。
それがどうしてもわからなかった。
曲がりなりにも書けるようになったのは、その時々世に問う作品はすべて仮のものであり、
一つ一つで足りなかったり、言いまちがえたり、筆に乗り切れなくて捨てたりしたものへの
無限の未練をそのまま次の先への力にするということだった。
書きつづけることが何よりも大事なのだ。
『雷神帖』 「フォークナーの時間と語り」よりこれまでの私は、アウトプット欲求を不当に蹂躙していた。
アウトプットする許可を与えられないままインプットされ続けたハコが、
破裂するのは当然だった。
我慢強くはなったけど、先に体が悲鳴をあげた。
回復のためにお医者様と薬の助けが必要なほど、精神を抑圧したのは、
我慢が強さの証であると勘違いした、私の愚かさである。
言いまちがえたり、書ききれなかった言葉を捨てることを、
私は恐れていた。
どうしようもなく怖かった。
少しでも 「言葉を扱う能力がない」 と人に思われるのは、
耐えがたい屈辱だったのである。
それならば、思ったことは書かずに、言わずに、人目に触れないように、
風船のように紐をつけて、ふわふわと漂わせておきたいとでも
思っていたのだろう。
だがそれは、本当のところ、本意ではなかったのだ。
自分にとって言葉がどれだけ大切なのかわかった。
一瞬でも読めなくなって、そして書けなくなったことは、
読みたい気持ちと書きたい気持ちへの無限の未練を与えてくれたようだ。
最近よく、将来の身の振り方を考える。
ずっと読み続けるために。
ずっと書き続けるために。
延いては、誰かに伝えるために。
では、雷神も世に放つとしよう。
いざ、雷鳴と電光をもって衆生を驚欋せしめよ (といきなり強気に
なったりして)。
同「あとがき」より