連休中、まとまった自由時間が取れるのでなかなか読めていない本を読んでいる。前から読みたかった「レディ・ジョーカー」もその一つ。まだ上中下巻の上巻だが、直木賞作家高村薫女史の筆力・構成力・取材力には驚く。「マークスの山」や「新リア王」など他のベストセラーも早く読んでみたい。(しかし深刻な遅読で積ん読が溜まるばかり。。)
ところで先日その高村女史が、今回の原発問題についてインタビューに応じていた。女史は以前で原発テロを題材に小説を著述したため取材されたようだ。インタビューの中で彼女は「今回の危機では監督省庁、東電とも『想定外』という言葉で逃げているが、危機について考えることから逃避してしまったために今の対応がその場しのぎになっている」という意味のことを語っていた。同様の主張を先日日経新聞でも見かけたが、まさにその通りだと思う。できる範囲のことは考え対策も打つが、それ以上のことがおこったらしょうがないじゃん、だって天災だもん。この種の開き直り、甘えが根底にあるのではないか。これは小さなところでは企業、大きなところでは日本の国家戦略にも残念ながら当てはまっていると感じずにはいられない。たとえば某社では売り上げの過半を占める主力製品が徐々にコモディティー化し、対策を検討する時間的余裕があったにもかかわらず、代替製品の検討・拡販をおざなりにし、売り上げ急減に直面してから焦る。戦前の日本なら対米開戦に至る迷走(目算ないまま真珠湾を奇襲、早期講和しなければもたないと政府の誰もが分かっていながらその手立てを考えていなかったために泥沼に。)そして終戦にいたる混迷(スイスに仲介、だめだからソビエト それもだめで。。その間何十万人の人命が失われたことか。)、そして最近では思考を拒否したとしか思えない「私史上最低のダメ宰相」ハトヤマが引き起こした普天間問題だ。
これがアメリカならどうだ。ロジカルシンキングの本家はミッシーをしっかり考えるから「もれなくダブりなく」が徹底している。初めから「そんなことはありえない」とは考えず、すべての可能性を否定しない、分解を徹底的に行うという印象だ。まず事象を分解し、ロジックツリーを構成する。打ち手は必ずオプションも含め数パターン用意する。だからこそ戦争に勝ち続けてきたし、国家も勝ち続けてきたのだ。
(逆に日本の良さは現場力だ。原発事故現場での献身的な復旧作業、企業のサプライチェーンの迅速な復旧、
そして節電の国民的協力意識。一人ひとりの教育・教養レベルが高い日本という国家の最大の強みだ。)
考え続けることは労力もコストもかかる。でもそれから逃げ続けていてはだめだ。「しょーがない」文化を改め、
責任部門・担当者を徹底的に追及し責任を取らせる(責任がどこにあるかわからない組織など不要。旧帝国陸軍のように)。逆にしょうもないこと(入試カンニング事件やエビゾー事件など)で非寛容な、人を追い込むようなことをやめる。 まだ危機は去っていないが、今回の教訓を求めるとすればそこであろう。