先日、新聞のコラムで面白いコトバを見つけた。「節電所」。電力を消費を抑え込んでしまうプラント・施設。ではもちろんなく、電気を作り出す「発電所」に対して電力消費を抑えることで、消費しなかった分の電力を(仮想的に)生み出すという概念のことだそうだ。なんかCO2の排出権みたいで胡散臭くないこともないが、逆転の発想でかなり気になる概念だ。

 まず「節電所」は発電所と違い初期投資がいらない(そりゃそうでしょ、設備ではないんだから)。発電所と違って送電線のようなネットワークも不要。そしてどこにでも沢山作ることができる。これは面白いではないか。単に「節電、節電」というのは家計が厳しくて泣く泣く節約しているようで気持ちが萎える。でも「オレ節電所」で電力を生み出しているんだ と考えるだけでなんかポジティブな気持ちになってしまう。

 考え方だけでこんなに違うんだ とあらためて発想のチカラを感じた。ワタクシもさっそく「節電所」を建設することにした。まずは職場のトイレの消灯から!

我らがヴィッセルの助っ人外国人、イ ジェミンが飲酒運転で事故を物損事故を起こしてしまった。ひとまず謹慎かな思っていたら今日、契約解除が発表された。

 クラブの社会的責任と、飲酒運転に対する社会の厳しい目、飲酒事故に遭われた方の心情を考えると適切な判断だと思う。が反面、正直、ちょっと厳しすぎるかなとも思う。


この種の判断はとても難しい。正解がないから話し合っても完全に皆が納得することがない問題だ。例えば、人を殺す、モノを盗む、火をつける といのは古今東西絶対悪だ。犯人は絶対に罰せられなければならない。飲酒運転はどうだろう。法規制が厳しくなる前、思わずやってしまった人もいるはずだ。では会社のコンペでの掛けゴルフは? 掛けは少額だろうと犯罪だ。では懲戒解雇の対象か? 会社帰りの飲み屋でのセクハラや喧嘩は?? 正解はない。


 そういう問題に対して、「当然だ」「考える余地もない」という考え方というのは少々危険だと思う。「そうあるべき」

「そうでなくてはならない」「自分は正義だ」という一種の原理主義。この思い込みが世の中をギスギスさせている元凶なんじゃないかな。そう思う。


 でもジェミン君、悔やんでも悔やみきれないよね。前日にいぶきで練習見たときは頑張っていたのに、わずか40時間後にこんなことになるなんて。。 残念! 

連休中、まとまった自由時間が取れるのでなかなか読めていない本を読んでいる。前から読みたかった「レディ・ジョーカー」もその一つ。まだ上中下巻の上巻だが、直木賞作家高村薫女史の筆力・構成力・取材力には驚く。「マークスの山」や「新リア王」など他のベストセラーも早く読んでみたい。(しかし深刻な遅読で積ん読が溜まるばかり。。)


 ところで先日その高村女史が、今回の原発問題についてインタビューに応じていた。女史は以前で原発テロを題材に小説を著述したため取材されたようだ。インタビューの中で彼女は「今回の危機では監督省庁、東電とも『想定外』という言葉で逃げているが、危機について考えることから逃避してしまったために今の対応がその場しのぎになっている」という意味のことを語っていた。同様の主張を先日日経新聞でも見かけたが、まさにその通りだと思う。できる範囲のことは考え対策も打つが、それ以上のことがおこったらしょうがないじゃん、だって天災だもん。この種の開き直り、甘えが根底にあるのではないか。これは小さなところでは企業、大きなところでは日本の国家戦略にも残念ながら当てはまっていると感じずにはいられない。たとえば某社では売り上げの過半を占める主力製品が徐々にコモディティー化し、対策を検討する時間的余裕があったにもかかわらず、代替製品の検討・拡販をおざなりにし、売り上げ急減に直面してから焦る。戦前の日本なら対米開戦に至る迷走(目算ないまま真珠湾を奇襲、早期講和しなければもたないと政府の誰もが分かっていながらその手立てを考えていなかったために泥沼に。)そして終戦にいたる混迷(スイスに仲介、だめだからソビエト それもだめで。。その間何十万人の人命が失われたことか。)、そして最近では思考を拒否したとしか思えない「私史上最低のダメ宰相」ハトヤマが引き起こした普天間問題だ。


 これがアメリカならどうだ。ロジカルシンキングの本家はミッシーをしっかり考えるから「もれなくダブりなく」が徹底している。初めから「そんなことはありえない」とは考えず、すべての可能性を否定しない、分解を徹底的に行うという印象だ。まず事象を分解し、ロジックツリーを構成する。打ち手は必ずオプションも含め数パターン用意する。だからこそ戦争に勝ち続けてきたし、国家も勝ち続けてきたのだ。

(逆に日本の良さは現場力だ。原発事故現場での献身的な復旧作業、企業のサプライチェーンの迅速な復旧、

そして節電の国民的協力意識。一人ひとりの教育・教養レベルが高い日本という国家の最大の強みだ。)


 考え続けることは労力もコストもかかる。でもそれから逃げ続けていてはだめだ。「しょーがない」文化を改め、

責任部門・担当者を徹底的に追及し責任を取らせる(責任がどこにあるかわからない組織など不要。旧帝国陸軍のように)。逆にしょうもないこと(入試カンニング事件やエビゾー事件など)で非寛容な、人を追い込むようなことをやめる。 まだ危機は去っていないが、今回の教訓を求めるとすればそこであろう。


ちょっと前の話になるが、長渕剛が被災地、しかも自衛隊の駐屯所に慰問に行ったことが報道された。

震災直後から現地入りし、住民の救助、不明者の捜索、遺体の収容 など壮絶な現場の第一線で働く自衛官たちを慰問する長渕。その映像を見て、心を揺さぶられた。

 安全な場所で、「想定外だ、どうだ」と評論家然となってしまう人、実際に避難所へボランティアで駆けつける人。こんなときにその人の本当の力「行動力」が現れるものだ。こんなときに行動できる人に私は素直に敬服する。


今回の長渕の自衛隊慰問は、現地に赴いて頑張っている人を励ました、という、事実だけを述べれば文字どおりではあるが、「自衛隊を組織としてではなく個人の集合体として考えて行動した」ことを私は賞賛したい。つまり、「災害時に一番頼りになる軍隊組織である自衛隊」を構成するのは、感情も疲れも持ち合わせた日本の一人の若者の集合体で、その最小単位である個人を勇気づけるために歌を届けたい という発想が素晴らしいと思うのだ。


 実際、長渕の歌にあわせて熱唱し、こぶしを突き上げる自衛官たちは涙を流していた。もともとファンでうれしかったから、という人も中にはいたであろうが、テレビ画面から伝わってきたのは、長渕の応援する気持ちが聴衆の魂を揺さぶっている姿だった。 慰問終了後、「元気をもらいました。明日からも任務を果たします」と笑顔で答えた自衛官を見て、人を勇気づける意味をあらためて実感した。


今更ながら、SMAP(作詞はマッキー)の「世界にひとつだけの花」の歌詞について考えた。この曲に対しては以前新聞で「一番を目指さなくていい なんていう曲がヒットするという若者の風潮そのものが日本の競争力低下の温床だ」云々かんぬんという記事を見かけた。反対に「オンリーワンということはその分野でのナンバーワンということに他ならない」といっていた企業人もいた。どちらの見方をするかは人によってまちまちで面白いところである。

 確かに「ナンバーワンになれなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」というフレーズだけを聞いていると、生まれつきの個性を大事に、人に競り勝ってまで一番を競う合うな という傷のなめあい、あまっちょろい理想主義の香りがぷんぷんしないこともない。しかし前述の企業人の云わんとしている「オンリーワン戦略」はニッチ市場においてナンバーワンを目指すしたたかな生き残り戦略であるともいえる。(もっと下世話な話をすれ、作詞したマッキーも、それを歌うSMAPもライバルたちに競り勝ってオーディションに受かり、ヒット曲ランキングの上位にいるのだが。。)

 

 今回の震災でも、巨大な自動車産業や電機産業が東北地方の下請けの下請けが作るような部品や素材がないためにサプライチェーンが止まってしまう事象を見聞きする。生き残るために代替の利かない技術・工程・ノウハウを有しているために簡単には代替品が見つからないのだ。逆に、最終組み立て工程を持っている最終ベンダーのほうがナンバーワンにもオンリーワンにもなりきれずに、コモディティー化している例は枚挙に暇がない。

どこぞのPCメーカーのように。


 歌の世界観に立ち返り、人の価値について考えてみても同じことが言える。代えの効かない人材になること。ある分野でトップになってもいいが、これからの新しいミドル層は複数の分野を組み合わせることで時代が求めるオンリーワン人材になる。(たとえば、客と営業交渉もできるエンジニア、プログラミングまでできる営業職、工学博士の資格をもつ商社マンなど)。

俺はどんなオンリーワン人材になれるのか?「趣味でサッカーができる、仕事のできない営業マン」か?はたまた「読書が好きだが自分で書くことはできない、代理店とのなれあい営業でこなしているメーカー営業」か? いずれにしても代えは無数。これじゃあアウトソーシングされるわww。フラット化する世界(下巻)を読みながらそんなことを考えた。