POST IT 

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~post it のように気軽にかくので気軽にご覧下さい~


Amebaでブログを始めよう!

朝起きてヨガ→瞑想→ブログとすすむ。

 

昨夜はこれからの仕事のことを考えていた

 

営業に戻るのか

 

資格をとるのか

 

転職活動をするのか

 

今の生活をよりよくするため

 

息子にとってよりよい環境にするため

の方法を改善していきたい。

 

 

おひさしぶりです。

突然ブログを書く気になりました。きっと新しいノートPCを買ったからでしょう。

 

仕事終わり、蕎麦屋で天丼をたべてカフェにきて執筆中。

三連休前なのでお客さんは少ない。

とてもリラックスしてチョコパイと紅茶のセットをたいらげた。

 

 

さて、やりたいことがたくさんある。

 

なにからやろう。

 

まずは新しいブログを立ち上げよう。

自分の取り組みたいことを中心に、匿名で。

 

ノウハウがないので、まずは真似から初めてみようかな。

 

 

お盆休みが終わり通常業務に戻ってはや4日

会社の人は普段より早く帰りっていてこのまま皆がはやく帰る雰囲気が続けばいいのにと思う。

自分も余裕を持って仕事をしている

追われないで仕事をすることがこんなにらくだったのか

この調子でお盆まえにやりのこしてたけど大事でなくなった(旬をすぎた)

仕事を破棄することにしよう。

大事なのはやらないことを決めること。

そう考えて明日いちにち過ごそう。

いまだにゼミの先生がアップするブログを読んでいる。


その記事の中に、『生きる技法(安富歩)』を読んでゼミで議論したことが載っていた。


以前欲しいと思って近所の平安堂にいったが在庫がなく、またいつか頼もうとおもったまま


忘れていたことを思い出し、もう一度ダメモトで平安堂に電話すると在庫があるということ。


久々に嬉々として本を買い、線をぐいぐいひっぱりながら読んだ。



学者である安富が生きる技法についてこれまで読んできた本にあったヒントや経験から生き方について考えまとめたこの本で重要なキーワードは”自愛と自己愛の違い”だ。


「命題3 愛は自愛から発し、執着は自己愛から生じる」自愛とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れていることです。人間はほかの生命と同じく、自分自身を維持しようという根本的な欲求を持っているます。その欲求を認め、それに従うのが自愛です。そうしてはじめて自らその身を大切にすることができます。自愛が自分自身を受け入れ、大切にすることであるのと逆に、自己愛は、自己嫌悪から生じます。自己嫌悪とは、自分自身を自分自身としてそのまま受け入れることができない状態です。そして自分のあるべき姿を思い描き、自分がそれてずれていることに嫌悪感や罪悪感を抱くのです。


この文章を読んではっとした。


僕の葛藤の一部に自己嫌悪による自己愛の埋め合わせが深く根付いている気がしたからだ。


これまでに自分は自分でいいということは読書を通じて学んでいた。


しかし、常に周囲と比べ劣っている部分ばかりに焦点を当て、自己嫌悪ばかりする自分がいた。


残酷だけど、その自己嫌悪する自分に自己陶酔している部分もあったと思う。


しかしそれは自分で首をしめているだけではなかった


これはその人が勝手にやっていることではありません。自分とは異なる像を自分の像として、誰かに押し付けられていることから生じます。その上、押し付けられているという事実を自ら隠ぺいするのです。こうやって押し付けられた像があるべき姿となり、それとズレた自分の姿を嫌うのが自己嫌悪です。


人を自己嫌悪におとしいれようとする人は無意識であることも多いであろうが、必ずいる。そういった関係から脱却して、自分自身でいれるようなそんな生き方を模索している今日この頃

2011年最終日。総括をしたいと思い、過去に書いた年末の記事を見返していたら、2008年の年末に書いていた記事と出会った




朝刊で連載されていた内山節のコラムが先週の土曜で終わってしまいました。

都内の大学で教鞭をとるとともに、群馬で農業に携わる著者の思想は、地方新聞の論調にしっくりくる、風土を尊重したローカルな視点が多かったように思います。

11月をすぎたあたりから毎日紙面で経済悪化の記事が踊るようになって、経済至上主義からの脱却についての論考が増えたかとは思いますが、経済がおもいっきり順調だった昨年でも内山はローカルなコミュニティや関係性というものが重要だと繰りかえし論じてきていました。


「それは私たちが深く寝を張って、生きる場所を再創造することからはじまるだろう。深く根を張るとは、自分がどんな関係の中で生きているのかがみえている、ということである。自然とどんな関係の中で生きているのか。人々とどんな関係を結びながら生きているのか。どんな関係のなかで労働が行われ、文化が生まれてくるのが。そういったことがしっかりみえているとき、私たちは深く根を張った生き方をすることができる。」

ー信濃毎日新聞 2008.12.27(土)ー

考えなおしてみると、サブプライムは従来住宅を買うことができない経済レベルの市民にむりやり住宅を買わせた金融商品だったわけですが、世界金融危機から発した円高&米国での経済状況悪化から為替差損&販売台数減少というダブルパンチをくらったトヨタだって、本来新車を買えない経済レベルの市民に割賦方式で売りさばいていたということを考えると、これもサブプライムのような(額が少ないぶん破綻しにくいけれど)ものではないかと個人的に考えてしまいます。しかもその製造を担っていただけでなく、あるていど車の買い手だった派遣や期間労働者が皆解雇され、一部が新車と生活を取り上げられてしまうというのは、今後のいい教訓(あくまで僕にとって)だったと思います。

このような拡大経済によって生まれた貨幣で、都市部ー或リゾート地でセレブリティな暮らしをすることや、自己実現のための消費をすることが最近の一般的な価値観だったとは思いますが、内山はより根幹的な「深い関係性の中で労働や文化に携わる」ことが価値であるということを主張しているのではないでしょうか。

社会が劣化し、経済規模が減少してほぼ確実に所得が減り、消費のしかたが変化するであろう近未来、僕は皆がこれまでのような消費生活を続けるべきとか、内山のような暮らしをすべきだとかは思いません。そんな原理主義的な考えではなく、構造主義。つまり、おわりのない消費を通しての自己実現よりは、関係性の中での役割取得からくる幸福感のほうが、”よりマシ”という立場をとって、きたる困窮時代に立ち向かっていこうかな。と思っている2008年の暮れです。



僕は内田樹や内山節の論じるローカルなコミュ二ティで暮らしたいと願ってはいるのだけれど、2011年は居場所ずくりや、関係性の強化どころか居場所をどんどん失い、核家族として孤立し出口の見えない森に深く深く迷い込んだ年だった。これまでが幻想だったことはよくわかる
人は絶望とともに歩んでいく生き物だ
それは対比するものでなく
個々の問題だ

来年は無我に徹せられるよう修養したい。
昨日 ひょんなことから東大大学院教授 島薗進氏の講演を聞いた。

題名は「近代日本人の死生観と死生学」

西洋と東洋の死生観の概要を市民にわかるように簡単に話した90分。
死が身近ではない(もちろん死は誰にでも訪れるけれど、身近で看取ることが少なくなっている)
現在、これまでの死生観の概論だった。

冗談を交えつつ、文化や時代によって異なる死生観の概論を講義することで、患者の家族や
自分自身にも死が訪れることをよく理解して、死生観を養うという意図がわかりやすく後援会
はよくできたものになった。さくらの一人として参加した僕は久々に哲学的な話を生の声で
聞きながら、錆び付いていた頭をすこしだけ動かすことができた。

そう、自分はとても無知で論理が欠如し思慮が足りないけれど、大学では頭をぐるんぐるん回して議論したり考えた経験があって、そして自分はそんな時間が楽しかった。本当に楽しかった。

インテリの教授にインスパイアされ、本を読み考えることがとても楽しかった。
そして誰かと議論したり、自分の意見を聞いてもらえることを望み、その愉悦にひたった。

それが最近できなくて、歯がゆい思いをしたり投げやりになりかけているけど
諦めなければまたそんな議論の機会がふと舞い降りるだろうし、そんな人ともあえる。
その時のために、自分を鍛えておかなければその時にきっと後悔する。

自分の一番の魅力は上記のようなことが好きなことだと思っていた。

そう、魅力をのばそう。好きなんだから。

これは僕なりの死生学であり、哲学でもある。

抑圧された思考が膨らんで外へでようとする。

僕がこの状況でするべきこと

まず

すぐに

「自分の最初の不適切な決断は?」

思い出せ 

「自分はいつ どのようにして 決断を謝ったのか

洗い出せ

過去を見つめて忘れる。供養する。

トラウマと後悔だらけの人生から抜け出せ
あまりツイートしていないが、尊敬する人や知識人のツイートを浴びるように読めるようになり
すこしずつ考えが変化しているきがする。そんなおり脳科学者の茂木健一郎の今朝のツイートは
最近感じていた問題に対するアンサーだった。

人はコンプレックスが無意識的に自分の身体を支配し、過去に縛り付けている。
だから、そのコンプレックスを認めて、忘れて未来に没頭することが自由につながる。



人それぞれコンプレックスがあると思うが、自分ももちろん幾多のコンプレックスを抱えている。
容姿や頭の悪さへのコンプレックスは学生時代様々な出会いや読書を通じて茂木健一郎がいうように
意識化することができ、無意識の囚われから自由になれていた。しかし社会人になり、目の前のルーチンワークや、やりたいことに時間をすべて使い、内省の時間がへって新たなコンプレックスの需要ができていなかった気がする。だから、今朝のツイートを読んで、最近のコンプレックスを意識化(思い出して)から忘れようと思う。

それから一連のツイートの中で印象的だったのは

ニーチェは、「ルサンチマン」(恨みの感情)こそが、人を堕落させるものだと看破した。ルサンチマンと、それに基づく攻撃性は、精神を急速に老齢化させる。無意識の中に凝り固まったルサンチマンから自由になるためには、一度思いだして、それから忘れることだ。


実家に帰省すると冷蔵庫に洗濯機に炊飯器にテレビにとすべて新調されていた。

家電が大好きな僕(最近きずいた)にとっては楽しくて仕方ない。

さて、奥様のおかげでこのお盆はゆっくり過ごせることになった。

読書に新しいマックライオンで遊ぶのに使わせてもらって

またしっかり働けるよう準備しよう

この夏、よくお盆まで乗り切ったと思う。
本当に支えてくれた人のおかげで、自分のミスがとても多かった。
心と体が憔悴して、ぬけだせなかった。

今日は気のしれた友人との飲み会

いろんな人に支えられて、こうしてお盆をすごせるということをあらためて感じてます。

ゆっくり整えよう。