アジアの片隅で。
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新 Sケン迷宮案内

 今朝録りたい番組があり、4年くらい前のビデオを引っ張り出し、上書きで録画してもいいかどうかチェックしているといきなりスガシカオの昔の生搾りのCMが流れてきた。


 スガシカオ「今日ここに集まってくれたみなさんに、左手オナニーをオススメしまーす!」
 観客「わぁ―――――!!!」
 スガシカオ「左手オナニーを、友達に薦めよぉー!(ドピュ)」
 観客「ああ―――――!!!(ドピュピュピュピュ)」

 あのスガシカオが生絞りのCMでそんな過激なことを言っていたとは、にわかに信じがたい事実です。ある意味生搾りですけどね。こう、生臭いものを搾りだすところが生搾りじゃないっすか!(熱弁) コンサート会場が白濁液で溢れかえっちゃってもう大変、白い洪水です。わぁ、スガシカオが楽しそうに泳いでる。でもネバネバしててすごい嫌ですねぇ。

 スガシカオ「今日から僕の名前はイカクサオです。よろシコ!」

 

 本当か、いいのか。その名前でこれからもミュージシャンとしてやっていけるのか。まぁスガシカオとイカクサオって響きが似てますし、改名したとしてもファンはまったく気づかないでしょうね。スガシカオのファンのつもりが、いつの間にかイカクサオのファンになっていた。これほどの悲劇が他にありましょうか。アルバムにはもれなくイカ臭いキーホルダーがついております。

 生搾りのCMをみた直後にこのような空想の世界へとはばたいてしまうような俺は社会的に抹殺されるべきかもしれません。違うんだ、こういうのが書きたかったんじゃないんだ。シモネタなんて本当は全然いらないんだ。俺が書こうと思っていたのは、もっとこう、どうあがいても逃れられない孤独感とか、自分が不幸に思えてしかたがない被害者意識とか、空を見上げるたびに抱く刹那な思いとか、そういう繊細な文章が書きたいんであって、スガシカオが精液まみれになってイカクサオに改名とかそんなの全然いらないんだよ。イカ臭いキーホルダーなんてもっての他。でもそれはちょっと欲しいかな。セクシャルハラスメントにも使えそうですしね。「男の匂い嗅いだことある?」といって道行く女性にキーホルダーを振りかざします。

 俺「ほらほら男の香りだよー。」

 女性「うーんマンダム☆」


 …ビデオを録り終わり、近所のラーメン屋に行きました。そのラーメン屋には「美味しんぼ」と「ドラえもん」がおいてあります。朝からフルテンションだった俺は、注文の品が出てくるまでこれら2作品の2次創作をして待つことにしました。


 しかし「美味しんぼ」には濡れ場がないので正直困ります。山岡さんと栗田さんが結婚しても初夜の描写はいっさいなし、読者サービスに欠けるきらいがあります。栗田さんにもう少し、もう少し色気があればいけないこともないですね。もし美味しんぼでやってる人をみかけたらラッキーだと思いましょう。ヌキどころ一切なしという過酷な条件を克服できるのは真の猛者だといえます。究極と至高の対決についてですが、山岡さんが究極のメニューとして栗田さんの裸体を海原雄山に差し出せばこじれた親子関係も元に戻ると思います。山岡さんと海原雄山が仲良くなってハッピー、栗田さん泣き寝入り。出ました、栗田さんの必殺ひとりバッドエンド。海原雄山に無理やり食われる栗田さんを想像することに成功すれば、比較的容易にいけるかもしれません。


 さて、次はドラえもん。これはしずかちゃんの乳房の発育しだいですね。今のしずかちゃんの胸はまな板にしかみえませんので、女性としての魅力を感じることができず、奮い勃ちません。というよりしずかちゃんの胸って本当にまな板みたいですね。あの上で料理できるんじゃないかしら。魚を開いたり、ネギを千切りにしたり、舌でペロペロ舐めたり、用途はいろいろ!しずかちゃんまな板、R48指定で絶賛発売中!よし、このアイデアで年商一億はいけるな。

 明日も多分そのラーメン屋に行くから、明日は大長編ドラえもん「のび太の家庭崩壊」を妄想しようと思う。



 何だこれ。何だこの生活。こんな生活送ってたら人生負け組一直線じゃないか。俺も勝ち組みに入れてくれYO!(間違えて女体の中に顔を突っ込みながら)


 わぁ、真っ赤だ!夕焼け? 


 終わります。



「NO MUSIC NO LIFE?」

今日偶然「NO MUSIC NO LIFE」と書かれたTシャツを偶然2回見たので、また、日ごろテレビなどで音楽を聴き思うところもあったので、これも何かの縁だと思って音楽について考えてみようと思った。


 俺は音楽が大好きだが、最近はいいと思っても、なにか物足りなく思ってしまうことがある。だから俺はいい曲を探す事が少し嫌になってきてしまった。何か音楽に新しい物を求めているようだ。

 

 しかしこれは「なぜ人は飽きるのか」という簡単な問題に置き換えれば、帰納的に解決できた。仮に、ひとつのことに完全に絶対に飽きないと仮定すると、ひとつのことを何回も繰り返しうることを意味する。しかし、知るという行為を全く行わなければ、人は時間を意識することができないだろう。(無感覚な状態にさせると人は崩壊するらしい)また、有名な哲学者アリストテレスも「人は生まれながらにして知ることを欲する」つまり、「常に新しいことを求めようとする。」といっている。人は今を意識しようとするために過去から離れようと無意識のうちに考え、その考えが「飽きる」ということにつながっているのだと思う。


 音楽を考えるときに、音楽という音群が人の生理に与える影響や気持ちよさなどと、音楽は文化であり時代性があるということがある。時代に影響されない音楽の気持ちよさ、逆に言えば生理的な気持ちよさの追求として音楽が継続されていく、ということがある。たとえば音楽の気持ち良さの科学的解明につながるものに1/fゆらぎというのがある(波の音のように単調な繰り返しと不確実な波長が半々のときに人は気持ち良さを感じる、というもの)。しかし音楽の気持ち良さはもう少し時代性があるのではないだろうか。人間生理に根元的でなく、その時代に体験しリズムの中で、ありふれたものと不確実なものバランスに気持ち良さが生まれるのだと思う。そしてここに時代の、人それぞれの音楽の生理的なきもちよさの違いが生まれ、それは体験により気持ち良さはたえず変化しつづける。それは、ありふれたものの中に生まれる不確実なものが人の「性的なもの」、リビドーの解放の出口となり、快感に導くためではないだろうか。つまりこれが全然知らない曲でも、情動を喚起させることは不思議さにつながるのではないだろうか。

 

 まぁ音楽というのは簡単に言えば数学だと思う。それ以上でも以下でもない。ドレミファソラシドは、その昔弦楽器が主流だった頃、あの三角形で有名なピタゴラスが考えた。ピタゴラスはある法則に気が付いた。弦の長さを2倍、3倍にすると、気持ちのよい共鳴がする。その組み合わせを考えていくうちに、ドレミファソラシドが生み出された。だから音楽も数学の1種で、ピタゴラスは世界は数でできているとした哲学者だから音楽は哲学なのだ。ちなみにドもレもミも・・・もすべて正弦波。無限に同じことを繰り返す波だ。だから2倍、3倍のような整数倍で波が大きくなるのです。これが共鳴なんだ。ピタゴラスは天才だな。

 

 つまり数学は理性の音楽で、音楽は感性の数学なんだ。共鳴が癒しや快感の効果を与え、それを求める事は身をもって明らかだ。音は振動。振動は動き。動きは生。音とは生。あらゆる生命に世界はある。無数の音の中で、人間の限界のなかからわずかな音を感ずる。人間の秩序の中から、音を見る行為。それが音楽。点(一音)から線(調性〓スケール)がうまれ、いくつもの線が重なり、面(和音)になるのだ。ただそれだけじゃまだ何か足りないのは明らかだ。

 

 それは、前にも少し書いたけど時間じゃないかと思う。これは俺の考え方だけど、時間が一方向に流れていると認識できるから、時間という流れに沿った認識方法が生まれたんじゃないかと思う。(ただし、卵が先か、鶏が先かのような議論は無視)そしてその流れに沿った認識の過程で、共鳴という現象が偶然発生し、その特異な共鳴という現象に進化という概念が発生し、俺達は音楽のような波に快感を覚えるようになったのではないだろうか。しかし一番人をひきつけるのは不協和音らしい(ある人が言うには、モーツァルトは不協和音の天才)じゃ、肝心の不協和音とは何かというと、「音に装飾をつけること」。もはやなにがなんだかわからない。


また、俺の友人で、「iPODで何千曲をぶち込んでランダムで聴くことができるときに、曲の価値は失われる」と言う人がいる。録音物はすべてクソ、ライブこそ真実」といいきる。一見そうゆうもんかも、と納得しかげたが、果たして走だろうか。これについても考えてみた。

 

 音楽の気持ち良さにつながるものに1/fゆらぎがあるのはさっき書いた。波の音のように単調な繰り返しと不確実な波長が半々のときに人は気持ち良さを感じる。俺は音楽の気持ち良さはもう少し文化的でその時代、体験にありふれたリズムと不確実なリズムのバランスに気持ち良さがあると思う。ここに時代の、人それぞれの音楽の生理的なきもちよさがあり、体験により気持ち良さはたえず変化し、楽譜でも、記録メディアでも再現できないと思います。でも、録音物がコンサートやライブに劣る、という発想は幻想ではないかと思う。というのも、正確に言うと録音物の再生には再現性がないと思うから。例えば、リスナーのメンタリティに依存するのは当然のことながら、再生方法(ランダム再生と言ったってどの曲とどの曲の間に再生されるかで違います。DJ文化などはその発想だと思う)や再生機材(スピーカーから鳴る音は毎回違う)、その他の環境設定に依存する。それゆえにライブの一回性と録音物再生の一回性とは差ほど価値に違いはない。単にライブの方が前回の演奏との「差異」をリスナーが認識しやすい、というだけの話だと思う(「差異」を認識しやすいものが価値あるもの、という前提であれば、ライブの方が価値はあるだろうし、「iPODで何千曲をぶち込んでランダムで聴くことができるときに、1曲の価値は失われる」と言っても差し支えないのかも知れない)。


 もうひとつ、テレビの歌番組を見ていてこれほどまでに胸糞が悪くなるのはなぜだろうか。

 現代のポップスの起源が黒人霊歌にあるのは象徴的だとおもう。黒人奴隷という抑圧された人たちが見いだした解放の方法
現代人々は抑圧されているゆえにそのリズムに共鳴したんだ。ポップスとゴスペルはいまも近いところにあるしね。大きな違いはリズムの変化だろう。ブルースからロックへヒップホップなどリズムがはやく、激しくなる傾向がある。俺は何にそれほど抑圧され、解放を求めているとゆうんだろうか。

 たとえばロックンロールとは50年代に黒人が発明したリズムの名前だ。黒人差別があったので、黒人歌手のものは低俗でさけられたが、それを白人が取り入れ、商業的に成功させたのだ。ロックは白人というイメージがあるのは、その後白人がロックに固執し続けたの対して、白人はR&B、ソウル、ファンク、ラップ、ヒップホップなど、つぎつぎリズムを開発していったから。白人はいつもそれを後追いで商業的に成功させるのだ。マイケルジャクソン以降、黒人も白人並の商業的な成功が可能になり、搾取の構造は緩和されたのだと思うけど。

 また、現代のポップスの起源は、アメリカンフォークソング(民謡)とも言われる。アメリカンフォークソングは、アイルランドの吟遊詩人の語り唄からきているといわれるそうだ。かつてのクラッシックと、人々が野良仕事でなどで歌う民謡は、どちらがポピュラーだったのでしょうか。記録はいつも偉人の物語であり、民衆の風俗は残されない。だから歴史とは偉人がつくったように語られる。それでもやはりポップスにおける白人の搾取は大きいと思う。「白人はいつもそれを後追い」は強調すべきだと思います。


 芸術における創造は、高度であることとは違う。初期の黒人ロックを聴くといまも色あせず(?)、ラディカルだ。ビートルズ、ツェッペリンなどなど創造的なロックを作り出しきていますが、パンク、グランジなどなど、ロックがたえず、黒人ロック的なラディカルさに回帰する、また卑屈なまでの、多くの白人ロッカーの黒人歌手へのリスペクトには、意味があると思うのだ。そして、そういう所音楽の一方で、ポップスなどの波がきた。これは「音楽とは何か?」という問いの答えとして「商売です」と言い切るものですね。これは一つの大きな主流だと思う。もう追求する対象なんか無いよと。受けがよければいい、その場その場の雰囲気をつかんで、そこにあわせて音楽を作ろうと。だから、これは一種の広告何かと同じだ。そして、当然ですが音楽自体よりも流通やそれこそ売り出し方をどうするかが問題であり、音楽はその商売の一部というか、ネタに過ぎない。 

 

 そこでだ。商業的であることが悪いかというと、そんなことない気もするわけだ。音楽ではないが、例えばウォーホルは明確な意図を持ってポップアートを提唱したわけだ。つまり、表現すべき根本的な何か、そんなものはどこにも存在しないという宣言らしい。商業的ではあるが、それ自体として哲学的でもあるよね。これが現実に意味をある程度持っていると感じるのは、例えばJPOPなんかでも売り出し当初は結構いいのに、売れてきて好きに曲作れたりすると途端につまらなくなるというのがあるんじゃないか。まあこれは主観だけど。最初は売らないといけないから、別に自分の意図と外れていてもそれを歌ったりするんでしょうけど、そっちの方が作品としてはよかったりする、というのは確かにあると思う。好きなように作ると自己欺瞞っていうんですかね、(俺にとって)つまらないものが結局出来ちゃうと。

 まあとどのつまり、音楽は人間のすべての面の投影である。台所から宇宙まで。誕生から死まで。ファッションから哲学まで。セク-スから神まで。あらゆるすべてのものが音楽に投影されているんだよ。だから「NO MUSIC NO LIFE」はどうかと思う。まあ「NO MUSIC NO LIFE」?ならまだわかるけどさ。


そうなるとやはりモー娘は最高。あの完全たる脱構築形態は他に類を見ない。つんくは現代の三島かもね。



警察だ!警察よべや!

 あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願…いや、やっぱいいや。ごめん。今年の抱負は「エロゲをプレイする時間を減らす」です。でもそれはちょっと難しいですよね。志が高すぎるというか。じゃあ現実的なところで「今年中に人間辞める」にします。うん、これならできそうですね。



 というわけで、新年早々スノボ旅行に行ってまいりました。この旅行、思い起こせばいろいろありました。
 ソーセージで雪山を滑ったり、ソーセージが膨らんだり膨らまなかったり、ソーセージペロペロしたり、ソーセージ引きちぎったり、ソーセージ食ったり。て、ソーセージばっかりじゃないですか。でも本当にソーセージ尽くしの旅行でしたよ。右手とソーセージさえあれば生きていけるんじゃないかって思うほどです。世の女性たちをかきわけてワタシはソーセージ道を邁進していくのです。「女を知れば知るほど、私は自分の手が愛しくなる」ってかのシャロン先生もおっしゃってましたしね。

今考えたんですが、遊園地に新風を吹きこむために、ジェットコースターをソーセージの形にするといいです。形だけでなく質感もリアルに再現するのです。座ると妙にグニャっとしたソーセージ独特の肉質感があり、青筋もほとばしっていて、カップルを中心に人気沸騰間違いなしです。これはもうジェットコースターではありません。「チ○コースター」という新たなアトラクションの誕生です。ソーセージの形をした乗物がものすごいスピードで遊園地中を駆けめぐる、想像しただけで昇天してしまった人もいることでしょう。来年度中にはチ○コースターを稼動させたいので、各遊園地にむけてさっそく企画書を叩きつけてやろうと思います。「儲かるよ!絶対儲かるから!やろうよ!」そんな無責任な企画書をね。


 少し真面目な話をさせてもらうと、「ソーセージランド」という遊園地を作れば絶対儲かると思うんですけどね。チ○コランドって。行ってみたいっていうよりもう行くしかないって感じですよね。ソーセージがテーマの遊園地ですので、もう何もかもがソーセージなのです。入り口からしてソーセージ、入場券もソーセージの形をしてるっていうかソーセージ。食べ物はソーセージの輪切りだし、飲み物はアレです、アレ。もう!アレでわかるでしょ!言わすなよ!みんな大好きなドロっとしたアレですよ!いつも飲んでるくせにぃ社長!

 コーヒーカップならぬチ○コカップではソーセージに乗ってぶるんぶるん回転し、お化け屋敷では化物のようなソーセージにおののいたり、ディズニーシーを真似たソーセージーでは、中国から大量に輸入したカルピスの海で自由に泳いだり、みんなそういうアトラクションを待ち望んでいたはず! 

あれ、いったい私は何を考えているんだろう。ごめん、急にブルー入った。マジごめん。フルテンションでシモネタかまし
てる途中で、ハッと我に返ってしまったらもう終わりです。自分が情けなくて情けなくてガッカリですよ。「何書いてんだ俺
は…。」と自己嫌悪の渦にのみこまれるわけです。



というわけで、流血あり不法滞在者ありソーセージありのドギマギブギウギな旅行は幕を閉じました。ご迷惑をおかけした関係者各位にはこの場を借りてお詫びしようと思います。



「むしゃくしゃしてやった。今は反省していない」



今年の抱負は確実に達成できそうです。





天国行きは何番ホーム?

 昨日、なんとなくテレビをつけてみたら「水の都ベニスは……」といったナレーションが聞こえてきて、時々ひとりで異様にハイテンションになるのが趣味のひとつである俺は、「うおおおペニス!! ペニスペニスペニスぅーーー!!!きしゃしゃしゃしゃしゃーーーー!」と奇声をあげながら手を床につけて四足で部屋のなかをガサガサと熱く激しく這いまわっていると、突然部屋の入口がガラっと開いて「何してんの?」と姉に冷静に指摘されました。家にいたのか姉よ。いるならいるって事前に言っといてくれよ。確認もせずにハイテンション将軍に立身出世した俺が悪いのはわかってますけどね。よし、忘れようこんなこと。もう忘れたね。なかったことにしよう。超法規的措置。ついつい思い返しては赤面する思い出コレクションにまたひとつ追加された。

 

 話は変わるが、最近の小説やネットの文章を見て思うことがある。

 俺は行間が読めないんだなと。と、いうより読みたくないのかもしれない。大仰に段落のあいた文章や、無駄に多い改行をみると何故かむかっ腹がたつのである。それが文体や時系列、話題の転換によるものなら構わないし、リズムを整えるテクニックであるのなら特段気にもならないのだが、小説やブログなどに併せて、叙情的に使われるとたまったものではない。読みたくないというか、関係ないような行間が頭によぎって気が散ってしまうからである。それは書き手の意思と無関係かもしれないし、関係があるかもしれない(もし、関係があるのならその書き手の掌中にいるようで気味が悪い)。いずれにせよ、文字を文字どおり捉えられない恐怖におののきながら文を読むことになる。なぜ俺がそんな思いをしなければならないのか。感じ方は人それぞれだから、とも思う人がいるだろうが、それは詭弁の特徴17(勝手に極論化し、結論の正当性に疑問を呈する)にあてはまるので論外だ。

 言外に含んだ物言いが一種詩的な効果を生むのはわかるし、改行や段落が視覚的にも更にそれを増すことも実際に感じる。しかし、それがもし邪推の域を出なくとも、書き手のあざとさばかりが目に付いて気が滅入ってしまうのだ。ト書きや脚注が頭に浮かんでは消え、とても読む気にはなれない。文は脚色のあとの残りカスとなる。俺の頭の中でディレイをかけ過ぎた邪推が反芻し、まるでリ○トニ○カのオープニングのようだ(大作君にそういう演出の意図があったかどうかは知らないけれど)。見映えに気を揉む前に、行間を空けて文を飾る前に、そこに自分の思いなり考えなり本当のことを書くことはできないのか。少なくとも人様に伝えたり見せたりさせたいのであれば。一切合財の下世話な説明を排除した思考や文は、もちろん俺も理想とするところであるし、そういうものもあるが、最近は少ないと思うのである。ただ俺の感受性が鈍くなっているだけなのかもしれないが。まったく俺の頭はどうかしてしまっているのだろうか。


 そこで俺は、今自分の頭がどれくらい働いているのか、を確かめるべくある実験を敢行した。

 まず、部屋を真っ暗にし、吉田拓郎の「大阪行きは何番ホーム」を再生する。何百回と聞き、歌詞も諳んじているし、内容も淡々とした歌だ。余分な思考は入らない。そして、歌詞を思い浮かべながら、拓郎と一緒に頭の中で歌う。するとだんだんボーっとしてきて、音も耳に入ってこなくなり、もちろん頭の中で歌ってもいない。しばらくすると、はっと我に返りまた音が戻ってきて一緒に歌うことが出来る(みなさんもこのような経験はおありだろう)。 この間の時間を計測し、その間(ボーっとしている間)何を思っていたかを思い出すという作業をする。俺は歌詞の「たとえ都会の片隅であろうとも…」の辺りで音を失い、「…家を捨てたんじゃなかったのか」で取り戻した。この間約25秒。この間俺の頭に浮かんだ文字列の記憶の糸を辿る。原文ままに書けば「あータバコあったっけな、てか寒いな、指先が寒い。あ、タバコ吸いたいなーてか寒いなーあれ~俺なにやってんのかなー」、これだけである。文字数にして47文字。25秒間に47文字、つまり俺は1秒間に1,88文字を生み出すことが出来たわけだ。

 だがこれはボーっとしている状態の数字である。頭をフル回転させたときの数字はどうだろうか。ストップウォッチで25秒を図り、その間どれくらいのことを考えることが出来るか実験した。テーマは同じ「大阪行きは何番ホーム」についてだ。スタート――――終了。原文に忠実に書こう。「ちょwwwもうスタートかよwwwwいきなり考えろっつったってわかんねぇよwww空気嫁って。歌詞?そりゃそのままだよ。拓郎がやりたいほうだいやって挙句自己嫌悪、そういう歌でFAだろが。あれ?25秒まだ?うーん、寒い。てかタバコ吸いたい」文字数にして117文字。大幅に記録更新だ。これは1秒間に4,68文字の思考をしたことになる。

 

 これを踏まえて計算しよう。まず1日のうち起きている間にボーっとしている時と、何かを考えている時の割合を算出する。これは今実験できないので(いずれやるつもりだが)仮定になるが、おそらく9:1の割合だ。そして起きている時間は平均12時間だろう。43200秒だ。ボーっとしている時間は、38880秒。だから1,88×38880で約73094文字を俺は生み出すわけだ。同じく何かを考えている時間を計算すると、約20217文字。あわせると、93311文字。きゅ、9万オーバー!?


 私は驚愕した。400字詰め原稿用紙ならば233枚ですよ。これは小さい文庫本なら約100ページだ。しかも1日でだ。どんなに速筆の文豪でもここまでは行かないだろう。調子に乗った俺は、更に自分が生まれてからどれくらいのページを生み出したか計算した。結果は79万6500ページであった。これは広辞苑約284冊文である。俺の自叙伝を書くならば、これくらい必要ということだ。

 俺はなんて厚く、重く、そしてインテリジェンスに満ちた脳を持っているんだ。そして、すばらしい書物を脳に蔵書しているんだろう。あとは、蔵書の整理をしてくれる司書の出現を待つばかりだなと思った。

 先刻までの疑念が嘘のようにとけ、晴れ晴れとした気持ちになった。

だから今日は、晴れ晴れとした気持ちで、リバティだかカバディだか知らないが某大学に行ってきた。弘田三枝子「しんぐるこれくしょん」を手に入れるためだ。年も変わらないのに、サブカルチャーとサバの匂いをプンプンさせた心優しい姉さんが貸してくれたのだ。クリスマスの夜はミコちゃんを抱いて寝ようと心に決め帰途に着き、家に帰り早速聞いてみると、ウワサにたがわぬ素晴らしい出来だ。どうもありがとう。 


BGM 弘田三枝子「かわいい嘘」


カレーライス。

 先日別れた彼女を、また不用意な一言で傷つけてしまったようだ。

 

 WINDOWSのスタートボタンから、終了オプション(U)を選んで、電源を切る(U)をクリックする。すると画面は色を失っていき、モノクロの画面になる。俺のデスクトップでは「とんがり帽子のメモル」のメモルが微笑んでいるわけだが、メモルも色あせてゆく。俺は、なんだか悲しくなってしまって、キャンセルボタンを連打し、また2chブラウザを開いてしまうのである。

 これに似た悲しさはいつもある。こうして文を綴るにしても、文字になった瞬間、つまり俺の頭から離れた瞬間に、コンマ何秒の間にどんどんと色あせてしまう。さっきまで俺の頭の中では実にカラフルで、うごめいていて、きらきらしていたんだが。言葉もそうだ。発した瞬間、何か空々しく響く。言葉のあまりの陳腐さに辟易することがままある。さっきまでは、頭のなかでジョイサウンドのSHOW劇クリップみたいだったんだが。脳にそのようなきらめきがないことは重々承知しているが、何故か悲しい。だから、俺はすぐそれを消し去りたくなってしまう。壊したくなってしまうのだ。なぜだろう。SEXのあと、淡々と下着をつけて、すっかり元通りになってしまった彼女に、もう一度やらせろと懇願してるようなものだ(事の後は往々にして滑稽だ)。また、それを俺が自覚しているという事が何か妙だ。自分の声を録音して聞いているような違和感だ。これはどういうことか。

 俺は唯物論が大好きだ。人間の脳が「物質」であることには、誰も異論がないだろう。しかし、脳内には物質以外の「何か」がある(筈)と考える人が居る。それは願望思考・自己欺瞞という観念論的誤謬だと思う。人間の脳を構成する千億個の神経細胞は軸索を伸ばし、突端から分泌する神経伝達物質で、他の神経細胞に情報を伝えるだけ。勿論、脳内には核分裂のような原子核反応もない。つまり俺の頭の中は「分子レベルの現象」が限界なのだ。この宇宙で俺の脳だけが特殊な物質であるとする根拠は何もない。俺の脳も地球上における進化の一過程にすぎず、俺の脳が造り出す意識も何ら特別じゃない。意識はクオリア(「俺」が感じること、感覚に伴う鮮明な質感)を持つもの全てにある現象だ。「何を思うか何を意志するか」は、あらかじめ決定されている。自由(意思)感は文字通り感じにすぎないのだ(これは日常生活を思い浮かべればすぐわかる)。こういうことを言うと「不確定性」「パラドクス(唯物論は、唯物論の根拠の論理は実すると仮定してることによっているから唯物論でないじゃない)」を持ち出す人がいるが、それは意識には何の関係もない観測問題じゃないだろうか。

 何が言いたいのかというと、唯物論が前時代的だといわれようがなんだろうが、全観念論は俺には徒労に思えて仕方ないのだ。だから違和感云々も独我論的観念論で、つまりは冒頭の悲しさも俺の徒労なのだ。これは青いだろうか。

  

 これをふまえるとつまり、覆水盆に返らず、と。デスマーチだったんだ、と。悲しいけどきりがないからね。Sケンさんの終了オプション(U)に再起動(R)があればいいのに。


 でも、吉田拓郎じゃないけれど、今日という一日もそんなにも大きな一日とは思えないのにやっぱり感じる、この気だるさは日常生活に支障をきたすのでどうにかならないだろか。また、こういういわゆる哲学の話題を持ち出すような日記、果ては鬱日記、つまりかまってちゃんの日記を晒しあげ、嫌悪してた自分がこんなことを書いている。なぜだ。俺のクオリアは暴走しているのか。

 そんなとりとめもないことを考えながら、いささか鬱々と喫茶店で友人が来るのを待っていたのだ。しかし友人と秘密の企画をしていたら、もうそんなことはどうでも良くなってしまった。

 

 ここでいきなりSケンの「就活」っていったい何なの?のコーナーです☆

 お肉は上質で厚みのあるものを選びましょう。お肉の下処理は忘れずに、パン粉は生を使うのがベスト。厚みがあるお肉は最初は低温でじっくりと。そのときにくれぐれもいじり過ぎないように。がまんが肝要。泡の音が高くなってきたらできあがりが近い。少しずつ温度を上げてカラッと油切れよく揚げよう。ってそれ就活やなくて豚カツやないかい!


…あれ、やはりだいぶ色あせるようだ。



落陽。

「いやね、睡眠てただ寝てるだけじゃないですか。いやなんですよねぇ、睡眠に余分な時間使うの。なぁんかムカつくんですよねぇ。いや、大切でしょぉ、エロゲやる時間。」 と松本人志が言ったかどうかはわかりませんが、最近私の睡眠サイクルは異常をきたしています。15時間寝て、5時間くらいしか起きていないサイクルです。


 今日私は飲んでいて、ふと耳をそばだてると、隣の若い男女グループが就職での自分探し云々という話に華を咲かせていたんですね。ここで私は思いました。自分探し、なんですかそれは、と。「自分探し(R)」ですか、と。本当の自分を探すということは今の自分は偽なのです。それを信じて生活していくのはあまりに酷ではないですか。私は、彼らがその話をしている間、1秒でも自由な志向をしたとは思えなかったです。1000分の1秒も同じです。自由な時間をしていない時間を1時間経てもそれは自由な思考をしたことにはならないのだと思います。∞分の1秒間においても自由な思考をしていないなら、自由な思考はずっとできないと思うんです。つまり、自由な思考に時間がかかってしまっては駄目だということだと思います。何故なら、時間がかからないってことは変化がないってことであって、「どうしようかな」→「こうしよう」というような変化もないってことなんじゃないかなと思います。要するに何にも考えられないということです。まあ当然ですね。これは悲しいことです。本当にナンセンスなことです。もはやシュールなネタとしか思えません。自分探しなどという言葉は吉田拓郎や岡林信康の歌詞には一行もありません。自分を見つめる、これはわかります。これはそのままです。仏教用語で「見足是」という言葉がありますが、これはそういうことです。だから、一生自分さがしてろナスが、と毒づきながら私はビールをあおったのです。

 

 まあこれは単に言葉のアヤなのです。私も「自分探し」なんてよく使っています。でも、私は言いたい。デカプーの「我思う故我在り」じゃ破綻してしまうよお前ら。少なくとも就職においてなら「我思う故に我在りと思う胡蝶の夢」だ。

 

 また彼らはSPIの本を持っていました。SPAならよく立読んでますが、SPIはよくわかりません。まあこんな感じでしょう。

「食塩水1000(g)の中に,食塩が30(g)溶けているとき,この食塩水100(g)の中には食塩は何(g)溶けていますか。」

 こんなんじゃ何の興味も持てません。「なんで食塩水?」という疑問で、頭はいっぱいになってしまいます。



「Sケンさんの胃液1000(g)の中に、青酸カリが30(g)溶けているとき、Sケンさんの胃液100(g)の中には青酸カリは何(g)溶けていますか。」

 なんてスリリングな問題でしょうか。俺の胃液のなかには、致死量を大幅に超えた青酸カリが含まれています。この時点で俺は死んでいるとみて、まず間違いないでしょう。あと俺は、少し胃酸過多気味かもしれません。


「下の図は、上底4cm、下底8cm、高さ4cmの台形ABCDである。点Pは、辺BC上をBからCまで進むものとする。BP=Xcmのときの三角形ABPの面積をYcmとして、次の問いに答えなさい。」

 読んでるだけで頭が痛くなってきます。もっとエンターテイメント性を加えましょう。そうでなければ、これからの時代、こんな問題は誰も解いてくれないようになるでしょう。



下の図らしきものは、上底つまり俺が4cm、下底つまりお前ら小市民が8cm、高さ4cm?かな?まあいいや。高さが数cmの台形ABDEである。点P、Pといえばポンキッキーズですが、パンティーのPだと思ってくれたほうが先生嬉しいです。点パンティーは、変BC上をBからCまで進むものとする。BからCってセクハラです。BからC、愛撫から本番ということです。お前らにはまだ早いです。BP、つまりは愛撫パンティー=SEXcmのときの、三角形ABP、つまりはキス愛撫パンティーの食い込みの面積を猥cmとして、次の問いに答えなさい。」
 

 すごく答えたくなる問題です。答えたくなるというより、先生にいろいろ教えてもらいたくなりますね。答案用紙には、性に目覚めた中学生からの質問が、たくさん書かれるでしょう。生徒の頭はショッキングピンク一色。もう問題はそっちのけです。ギリギリの危うい質問に、先生タジタジです。先生が「体を使って教えないと、わからないかもなぁ。」といいながら、公務員の得意なロリコン+セクハラの複合技を炸裂させるかもしれません。

 ということでSPIなんてやめちまえナスがってなこった。



BGM 「みちのく一人旅」 山本譲二


ふーん、玄米ビスケットがあるのにね!

 さっき、彼女にふられてしまった。


 なんでもおいしそうにたべる彼女がとても好きだった。爪楊枝でがんばってるのに、とれてないとこがかわいらしかった。俺が指摘するといつも怒った。農作業してる彼女はとても一生懸命で、かわいらしかった。たまに手伝って、一緒に畑で食べたおにぎりがおいしかった。和食はうまくつくるのに洋食は下手な彼女が好きだった。せんべいと、お茶が大好きな彼女が好きだった。いつも待ち合わせしてた和菓子屋伊勢屋の前に、いつも俺が早く着いていて、いつもどらやきとお茶を買って待っていて、それを車にぼろぼろこぼしながら食べる彼女を怒るのが好きだった。いろんなトコに行きたがった彼女が好きだった。車の中で8割寝ている彼女が好きだった。大口をあけて寝ている彼女にちょっかいを出そうとして左前をこすってしまった。起きてる時は、いっつも一緒に歌ってたほとんど演歌とアニメソングだったけど。コンビにやSAの時だけやけに張り切ってる彼女がかわいかった。山梨に旅行中喧嘩して、行方不明になった時は驚いた。なにごともなかったように帰ってきたけど何故か団子を俺のために買ってきた彼女がいじらしかった。ドンキでDQNカップルみたくするのが好きだった。トイレでよっこいしょとかいってるのはいつも聞こえていた。俺の話なんてまったく聞いてない小さな耳が好きだった。笑うとなくなる目が好きだった。今つらつらと書いていて、ふと、よく一緒に歌っていた欧陽菲菲やテレサテンの歌を口ずさんでしまって、不覚にも涙が出てきた。彼女の好きなところはまだまだいっぱいあるのだけれど、どうやらもう書けそうにはない。

 明日からは彼女のいない生活送るわけだが、どうしようか。とりあえず、飽きるまで口ずさみながら考えようと思う。


Love is Over  ◇欧陽菲菲


Love is Over 悲しいけれど 終わりにしよう きりがないから
Love is Over ワケなどないよ ただひとつだけ あなたのため
Love is Over 若い過ちと 笑って言える 時が来るから
Love is Over 泣くな男だろう 私の事は 早く忘れて

私はあんたを 忘れはしない 誰に抱かれても 忘れはしない きっと最後の恋だと思うから


Love is Over 私はあんたの お守りでいい そっと心に

Love is Over 最後にひとつ 自分を騙しちゃ いけないよ

お酒なんかで ごまかさないで 本当の自分を じっと見つめて きっとあんたに お似合いの人がいる


Love is Over 悲しいよ 早く出てって 振り向かないで
Love is Over Uh・・・  元気でいてね Love is Over



つぐない ◇テレサ、テン

窓に西陽があたる部屋は いつもあなたの 匂いがするわ
ひとり暮らせば 想い出すから壁の傷も 残したまま おいてゆくわ

愛をつぐなえば 別れになるけど こんな女でも 忘れないでね
優しすぎたの あなた 子供みたいな あなた あすは他人同志になるけれど

心残りは あなたのこ 少し煙草も ひかえめにして
過去に縛られ 暮らすことより わたしよりも可愛い人 探すことよ

愛をつぐなえば 重荷になるから この町を離れ 暮らしてみるわ
お酒のむのもひとり 夢を見るのも ひとり あすは他人同志になるけれど



なーんつって、なんつってな。


酒、この愛

まず 「SケンさんのHPはあるんですか?とりあえず死ね。」といったことをよく聞かれますので、ここで答えておこうと思います。私は、HPを4つ持っております。「え!? そんなに持ってるの!? やだ、すごい精力的、抱いて!」まぁまぁ落ち着きなさいってお嬢さん。おい! パンツ脱いじゃいけません!ほら、ちゃんとパンティー上げなさい!(どさくさに紛れて触りまくり)にょ、女体触った……。にょにょにょたいぃぃぃ……。取り乱してすみません。4つHPがあるのですが、そのうち4つはダミーです。全部です。ただのファイル置き場です。

 改めまして、どうも、受け身な人です。他人任せで生きてきました。どれぐらい受け身かといいますと、超高層ビルの屋上から飛び降りても着地と同時に手の平でパァン!と地面を叩いて助かってしまうぐらい受け身です。受け身がどうしても治らなくて困ってますパァン!自分から遊びに誘うということができないんですよねパァン!人にぶつかったらすぐすいませんていっちゃうんですパァン!しかも何故かどもっちゃうんですパァン!大学側から積極的に着てくれないと授業とか出られかったんですパァン!さっきからパンパンとやかましいですが実はこれ、受け身じゃなくて部屋で腰ふってる音なんですね。思いのほかシモネタでどうもすいません。





 それではこの曲でお別れしたいと思います。なんとかロメンで「なんとかかんとか」、ごきげんよう。

 雨のち晴れ模様 大事なもの胸ポケットの中

 歩けばほら いい事が起こる
わけねえだろがやめちまえナスが。

嘘八百。

 私は4年間、秘密裏にブログを書いていた。

 その時はいつもノートに下書きしていた。思いついたことやその日のことをノートに殴り書きし、夜な夜な文章に起していたのだ。なぜなら最初からパソコンなり携帯に向かって書き始めると、その便利さ故にどんどんと加筆修正したくなってしまうからである。私の場合、加筆修正されたものはだいたい保険や美辞麗句、よくても嘘。私ごときが思いつく、そんなものをいくら付け加えたところでところで、犬も食わない五流小説になってしまうのである。その点、手書きで文章に起すのはあっという間だった。自分なりに「3秒ルール」のようなものを設けて、一度文字になったら一切いじらなかったから。そして誤字脱字を校正してブログにアップする。本当はアップする必要など無いのだけれど、整理のため、とわけのわからない理由をつけていた。それは歪んだ自己顕示欲であることは知っている。はて、こうしてできた下書きは物騒な文章の垂れ流し。卑猥な単語の列挙。罵詈雑言の嵐。勘違いのなれの果て。なぜそんなことを書いていたのか今となってはわからないものもあったが、とても人様にお見せするものではなかった。前述したように本当は見せたいのだけれど。だから今回、その4年分の日記が消えたのを機に、人様にお見せできるブログを書くために、私は嘘をつくことにした。何故なら言うまでも無く、嘘はブログから実生活にいたるまで、馴れ合いに最適のツールだからである。一例を挙げよう。


【嘘が入ってる場合】
A「おお、Bじゃん!ひさしぶり~。」
B「うお、A!マジ久しぶりだな!元気?」
A「元気元気。そっちはどう?」
B「ん~、まあまあかな。」
A「じゃあ、またヒマやったら遊ぼうよ。」
B「オッケー、また電話するわ。」
A「そしたらまた。」
B「うん、バイバーイ。」


【嘘なしの場合】
A「うわ、Bじゃん。嫌なヤツにあったな。」
B「こっちこそ嫌だわ。中途半端な知り合いって気まずいからな。」
A「気まずいなぁ。じゃあこれから見かけてもお互い話しかけんなよ。」
B「それはいいアイデアだな。見た目頭悪そうやのに、いいここというじゃん。」
A「じゃあ、また。ヒマだったら携帯のメモリーから削除しとくわ。」
B「オッケー、こっちも消しとくわ。」
A「あばよ、さっさと死ね。」
B「テメェが先に死んどけ。」


【嘘あり】               

男「好きだ・・・君と付き合いたいんだ!」

女「うん・・・・」

男「マジで?じゃあ今から飲みに行こうよ~♪」

女「うん、行く行く~♪」

     :

     :

男「君のこと一生大切にするよ。だから・・・俺と結婚してくれないか。」
女「・・・うん。」


【嘘無し】

男「たまってるんだ・・・君と突き合いたいんだ!」

女「金・・・・」

男「マジで?じゃあ今から飲みに行くとみせかけてホテル行こうよ~♪」

女「うん、股開いてイクイクぅ~♪」

     :

     :

男「君のこと一年間くらい大切にするよ。だから・・・浮気バリバリオッケーで俺となんとなく結婚してくれないか。」
女「・・・慰謝料。」

 まあこれはあまりにも下世話だけども、やはり人様に見せたり聞かせたりするものである以上、嘘をつかなければいけません。
たとえばフラれて泣いている人に「何?フられたん?フラれたん?怪獣フラレタンの誕生かい?」とか「ダッターン!!ボヨンボヨンボヨーーーン!!」とか言うのはよほど気の置けない仲間ならともかく、普通なら度が過ぎていますね。こんな時は「ほかにもいい人いるさ。」などと言うでしょう。これはいい嘘ですね。あとはのらりくらりと真実を隠す嘘。これもついていい嘘、かっこいい嘘だと私は思います。吉田拓郎も遠藤賢治もボブディランもそう。これは今度詳しく書きたいです。

 逆に悪い嘘とはなんでしょう。それは自分につく嘘です。自分を騙すのが最悪の嘘です。俺は格好いいと自分を騙す、これはかなり悪いウソです。悪いウソのなかでも、かなりランクが高いです。自分の格好よさに酔ったところで今日はお開きにしたいと思います。嘘は媚薬。種明かしのための道具。


いやあ、加筆修正って本当に楽しいですね。嘘まみれの糞まみれの筆者でした。


 BGM 「人形の家」 弘田三枝子


厨が臭え日記。

  4年前の冬

 

 俺は手品が好きだった。そして無駄な改行は心の底から嫌いだった。

 

 手前味噌になるが、手品の腕はそこそこだったと思う。でも才能に自惚れ、あまり練習しなかった。だからかどうかは知らないが、ある日、俺は派手に失敗してしまった。場を取り繕う為に、俺は手品の種明かしをした。当然種明かしは、その手品以上の歓心を買った。彼も奴も、大好きだった彼女も、一様に。それから俺は手品の度に種明かしをするようになったんだ。それは単に俺も彼も奴も彼女も一様に阿呆だったからなのだが、俺は当時知る由もなかった。

 

 そのうち俺は種明かしの為の手品をするようになった。誇張、置換、果ては捏造―あることないことを針小棒大に種明かしに変える。俺は誇らしげだった。まるで悟りを啓いたかのような顔をして、説を説いて廻った。時には飲みながらくだをまいた。

 

 俺は虚しい倒錯に憑かれてしまったんだ。大好きだった彼女も俺を軽蔑の目で見るようになった。これが無限の地獄に陥ることは自明であるから、俺は大学も辞め、彼女にもふられ、そして廃人になった。俺は、今でも誰かに種明かしをしている。していなければ生きられない体になっちまった。



 まあだったらやめちまえナスが、って感じだけどな。
 

まず、虚。そして、真。さらに、逆。 虚×真×逆=だったらやめちまえナスが。さあこの文章の真贋は。
 

 と、いつか意表をついた答えを世に認めてもらいたい一心で、俺は今日まで生きてきました。

 が、まだまだ俺はいい加減な奴らと口を合わせて生きてゆきたい。

 

 BGM 「恋の奴隷」 奥村チヨ