2018年10月30日
朝、床の上で目が覚めた。
帰宅後、化粧も落とさずそのまま眠ってしまったのだった。
夢を見た。
彼と一緒に私の母方の祖母の家にいた。人も殆どいない様な田舎だが、彼と手を繋いで周辺を歩いていた。一軒の喫茶店を見つけ、2人でゆっくり過ごしている夢で何とも幸せな気持ちで目が覚めた。
不思議とあれだけ酒を飲んで数時間床に転がって寝ただけだと言うのに二日酔いらしきものも無く、瞼が腫れているとか、浮腫らしき症状も皆無だった。
時計を見たらまだ9時前だった。目覚ましも掛けずに良く起きたなと我ながら驚いた。
彼に逢いに行く準備をするためにシャワーを浴びた。
昨日あんなに荒れていた心が全くと言っていい程無感情だった。
念願の彼に逢えると言うのに、ドキドキ感や緊張は全く無く、何の気持ちも湧いて来ない。
不自然な程落ち着いている自分がいた。
苦しんで苦しみ抜いてやっと逢いたかった人に逢えるのというのにこの現象は一体何なのか。
彼に逢う時の為に買った白いシャツと、口紅を引いて新宿に向かった。
手土産に駅前の個人経営のフランス菓子店で手頃な大きさの焼き菓子の詰め合わせを買った。
電車の中で待ち合わせ場所となっている彼の滞在先のホテルを調べた。
駅から少し歩くが、方向音痴の私でも難しくは無かった。しかし念の為携帯電話のアプリで地図を表示しながら歩いた。
時間はギリギリだった。約束の11時30分きっかりに現地到着という感じだろうか、
駅に着いて少し早足でホテルへ向かった。
ホテルが近づいて来た。
本当に彼がいるのだろうか、いなかったらどうしよう、など頭をよぎったが、数メートル先の歩道に背の高い外国人らしき人が立っているのが見えた。
あ、彼だ。
少しだけ笑みになり彼に近づいた。
彼はロビーでは無く、ホテルの前の歩道に立って私を待っていた。
私達は何の挨拶もしなかった。
初めまして、〇〇ですとか、お互いの名前すらも言い合わず、良くある英会話の初対面の挨拶すら無かった。
どこに行く?第一声に彼が言った。
どこかでお茶を飲みませんか?と私が言った。
…ちょうど良かった。朝もお昼も食べてなかったからお腹が空いていた。どこか良いお店分かる?
…分からないけど、歩いてみましょう。きっと何処かにお店があります。
と言ってカフェか、喫茶店を探しに歩き出した。
今日はお休みなの?
…うん。明日もお休みだよ。と言いつつ、まさか彼に逢う為に有給を取って万全を期しているなんて言えない。
…昨日はごめんね、疲れていたんだ。誰と一緒に居たの?昨日は何をしていたの?
…幼馴染みの友達とその旦那さんと一緒に居たよ。それで渋谷のバーに行ったよ。
と言いつつ、あなたが来なくてその腹いせにしこたま酒を飲んでクラブで暴れていたなんて死んでも言えないと思った。
…楽しかった?
…うん。
時差ボケは大丈夫?
…うん。飛行機の中で沢山寝たから大丈夫だよ。
…日本に来るのは何回目ですか?
…多分5回くらい。全部仕事だよ。プライベートては来た事がないんだ。
などと会話をしている最中、反対側にカフェがあるのが見えた。
横断歩道を渡ってそのカフェに立ち止まり、私達はそこで軽い食事をすることにした。
席に案内され彼が鞄を床に置こうとしたので、ソファ側の席に座った私が受け取って、ここに置くからねと言った。
ナイロン製の肩掛け鞄は空気のように軽く、恐らく何も入っていなかった。ファッションとして持ち歩いているのだろうか、不思議だった。
日本語のメニューしかなく、私が訳して彼に伝えた。野菜と卵、ハムの入ったトーストサンドがあった。
私はこれにする。と言うと、彼もいいね、僕もそれにする。と言った。
半分こにする?と彼が聴いた。
ううん、1人一つづつ頼もう。と私が言った。
飲み物はどうする?
私は紅茶にする。と言うと、彼も紅茶にした。
レモンをつける?ミルクにする?
…レモンをつける。と彼が言った。
私もレモン派だった。
お店の人がオーダーをとりに来た。
この時私は肉を絶っていた。が、ハムを抜いてくださいと言うタイミングを逃し、ハムを食べなければならないと言う事で頭の中の半分が埋め尽くされていた。
しばらく沈黙があった。
彼が私の顔をじっと観ていたので私も彼の顔を見返していた。
しばらくの間沈黙の中でお互いの顔を見つめ合っていたが、急に胸にズキっとする痛みが走り、そのタイミングで彼が私から目を逸らして別の方向を向いた。
そしてしばらくして彼が話し出した。
君はミュージシャンだね。前に君が送ってくれた君の音源聴いてるよ。いいね。気に入ってる。
君はロンドンに住んだ事があるんだよね?
…はい。5年前にレコーディングで1ヶ月間だけです。
だけど、ロンドンの街の名前を今でも沢山覚えているよ。ペッカム、コヴェントガーデン、ダルゥィッチ、ウォータールー、バラ…と街の名前を上げ出した私にそんなことはどうでも良いと言いたげに
君の家族は?と彼が質問を被せて来た。
家族?お母さんと、兄と弟2人。4人兄弟。
と言うと
4人!?とかなり驚いていた。
…でも1人死んじゃった。7年前くらいに交通事故で。
…え!ごめん!ごめん!変なこと聞いてごめん。
僕に何か出来ることはある?
と、動揺し、かなり謝っていた。
…あと、娘が1人いるよ。シングルマザーだけど。娘は今私とは一緒に暮らしていないの。
病気で実家の母と一緒に暮らしているよ。
と、正直に話した。
でも彼はそのことを聞きたかったのか、知っているよという表情だった。
恐らく私のInstagramに小さな女の子が写っている写真を見ていて娘の存在に気が付いていたのだろうと思った。
…あなたは?あなたの家族は?
彼に聞き返した。
…父と母と、兄が1人いるよ。10歳離れてるんだ。兄は今オーストラリアに住んでいる。両親はオックスフォードにいるよ。
彼が結婚しているのか知りたかったが、妻がいると言うことは言わなかった。
彼のInstagramで同じ女性が度々写っていたので奥さんなのかなと思っていた。
しかし奥さんでなければパートナーだろう。
その人の話は出てこなかった。
頼んだオーダーがテーブルに届いた。
同じメニューが彼側と、私側と左右対称、同じ位置に配膳された。
美味しそう!と、彼がサンドイッチを手に取った。
あ、左利きだ。私は右利きで勿論右手でサンドイッチを掴んだが、何だか彼と食事の配置を観ていると自分の鏡合わせの世界を観ている様な気分になった。
楽器屋さんには行きましたか?
私が質問した。
…行ってないんだ。どこか良い楽器屋さん知ってる?
…新宿にあるよ。楽器屋さん。行ってみましょうか?ここからそんなに遠くない。
…本当に!うん、行ってみよう。
…ではご飯を食べたら行きましょう。
…君はどんな音楽が好きなの?
僕たちのバンドは好き?
…勿論!初めてあなたの演奏を観た時とても感動しました。とても綺麗だった。忘れられない。
と言うと彼は少し照れていた。
イギリスのミュージシャンに失礼かなとも思ったが、80年代から90年代のアメリカンオルタナティブは私に取って重要な音楽シーンなのだと伝えた。
…僕もだよ!
どんなバンドが好きなの?
…ソニックユース、ニルヴァーナ、ホール、ベイブスアンドトイランド、ダイナソーJr. L7とか!
…僕、カートに会ったことあるよ。彼らがU.K.ツアーに来た時バックステージに入れたんだ。
凄く穏やかで優しい人だったよ。僕はまだ子供だったけど。
コートニーにも会ったことあるよ。
…おー!!羨ましい〜!!
などと言って話が盛り上がった。
…君の今の音楽活動はどんな感じ?
と彼が質問してきた。
…実は今は音楽活動はお休みしているの。
…そうなの?どうして?
勿体無いよ。続けないと。
…うん。
…やりなさい。
…うん。そうだね
返す言葉がなかった。生活のために音楽活動は葬ったとは言えなかった。
…あなたのギターには日本語のシールが貼ってありますね。どうしてなの?
ずっと気になっていたことを聞いた。
…あのギターは、…君はパティスミスを知っている?
…うん。勿論!
…あのギターはパティスミスの旦那さんのものだったんだよ。それをTが譲り受けて、それを僕が譲ってもらったんだ。
日本語のシールが貼ってあるのは分かるけど、何て書いてあるの?
…そうなんだ!凄い!なんて書いてあるんだろう、後で訳してメールするね。
…ありがとう。
彼のギターに日本語のシールが貼ってある事がずっと引っかかっていた。
実際、イタリア語でもフランス語のシールでも良かったはずだ。
何故日本語のシールなのだ?
そして彼はその日本語のシールの意味を知らずに私に聞いた。恐らく初めて聞く人が私だろう。
これには何か意味があるような気がした、漠然とした。