絶対音感って、いまは意図的につけられるものらしいですね。 ヤマハとかカワイとか。私は昔ヴァイオリンをはじめ たら、ある日、茶碗をたたいた音が音程になっていることに気づきました。親は音楽とは関係ない人たちだから特に気にしてなかったと思うけれど、それでもびっくりしていたな。
ヤマハとかにそういう早期英才教育の一環として絶対音感をつけに通わせるお母さんがたくさんいるらしい。
べつに自分の絶対音感の自慢じゃなくてさ、
そういうお母さんが絶対音感をなにか特別な、音楽的感性になにかやくだつものとか、才能だとかと思って通わせるならヤッパリなんの意味もないと思う。
わらったり、人の気持ちを考えたり、自然に耳を傾けたり、ひとつからすべてになる、五感やそんな感覚なしに 絶対音感 なんて無意味だとおもう。
自然についた人はそれでよくて、ないならないでいい。無理矢理つけたところでコジツケられた絶対音感なんて邪魔なだけだ。音楽をやっていたら絶対音感から離れていかなければならないときがいやでもくる。
絶対、という柔軟性のないものはいらないのだ。
わたしたちが渇望しているのは沸き上がる内面の響き。
ヤマハとかにそういう早期英才教育の一環として絶対音感をつけに通わせるお母さんがたくさんいるらしい。
べつに自分の絶対音感の自慢じゃなくてさ、
そういうお母さんが絶対音感をなにか特別な、音楽的感性になにかやくだつものとか、才能だとかと思って通わせるならヤッパリなんの意味もないと思う。
わらったり、人の気持ちを考えたり、自然に耳を傾けたり、ひとつからすべてになる、五感やそんな感覚なしに 絶対音感 なんて無意味だとおもう。
自然についた人はそれでよくて、ないならないでいい。無理矢理つけたところでコジツケられた絶対音感なんて邪魔なだけだ。音楽をやっていたら絶対音感から離れていかなければならないときがいやでもくる。
絶対、という柔軟性のないものはいらないのだ。
わたしたちが渇望しているのは沸き上がる内面の響き。




