しばらく前のエントリ無農薬栽培の不幸 にて、途中に(個人的にはまことにうっとうしいことに)安全・安心の問題は今でも食品業界の中心であると言うかほとんど常識になりましたが、と書きましたが、これって実はほんのり釣り針のつもりだったんですが全然意味なかったですね。
 当然ですが、本来の意味の安全については私だって重視しています。が、昨今巷で言われているような「いわゆる安全・安心」は本当にうっとうしい。


 安全と安心は違う言葉だとよく言われますが元々はそこまで違うわけではなく、本来のあり方としては、生産者や販売者が安全を提供し、んで消費者側がその安全性に対して安心すると言う形です。が、今言われる安心の根拠は安全とは違うところにあります。
 なので、「安全・安心」が要求される時は安全性と、それとは別に安全性とは関係ない安心性についてまで対策することになります。安全性と関係ないので実質的な意味合いはまるでありません。コストだけはかかりますが。


 そもそも安心を提供するなど容易なことではありません。というか、安全性を高める以外に安心してもらうなど、ったいどうせえちゅうんじゃと思います。一番に思いつくのは宗教ですが、つまりオウム真理教だって中の人は安心に包まれているだろうと言う理屈です。
 一般社会は危険だが我等が教祖様のお導きがあれば安心だ、と言うノウハウを食品の世界に活かしたのが農薬・食品添加物を否定する自然派食品信仰で、普通の食べ物を否定するところに存在しています。不安なものをあえて作り出し、自分の周りから隔離することによって安心する、非常によく出来たシステムです。


 人が不安を覚えるのは、未知の物に対する時だと思います。例えば初めての飛行機や海外旅行はだいたい不安でしょう。で、そういう不安は普通、実際に経験してみることで少しずつ解消されていきます。海外旅行行ってみたけど、英語あんまり出来ないけど買い物は出来たとか、親切な人に会ったとか様々な成功体験が積み重なり安心になって行きます。もっとも過信にも気をつけないといけませんが。


 んで食の世界での不安ですが、例えば普通に農薬を使って作った野菜を食ってみろと言っても、そんなものはむしろ極めてありふれすぎていて、体験を実感することが困難です。
 そういう意味で重要だったのが数年前の中国製ギョーザ事件で、「小さな子供が」「日本では使われていない農薬成分が」「基準値の2万倍もオーバーして残留していた」食品を実際に食べる体験をしたのです。で、嫌農薬活動家からすれば真っ黒もいいところな条件で起きたこの事件で被害はどうだったかと言えば、言い方は悪いですが「お腹を壊しただけ」で済みました。
 だったら「大人が」「国内で認可されている農薬が」「基準値の数倍残留した」食べ物なんか食っても別にどうって事ないんじゃね?と農薬に安心する人がいてもおかしくはないのですが、単に身もフタもなく叩くだけで終わってしまいました。非常に残念です。もっともその責任のほとんどはマスコミにあります。


 安全・安心を提供せよと言われた時、ほとんどの真面目な業者は製品の安全性を高めて対応しようとします。自動車で言えば、エアバックをつけたから安全ですよ、衝突してもボディが衝撃を吸収するから人は安全ですよ、だから安心して乗ってくださいと言うようなものです。
 ところが食品の場合、もともと自動車などよりは遥かに安全であり、これよりさらに安全性を大幅に引き上げる余地などありません。

 で、要領の良い業者は安全対策などせず、「無農薬」「産地大書」「生産者の名前と顔」などをラベルに書いて安心姓のみを高めた商品をつくります。非常にコストパフォーマンスが良い方法ですが、あまりにも簡単に偽装できる方法でもあり、もちろん不心得な業者もいて摘発もされ、おかげで今は「この程度でも安心できない」所まで来ています。もちろん、それらすらしない業者など問題外です。ものすごく迷惑です。


 一番間違っているのは、最初のほうに書いたとおり本来、安全を提供された消費者側が自分で安心するのがスジなのです。「安全かもしれないけど不安だからなんとかして」って言われてもどうしようもないでしょう。しかも「それくらい業者なんだからやって当然」という論調も多く、このあたりどうにかしないと無駄な手間やお金がわけわからないところに消えていくばっかりです。