いわゆる農薬といわれるものの中でたぶん一番有名なのが、DDTだと思います。これは現在では全世界で、使用がほぼ禁止されている(一部の発展途上国では、使用が認められている)殺虫剤です。


 DDTは1939年、スイスのガイギー社のミュラーによって開発された殺虫剤です(正確には、それより前にすでに合成はされていたが、ミュラーによって殺虫効果があることが確認された)。

 勘違いしている人は多いのですが、もともと農薬としてあったものではありません。殺虫剤として優れた能力を持っていたために、後から農薬としても転用されたものです。そういう物質は結構たくさんあり、たとえば身近なものでは水銀(何故か水銀の公害をいうときは真っ先に農薬が疑われるが、農薬以外に使用されたものの方が遥かに多い。現在は農薬としては使用禁止)、オキシドール(現在は、「発がん性が疑われるため」農薬として使用禁止)、重曹(「発がん性が疑われる」が、例外的に農薬として使用が許されている珍しい物質)などなどたくさんあります。ミュラーはDDTの開発者としてノーベル賞を受けていますが、農薬関連で他にノーベル賞を受けている者はいません。


 さてDDTは戦後、世界で広く使われるようになりました。殺虫剤として蚊やダニの駆除に非常に有効で、残効が長く、つまり一度使用すれば効果が非常に長持ちし、しかも安価であったために爆発的に広まりました。戦後まもなくの衛生状態が非常に悪かった日本国内で、虱などを駆除するためにDDTの粉を頭から真っ白になるほどかけられたという話は有名です。これによって、大きく広がると予想されていた伝染病(チフス)はかなり予防され、国内の健康状態の向上に大きく貢献しました。
 その後、DDTは農業分野にも使われだします。殺虫剤としてきわめて優れていたため、全世界で盛んに使われました。その使用量は、すべて合わせると地球の表面をうっすら覆ってしまうほどの量だったといいます。


 しかし1962年、レイチェル・カーソンの有名な「Silent Spring(邦題は「沈黙の春」)」が出版され、状況は変わります。この本は化学物質を批判した書物として先駆的なもので、特に当時大流行していたDDTを大きく取り上げ、春なのに鳥が鳴かなくなったと主張してDDTを強く批判しました。また評価はかなり異なりますが、有吉佐和子の「複合汚染」も化学合成物質を批判したルポタージュとして話題になりました。
 この時から農薬に対する世間の風当たりは急速に強くなり、特にDDTは使用を規制する方向へとどんどん流れ、日本では1971年に農薬登録が失効しました。つまり現在は、販売されなくなってからすでに30年以上経っているということです。


 有吉の「複合汚染」は、出版当時から内容が科学的ではないとか間違いが多いなどの批判が多く、あまり省みられることはありませんでしたが(と言っても未だにこの本を元ネタにした農薬批判を見かけることがあるが)、「沈黙の春」はかなり重く受け止められました。もちろん内容について批判がなかったわけではなく、内容が科学的に間違っていると言う意見もあり、現在ではそのDDT批判で明らかにおかしい部分もいくつも指摘されているのですが、それにしても当時のDDTの使われ方は異様に多く、現在ではその異常な大量消費に歯止めをかけ、化学物質の安全性や環境負荷についての意識を向上させる契機となった書物だったと評価されています。


 昔はDDTと言えば、強力な発がん性など多大な害をもった物質だと思われていましたが、現在の調査では、どうやらDDTに発がん性はないのではないかと言われています(IARCの発がん性物質グループ3)。
 ただ、毒性が低そうだとはいえても、最初の方に書いたとおりDDTは残効性が高いため、大量に使用され続けどんどん残留していくのはさすがにまずいのではないかということから、使用禁止も妥当であると言う見解もあります。


 現在、DDTは世界中で原則としては使用が禁止されていますが、先にも書いたとおり一部の発展途上国では使用されています。殺虫剤としては良く効き、安価で(と言うことは簡単に合成できる)というわけで、衛生状態の悪い国ではマラリアなど伝染病を防ぐために蚊などを駆除する目的で使用されているのです。そのおかげで現在、該当する国ではマラリアに罹る患者はかなり抑え込めています。
 実は昔は、その一部も許されず、DDTは完全に使用禁止になった時期がありました。その時期はどうなったかと言うと、せっかく抑えられていたマラリア患者が再び激増してしまいました。DDTに代わる安価で簡便な殺虫剤がなかったためです。現在ではWHOが使用法などを調査し、再びDDTを限定的に使用することを認め、マラリアの抑制に貢献しています。ちなみにその抑止率は半分や3分の1どころではなく、1万分の1以下と言う素晴らしいものです。


 DDTが農薬として使用されることはおそらくもうありませんが、結局のところはどんな物質でも、使用する方法によると言うことではないでしょうか。最初から殺戮兵器として開発されたものなどを除き、100%害悪なんてものはこの世にありません。逆に、100%善良なんてものもありません。全てのものは善用すれば善、悪用すれば悪の2面性を持っていて、「DDTだからダメ」「農薬だから有害」なんて思考では何にもできないのであります。


koume