アレクセイ・リュビーモフさんのリサイタル会場で購入した、ストラヴィンスキーとサティのピアノデュオアルバム。
こういうのを聴くと、慣れきった曲を心地よさだけを求めて惰性で聴いている頭に、ガツンと一発見舞ったような感じになります。

曲目

ストラヴィンスキー
室内楽のための協奏曲 変ホ長調「ダンバートン・オークス」~作曲者による二台ピアノのための編曲版~

サティ
ソクラテス~ジョン・ケージによる二台ピアノのための編曲版~

ストラヴィンスキー
二台ピアノのための協奏曲

サティ
シネマ~ダリユス・ミヨーによるピアノ連弾のための編曲版~

ピアノ
アレクセイ・リュビーモフ
スラヴァ・ポプルーギン

楽器
1920年製 プレイエル社
1906年製 ガヴォー社
1909年製 ベヒシュタイン社 リュビーモフ氏によるプリペア

録音
2015年6月 メノー修道会教会(オランダ)

ピアノのプリペアというのは、弦のあたりに異物を挟んで音に変化をもたらすのだそうです。

19世紀から20世紀にかけての文化領域というのは、欧米だけを取り上げるならば、変化の加速度が増し、新奇で未聞であるものへと枝分かれしていきました。
先日、三菱一号館美術館で観たオートクチュール展でのモードの変化というものとも交錯して、サティとストラヴィンスキーも、前時代のモードである「後期ロマン派」をどう乗り越えるかということにそれぞれの表現を確立していきます。

現代的な音楽、とひとくくりにはできない複雑な分波が起こりますし、でもやはりそこには大きな意味での潮流があるのでしょう。ただ、私が常々感じるのは、音楽でさえ現代的なものは、思考的で言語的だということです。だから、聴くときに、それ以前のものには言葉を介したくなるのに、先日のリュビーモフが弾いたシルヴェストロフを含め、現代的音楽の発信については、それらの持つ言語を理解することに集中力が費やされ、私の頭の中は自分の言葉が失われます。そういった意味で、頭の中が静かになる、と思ったのかもしれません。

とはいえ、ライナーノーツに解説されていた通り、ストラヴィンスキーは前時代を乗り越えても、非常に古典的な要素が強い部分があり、この二者を比較すると、通底する要素を無意識に感じ取るのか、ストラヴィンスキーに惹かれます。サティは、それまでの「後期ロマン派」にある、自意識の強さを嫌ったのだそうです。だから、淡々としている。

リュビーモフ氏は、当時の感性を再現できる楽器を選び、原典ではない楽譜を選び、ピアノにプリペアードということを行い、このアルバムを完成されました。
あまりにも実験的でありながら明快な意図を持って、こうした試みをされています。

3台の種類の違うピアノは、先日のリュビーモフのピアノリサイタルにおけるファツィオリのような硬質で現代的な音を出すものから、古楽器としての要素を多分に持つ音色、そして全く今まで聴いたことのない音色まで、一台での響きの調整による多彩さではない、個別の楽器による複数の音を聴かせてくれます。

こういった試みをどんどんしてほしいし、日本でも演奏機会が増えてほしい。決まり切ったプログラムには、もう飽き飽きしているクラシックファンもたくさんいて、私もその一人なのです。
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