ゲアハルト・ヘッツェル
ブラームス ヴァイオリン・ソナタ全集

朝から雨がしとしとと降り、少し肌寒い日になりました。

先日聴いたヴァイオリン協奏曲のライブに続き、ヘッツェル唯一のソロ録音として発売されているブラームスのソナタ集を聴いております。

第一ソナタ「雨の歌」の冒頭では、心の琴線にいきなり触れる一音から。ヴァイオリンもピアノも他の楽器もそうですが、第1曲目の一音で心揺さぶられる演奏こそがやはり素晴らしいと私は考えます。ヘッツェル氏の演奏はきっと常にそうであり、音楽そのものに向かう姿勢が音に立ち現れているのでしょう。

第二ソナタの明朗な中にもブラームスらしい落ち着きを備えた音色、速い展開と収束、楽器や弾き手の身体から自然に紡がれる柔らかさが伝わってきます。

ピアノのヘルムート・ドイチュの音が、ヘッツェル氏の音楽にたまらなく調和している……。紛れもなく、ヴァイオリンとピアノのためのソナタなのです。

私はブラームスが一番好きな作曲家とは言えず、有名な曲での実演は多く聴いてきましたが、夢中になったり耽溺することはあまりありません。
しかし、このアルバムを聴くと、ブラームスの心が自然と流れ入ってくるのです。とても不思議な感覚です。
作曲家の意図すなわち楽譜から読み取れる真髄のようなものをどう表現するのか、は、演奏者によってさまざまですし、さまざまな演奏があることで音楽という芸術の豊かさがあるともちろん思います。
しかし、やはりある作曲家を通じこの世に生まれた曲の生命にいかに近い音楽であるのか、ということを思うならば、そこにはきっと何の違和感もなく奇をてらった驚きもないのであろうと思います。自然であるということなのだろうと思います。

ヘルムート・ドイチュ氏が文章を寄せられている中で最も興味深い部分があります。
「ある最高音で、音をほんの小さくのばしてルバートしてみてはどうかと言った時、彼はためらいながら言った。『良いとは思わないわけではないけれど、でも“許されていいこと”だろうか?」
その最高音はどの部分だったのだろう?という興味は確かに抱きましたが、それ以上にヘッツェル氏のそこまでの作品への忠実さと姿勢に深く敬意を表します。

第三ソナタを最後に、この録音を残され、半年後、ヘッツェル氏が世を離れられたことにはとても意味深いものを感じます。
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