ボソボソっと書ける場所が欲しくて
あまり使っていない携帯電話で
今日、アメブロに登録してみた。
誰かに読んでもらいたいわけでもなく
記録として残しておきたいわけでもなく、
ただ、
書きたいことを吐き出すスペースとして
こんな場所が欲しかった。
最近はふと思う。
文章を書くことが好きな人は
ついつい書き残してしまうのだけれど、
それって果たしてどうなのだろうかと。
母は文章を書かない人だったから
母の死後、
認知症だった
母の晩年の想いを知るすべはなく、
だからこそ
私たちはやがていつもの日常に戻っている。
夫の父親もまた
何も文章らしきものを残さなかったから
その想いは想像するだけで、
縛られることもなく
日常に戻っていけている気がする。
逆に私の父親は
後世まで自分の存在を伝えたいという
まぁ、言葉は悪いが
自己顕示欲の強い人なので、
自叙伝的なものをパソコンで書き
綴った冊子を私や姉にあてがわれてもいた。
しかし、それを読んだか?
と問われると姉も私も読んではいない。
文才があるわけでもないその文章は
主語と述語すらつながらない
読みにくい文章でもあり、
面白味に欠けた武勇伝など、
あえて読みたいとも思えなかったからだ。
その父親は88歳。
まだと言っては失礼だが、
健在である。
年齢と共に段々と
その頑固さや偏見は強くなっているため、
自分の死後まで支配しようとする
ワンマンさには
ほとほと気が滅入ってしまうほどだ。
そして思うのだ。
私は宇宙の当たり前の流れのように
軽やかに自分の死を受け入れたいなと…。
生きている者の日常の1ページのように
自分の死がある
それでいいのではないかと…。
何故にそこに
あえての重さを加える必要があるのかと。
どれだけ愛されていたか
どれだけ頑張って生きたか
それを残された者に知らしめて
涙をたくさん与えてもらって、
自分の価値を上げて
それで私は満足して
天に召されるとでもいうのだろうか?
こっけいな話だ。
私はもう死んでいるのだから。
今はそう思ってしまう。
しかし、昔の自分は違った。
父と同じように、
私も自分が生きていた証を
後世に残しておきたいと思っていた時期がある。
自分の想いを書き残してみたり
自己アピールとやらをしてみたりしたものだ。
著名人や素晴らしい業績を残した方々が
テレビなどで死後、紹介されるように
自分も…と。
何かを残せる方々には
その使命があったからであり、
それは私ではない。
何か残して欲しかったと
思う人もたくさんいるだろう。
私がそうだったように…。
私が残したくなくなったのは、
申し訳ないが、
父親の影響が大きいのかも知れない。
重いのだ。
圧が強すぎて、苦しくなる。
母のように
思い出だけを残して
私はふわっと逝きたい。
惜しまれて、崇拝されたとて
死んだ本人に伝わっているのかどうか
それは死んでみなくてはわからないことだ。
わかったとて、
自己満足にすぎず、
生き戻れるわけでもない。
ならば
自然の摂理として、
命あるものはいつか死ぬという当たり前を
軽やかに受け止めて
あ、そういえば〜
とふと、
誰かの心に懐かしい思い出として
よみがえる存在であることの方が
私は望ましく思う。
なのにこのページは何か?
と言うと
文章を書くことがやめられない私の
秘密の休憩所のようなものなのだ。
紙に書くと自宅に残る。
いつ死ぬかが明確ならば
処分も可能なものだが、
それはなかなか現実問題としては
難しいことだ。
ここが私の秘密の休憩所だとは知られず
たまに来て、
好き勝手に毒を吐けるのならば
幾分、気が楽である。
いつか時代の変化と共に
このページも勝手に処分されるだろう。
それでいいのだ。
それがいいのだ。
残された者たちに
重い想いを背負わせてはかわいそうだ。