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看護相談員のブログ

看護師視点で介護の世界を考える 老人ホーム紹介センター介ナビ札幌の相談員のブログ

 

 

 私は、子供の頃から恵まれていなかったと思う。でも、全く悲観はしていない。なぜなら、それがきっかけで今があるから。特に頭が良い訳でもなく、成績も田舎の学校では中の上くらいの平均値。

 幼少期の夢は社長になることでしたが、中学にあるきっかけがあり、看護師になる事に決めました。看護師になるのはそう難しくない。看護学校に入るのもそう難しくはない。でも、私は男性です。看護師と言えば断然女性の職業。その中で男性が活躍できるのか?そんな疑問がありながらもとにかく挑戦してみることにしました。

 とにかく早く看護師になりたい。そんな訳でいろいろ調べると、高校と看護学校を合わせたような5年一貫教育の看護学校を発見します。北海道ではその学校だけ。20歳にして看護師として働けるというもの。中学の進路指導の時、担任にそのことを告げます。「美唄聖華に行きたい」しかし、返ってきた言葉にがっかりします。

 「君の成績だと、卒業までに毎日10時間くらい勉強して受かるかどうかだよ。目指している先輩もいるけど、それくらい努力しているよ」それを言われて、頑張ってみようかと思い立ち、朝4時に起きて勉強したりと努力をしてみるも、成績は振るわず。

 結局は凡人なんです。でも私は諦めが悪い。気持ちを切り替えて、出来る事を地道にしていこうと決心します。看護師への夢は諦めずに。

 親にも相談しますが、「看護学校へ行く学費なんて出せない。行きたい学校があるなら自分で行きなさい。」そんな返答が返ってきました。なぜなら、その時私の家では、それどころではないことが発生していました。

 

 

 

 「母が末期がん」そんな状況では、子供の将来についても第一優先ではない状況です。父は大好きだった車の整備の仕事を辞め、土木作業員へ転職し、母の治療にかかる費用を何とか稼ごうとしていました。私も、自力で資格取得できるよう、まずは普通科の高校へ行き、その後、准看護師の学校へ行くことにしました。

 母は、余命宣告されてから3年という異例の長さを生き抜き、この世を去りました。医師も本当にびっくりしていました。

 母は、一度目の手術の際、予定されていた時間よりもずっと早い時間で手術を終えました。それは、開腹したところ、内臓全体に転移しており、取り切れる状態ではなかったので、予後を考えて一切触らないという決断をしたと医師から告げられました。

 手術をする前、「もしかしたら何かの間違いで治るかもしれない」と思う本人や家族の希望を打ち砕く言葉でした。

 父は、母に隠さずすべてを告げました。そして家族みんなで頑張ろうと励ましたのです。

 後から祖母から聞いたのですが、「いっそこの窓から身を投げてしまいたい」と母は話していたそうです。ですが、子供たちの前でそんな姿は見せられない。精一杯最期まで頑張ると。

 母は、祖母へ宣言した通り、弱音は一切吐かず、抗がん剤治療や、効果があると言われる治療を探したり、精力的に治療に取りくみ、余命3か月と言われた寿命を3年まで伸ばし最期を迎えました。

 その姿を見ていた私は、本当に辛かったですが、一生モノの勇気を貰い、諦めない事の重要さを学びました。それが母が子供たちに残してくれた遺産です。

 

 

 

 

 その後、努力の甲斐あって、高校卒業後は、准看護師になるための看護学校へ入学できました。ちなみに、男性の合格者は私一人でした。女性の合格倍率は2倍ほどと聞いていましたが、男性は学生寮の部屋が一部屋しかなく、その枠に7人が応募するという7倍の倍率となっていました。何とも奇跡的に入学することができました。

 看護学校卒業後もまだまだ道は続きます。目指すは知事免許の准看護師ではなく、国家資格の正看護師です。

 准看護師の学校卒業後は、学費を出してくれた病院にお礼奉公として3年間勤め、正看護師の進学コースへ入るため1年の看護予備校を経て、看護師進学過程へすすみます。予備校でしっかりと学習した甲斐もあって、北海道最難関の学校(進学コース)こそ不合格になるものの、受験した4校のうち3校に合格し、第一希望の学校に入学することができました。最難関の学校は定員わずか20人という狭き門。あくまで私は自分の学力を試したくて受験しただけで、昼間のコースなので2年間という短い期間で資格を取得できますが、昼間のコースなので、アルバイトは難しいです。なので、ランクとしては北海道2番目と言われていますが、夜間コースであるこの学校へ入学しました。

 不運はここでも起きます。看護学校生活も終盤となる最後の年。看護学校では鬼門に当たる臨床実習のある3年目が待ち受けています。座学では危なげながらも単位を落とすことなく来ました。3年目の臨床実習が始まると状況は一変します。

 

 

 

 

 

 今でも問題なっている看護師によるパワハラ問題です。看護師という仕事は非常にストレスの多い仕事です。人の命を守るという重圧から、心を病む方は多いです。ですが、実際は、そのような重圧で病むのではなく、絶対的に周りからのパワハラです。

 人間誰しも絶対はあり得ません。うっかりミスもすれば、確認を忘れてしまうこともあります。特に看護の職場というのは、覚えなければいけない事は沢山ありますし、仕事の手順も複雑です。それに加えて長時間労働になる夜勤もこなさなければなりません。しかも、業務手順も複雑で、かなり要領よくできる人でなければこなせないと思います。そんな環境下で、業務のストレスにさらされ、患者さんからのお叱り、認知症患者さんの対応、スキルの維持のため自己学習や研修会の参加、職場の人間関係維持のための飲み会の参加、委員会活動に研究発表、病院の年間行事の参加、一部医師からのパワハラやセクハラ発言などストレスには事欠きません。そんな状況にさらされることで、ストレス発散の矛先は、圧倒的に立場の弱い看護学生に向かうこともあります。

 

 

 

 

 看護師みんなが悪だということではありません。実習場所によってはとても丁寧に、自分の時間を削って学生指導してくださる指導者さんもたくさんいました。ですが、稀に学生指導に全く向いていない人が、ストレス解消のためにその地位を利用するということがしばしば起こります。そして、それが起こってしまうとほぼ逃れる術はありません。ひたすら耐えるしかありません。

 誰かに訴えると何とかなるということはほぼありません。学校としても、実習先として受け入れてくれる病院は貴重なので、実習を断られてしまうことは非常に困ります。ですので、受けて頂いている病院に物申すなんてことは出来ません。

 私が最悪だったのは、病院の対応もさることながら、学校の教員も同じパワハラ気質の人間だったのです。

 実習での顛末については後日詳しく書きたいと思います。

 本来、夜間の進学コースの看護学校は、3年で卒業できます。私はなんと留年2回の合計5年間在籍することとなります。

 地獄の日々を耐え抜き、半分精神も病みながらやっとの思いで取った国家資格。

 ここから更に地獄が続くとは・・・。

 

 

 

 

 すべての不運跳ねのけて、やっとなれた夢の正看護師。「さぁ。ここから僕のターンだ!」と言わんばかりで、飛び込んだのが脳神経外科病院・・・。

 

 

「やらかしてるよ・・・滝汗」

 

 

 今思えば、非常に安易・・・本当に安易・・・。

 脳外科と言えば急性期病院です。循環器科と並んで難しい分野と言われる診療科です。

 脳外科は、糖尿病や高血圧、心疾患などの基礎疾患がベースにあり、それに併発して脳外科の病気になることが多いです。

 なので、消化器科、循環器科などの疾患の治療や看護の知識が必須であり、脳外科での疾患である脳梗塞や脳腫瘍など病気にかかる方は、全身の麻痺や意識障害、認知症などの後遺症が出る方が多く、入院して治療が終わったから完治という病気ではないのです。入院中は病気が急に悪化する、いわゆる「急変」リスクが伴い、目が離せません。

 脳外科の基本は観察力です。病気の急変をいかに早く察知するか、見つけたらすぐに最善の方法で対処する。

 のんびりゆったりの人には合いません。人が死にます。対応が遅れれば、重篤な後遺症が起こるリスクが高まります。

 そして日常業務でも、熱を測って、血圧測って、記録して。くらいの仕事ではありません。

 ひとりひとりの患者さんの病気について深く理解し、最適な方法、手順で、安全かつ安心できるような関わり方で、すばやく看護を行う必要があります。さらに、退院に向けて、その方の考え方、復帰する環境を考えて支援計画を立て、日々関わります。

 「こんな難しい診療科の病院へ入職するって大丈夫?」ということです。

 看護師でも、急性期の病院へ入職する人、慢性期の病院へ入職する人と分かれます。私のようなゆっくりのんびりタイプは、完全に慢性期病院へ入職でしょう。

 間違いました。そして間違うとどうなるのか。それはお馴染み、パワハラ地獄が待っているんです。

 ただでさえ忙しい病院です。そこにのんびりゆったりペースの人が入ったらどうなるのか。

 お察しの通り、周囲の目線は冷たく、人によってはイライラを直接ぶつけてくるんです。

 今でこそ、パワハラは良くないということが浸透していますが、時代は20年前。パワハラと言う言葉が使われ始めたのが2003年頃ですから、ちょうどこのころなんですが、この当時はバリバリにパワハラは当たり前でしたよね。

 労働施策総合推進法といういわゆるパワハラ防止法が施行されたのが2020年であるので、ホント当時はまだまだ。

 そんな中、飛び込んだ病院で「血祭になるのは見えている」・・・訳はないですね。

 優秀な同期とはどんどん差が開く。ついていけない者は離職していきます。一人、また一人と離職していく同期。

 毎日、先輩に叱られ、仕事は任せてもらえず、先生にも「来るな」と言われる。いつしか後輩にも抜かれ、完全に窓際に。

 

 

 

 

 私が入職した年の4月に病院へ入職したのは30人ほど。同じ病棟で看護師として入職したのは8人になります。

 私が在籍していた約5年間で他の同期は皆辞めました。それで最後まで残ったのは私だけでした。

 入職したての頃、あまりに仕事ができない私に先輩は、「〇〇が一番最初にいなくなるよな」と本人目の前にして言われていました。

 

「言われたからって、簡単には辞めないけどね」

 

 心の中でそう思っていましたが、口には出しませんよ。もし言ったらパワハラが更にエスカレートしますから。

 なぜ辞めないかというと、「石の上にも三年」という言葉を父から言われていたからです。嫌になったから辞めていたら、せっかく学べる事も学べずに去ることになるから。だから、三年とは言わずなるべく居続ける事で見えてくることもあると言われていました。半信半疑ではありましたが、看護学校時代に比べれば大したことではない。

 

「何より給与を貰えるんだから」

 

 この言葉を胸に頑張りました。看護学校で留年したら学費を払い続けなくてはならず、お金も時間さえも無駄にしてしまう。でも、仕事であればとりあえず給与は貰えし。もう少し頑張ってみるかと。

 

 このころから薄々気づいてきたことがあります。

 

「苦労って、こういうときの為にあるんじゃないの?」

 

 過去に辛い経験、苦労をし、その苦労が大きければ大きい程、その後に起こる事が簡単に乗り越えられてしまうのでは。

 

 

 

 

 「苦労は買ってでもしろ」と昔の人は言いました。それってこういうことなのかも。人生での経験、特に辛い経験は人を強くする。「あの時よりはマシだよね」と言って、辛い事も笑ってしまえる。「あの時凄い大変だったけど、気づけば過去の事」そんな体験から、楽な方、楽な方へ行くのではなく、より難しい方、大変な方に進んでみる。そんな考えが出来てきました。

 そして、辛い体験、苦しい体験は後々役に立ってきます。

 

 

 

 

 看護師は患者さんの命を守る人です。守る看護師が弱くては守ることはできません。もちろん看護師も人ですから完璧でもありません。逆境を越えてきたからこそ、焦る場面でも冷静でいれる。適確に誠実に。そんな看護師を目指しています。

 

ちなみにここまでは20代の時の話であり、ここから更なる逆境がまだまだ続きます。