みなさん、目覚めてますか?

 

「目覚めとは何でしょう?」シリーズ、続けます。

 

「目覚め」とは、非二元であること。

ノンデュアリティに目覚める、ということです。

 

なぜここに関わる話を何度もしようとしているか、

いくつか理由があります。

 

 

「目覚め」と「実はそうじゃない状態」に

何度も触れる、その理由。

 

 下矢印 下矢印 下矢印

 

① 思い違いや勘違いは、

その先の可能性を

閉じてしまうかもしれないから

 

「目覚めではないもの」を

目覚めだと思い違いをしていると、

その先の可能性――

ほんとうの目覚めが起きること――

を損なってしまうかもしれない、と思うからです。

 

「目覚めではないもの」とは端的に言えば

 

●個の自分が、世界はすべて自分で

創れると思っているような状態

 

や、

 

●個の自分が、

個の自分であることに氣づかずに

「これが大いなるソース(創造主、神)

わたしである」と思っている状態。 

 

 

この状態だと結局、

「願望実現」「現実創造」の範疇で

生きることになります。

 

なぜなら、「個の自分」は、

自分の望みを叶え、

思いどおりの現実を創ることが

幸せなのだと信じきっており、

それ以外知りません。

 

望みを叶え、

好きなことをして生きる現実を創ったりする

以外の幸せを「個の自分」は知らんのです。

 

なので、願望実現を阻む問題や障害、

悩みといったものを、「個の自分」は

排除したり解決しなければなりません。

それがあったら、

幸せ=願望実現ができないから。

 

すると、

望む→叶える→また望む→

問題がある→悩む→解決する→

新たな障害が発生する→悩む→

解決する→望みが叶う→

望んだはずの幸福感が消える→

→違う望みを欲する→望む→

叶える→問題が生じる……

 

「個の自分」の世界では、

これらが延々と続きます。

(なぜなの?はそのうちに)

 

決して終わりがありません。

(それでいいでしょ?いけないの?もそのときに)

 

 

② タイミング 

 

「自分が、すべてを創っている」という考えも、

世間の常識に閉じ込められてきたこれまでとは異なる

新しい価値観のようだったことは確かです。

 

でも「その先がある」ことを知る人、

思い違いではない「ほんとうのわたし」

に氣づく人が、増えたらいいと思います。

 

「その先のこと」というのは、摂理

生き方論でも心理学でも何でもなく、

「ただ、そうである」という「事実」。

 

体現している人は数千年前から大勢いますが、

世界の多くはそうではないままの数千年も、

続いてきました。

ってことでだからもう、氣づきたい人は

いま氣づけばいいよねと思います。

 

 

 

③ ラクだから 

 

単純に、ラクでシンプルだからです。

 

①の在り方で、大いなる創造主のつもりの「

——つまり

「ソースであるわたし」だと

思っているけど実際は「個の私」

 

として生きて得られるのは、

一時的な満足感や幸福感

 

先に少し述べましたが、

「個の自分」の世界では、

何かを得たと思っても、

必ずや、失う怖れが現れたり、

次を探す自分が現れます。

 

これは、普遍・不変の幸せというものを、

次! 次! 次!…と何かをゲットしたり、

アチーブ(達成)することで得られる

 

●自己実現の実感と

勘違いしている状態 

 

それを妨げる障害や問題は解決すべきで

 

●解決して問題が消えれば

幸せに近づくという勘違い

 

も起き続けます。

 

これは、私たちの命の在り方とは

本質的に異なるため、

 

①の在り方は、ブレ、

揺らぎ、安定しません。

 

「ああ、創造主の私としたことが

 またブレていたよ!

 気づけた。よかった。

 このモヤモヤは宇宙からのシグナルだった。

 ハイ、ではソースの自分に戻って…」

 

の繰り返しとなっていきます。

 

でも、ここでいう「ほんとうの自分」に氣づけば、

安定した普遍・不変の平和です。

ラクです。何しろ。

 

 

 

 

 

でもって。

 

 

こうした勘違い

 

ぜーんぶ

 

「私」もやってきましたぜ笑い泣き

 

 

 

まんまとハマっておりましたとさ。

 

 

「なんだよー、早く言ってよ誰か」と思った。

勘違いから醒めたとき。

 

ほんと、カンチガイしてただけ。

だけど相当かたくなに信じているから、

なかなか醒めない爆睡でしたzzz

 

起きる人が増えればいいなと

思います。