「私」や「私たち」を起点にした

ノンデュアリティの説明に出会うと

ちょっと氣になってしまうこと…の続きです。

 

「私たち」は繋がっています。

(つまり「ワンネス」のことです)

 

だと、何だかしっくりこない。

 

ノンデュアリティの説明に

「ワンネス」という言葉が使われるとき、

(ほかの場合に比べて)

「私たち」起点の見方であることが多いような、

「私たち」が主体として存在感を放つことが

多いように感じ…。

 

で、

じゃあ、なんなのさ?シラー

「非二元ってなんだっけ?」というお話。

 

 下差し下差し下差し

の続き。

 

 

宝石紫非二元とは、今ここで、

すべてが「ひとつ」であり、

時間的にも空間的にも乖離(分離)がない

 

ということです。

そして

 

宝石紫「私たち」と思っているそれ自体が

独立して存在したことなど一度もないよ、

分離して存在することはできないよ

 

ということです。

そしてこれは

 

宝石紫「私たちとパソコン」という

何かと何かの関係を言っているのではなく、

「関係を結ぶ対象物がない」

 

ことを指しています。

 

 

ここで示させる在り方では、

「私たち」(やパソコン)という

独立し、分離したものの存在感は消えゆきます。

存在が力を失います。

 

 

このあたりが、

「私たち」の視点から

非二元を言っている説明に出会うと、

しっくりこないのかな、と思います。


 

もしかしたら…

「ワンネス」という言葉を使っての

非二元の説明にふむ…となることがあるのは、

先の記事に挙げたさまざまな言葉の中でも

「ワンネス」が最も、

私と○○は、私とあなたも

「繋がっている」という感覚、

「繋がり合い」のことを言うのよね

というのを表わしやすいのかな…と

思ったりしています。

 

でも、

 

ありのままの非二元というのは

「繋がり合うものがない」こと

を指します。

 

「繋がり」に言及するのではなく

「ただ、ひとつである」ことを示します。

「繋がるも繋がらないも、

1個しかないよ」

ということです。

 

 

で、

じゃあ、なんなのさ?シラー

を引き続き。

 

非二元をビジュアルにするとしたら…

こんな感じじゃないでしょうか。

 

 下矢印

 

非二元の海

 

 

深くて、大きな海。

「一なるもの」。

 

言ってみればこれが、ひらがなの

「わたし」です。

 

 

波その表面には、無数の波が立っていて…

 そのなかの、どれか小さなひとつ、

 ああ、それが「私」で「私たち」

 なのかもなぁ…。

 

という境地。

 

 

波と、海とは、離れて存在できません。

波は海そのものであり、

波と海とは「ひとつ」です。

分離できない(繋がりに言及できない)ひとつ

として存在しています。

 

 

波は、海に現れる現れです。

非二元とは、現れては消え、また現れては消えゆく

波どうしの繋がりのことではなく、

波はそのまま、ただ海であるという全体性。

 

あらゆる波を湛えた「大いなる海」こそが、

ほんとうの「わたし」であり「あなた」です。

 

 

だから、こっちが、メイン。「海」のほう。

下差し

(現れである「私」、めちゃめちゃ小っちゃい笑)

 

さあ。

「私」からはもう、視点を外し、

そして海である「わたし」のほうにいる。

いつでも「海で在る」。

 

 

こんな生き方が始まると、

 

・何も動かす必要がなく

・何も変える必要はない

・中心であろうとする必要もなく

・現実を創ろうとする動きも起きない

 

ことが、「実感」としてわかってきます。

 

とても、シンプルでナチュラルです。

 

 

「私」に力を注ぐ必要はないのです。

「私」が「私」にどんなに力を注いでも、

「私」が拡大(肥大化)するだけで、

「海なるわたし」には氣づけません。

 

 

「ほんとうのわたし」で在りたいなら、

「私」をつかまえ、握りしめ、力を注ごうとする

その手を、ゆるめてみる。

 

ゆるめた手のひらで「私」が力を失うとき、

そこにある海に氣づきます。

海こそが自分だったとわかります。

夢が終わり、海であるわたしが目覚めます。

 

 

「ほんとうのわたしに戻る」とは

 このようなことではないでしょうか^^