いろいろあります。
言葉にこだわる必要はないし、
言葉はそもそも何かを「これ」と指定した時点で
「それではないもの」「それ以外」
を生んでしまいます。
「それ以外のものがない状態」である非二元を
言葉で表すのは、本質的に不可能……。
ですが以前からちょっとだけ
氣になっていることを書いてみたいと思います。
* * *
ノンデュアリティを表わすために使われる言葉、
たとえば、
ノンデュアリティ:2つない・不二一元
非二元:2つない・不二一元
アドヴァイタ:2つない・不二一元
ホールネス:欠けていない・分裂していない・全体・完全性
ワンネス:ひとつ・単一性・同一性
ほかにも「真我」や「TAO」や「悟り」、
さらに
氣づき:覚醒・目覚め
ウェイクフルネス:覚醒・目覚め
コンシャスネス:意識・目覚めた意識
プレゼンス:存在・存在感・そこにあるもの
などが用いられることもあります。
このうちの、
ちょっとだけ氣になるというのは
「ワンネス」という言葉。
これの使われ方、というか
「ワンネス」という言い方をするときに
背後にあるかもしれないイメージ。
みたいなものについてです。
「ワンネス」もイコール非二元です。
これを使う方や、使うことを
批判・非難しようというのではありません。
そうではなくて、
非二元が「ワンネス」という言葉を使って
説明されるとき、その前後には
以下のような文脈の表現があるように
見受けられることがあるのです。
ーーー
●私たちは、バラバラのようでいて
実は繋がっています。
●根っこはひとつです。
●目の前のパソコンも、椅子もマグカップ、
そして私たちはすべて繋がっています。
●私たちは、もとはひとつでした。
●もともとひとつだったものが、
分かれて存在しています。
ーーー
こうした表現をわかりやすくするために
図解したものを目にしたり
実際それを使って教わったこともあります。
図解はたとえば
体の上のほうはバラバラに独立しているけれど
足もとはつながっている大勢の人たちが、
地平線のような弧を描く線のうえに
並んで立っている(みんな笑顔)
というものだったり、
(はい、下手すぎです)
「ひとつ」を表わす大きな円と、
その隣にはたくさんの小さな円、
大きな円から小さな円のかたまりへ
矢印が出ている
といったもの。
どちらも
イメージは沸きやすいです。
でもどちらも、
「笑顔の人たち」や「小さな円たち」の独立性、
独立したものとしての存在感を感じさせ、
そちらが主体であるかのようにも感じさせます。
●私たちは、実は繋がっている。
●根っこはひとつ。
この説明は文字どおり、
「私たち」という意識がある場所から離れた位置、
どこか下の方では繋がっている…といった
距離の印象を受けるようにも思いますし、
●私たちは、もとはひとつだった。
●もともとひとつだったものが、分かれている。
という説明からは、
「もとは」という過去と今との経過、
なんとなく時系列を感じます。
●目の前のパソコンも、椅子も、マグカップも
実は私たちと繋がっている。
これは、「バラバラに分かれた存在」だが
それぞれつながっているよという、
相互性・相対性を言っているように思えます。
何よりぶっちゃけ「私たち」。
これを起点にすることで、
「私たち」という「個別に分離したものたち」は
存在感を持ち続けます。
ずっと消えずに残るのです。
「私たち」は、別々にある。
(【下の方では】つながっているけど。)
(【もともとは】ひとつだったけど。)
(【パソコンとも】つながっているけどね。)
みたいに。
【下の方では】 は空間的乖離
【もともとは】 は時間的乖離
【パソコンとも】は相互性や相対性
を想起させ、
そして主体は「私たち」。
これが
今ここにある「ほんとうの状態」との違いを
なんとなく感じさせるのです。
じゃあ、なんなのさ?
について……
文字数制限にて、記事をわけて続きます。