皆さん、目覚めてますか?

 

 

 

目覚めとは、何でしょうか。

ある側面から見てみましょう。

 

 

 

目覚めとは、

 

●自分が創造主である。

●現実は自分が創っている。

●創造主の自分は現実を思いどおりに描き、

 変えられる。

 

こうした「夢」から醒めること

こうした思いを抱かずに済み、

抱くことがなくなること。

こうした発想自体が消えゆき、

浮かぶ必要がないこと。

 

 

 

 

●自分が創造主である。

●現実は自分が創っている。

●創造主の自分は現実を思いどおりに描き、

 変えられる。

 

これらを望み、

こう在りたいと願う者、

それは「個の自分」です。

 

「個の自分」が、

「私は本当は創造主だったのだ」と

思い出すことを望み、

創造主として自由に現実を創っていくことを望み、

しようとする。

 

目覚めには、そう願う存在も、

しようとする存在も、誰もいません。

 

望み、それをしようとする存在が

スッと抜け落ち、

全体性に戻る。

 

ただ、それです。

それが目覚めです。

 

目覚めとは、

「個の自分の拡大」とは

 異なるものです。

 

「創造主でありたい」

「創造主として思いどおりに現実を創る」

これらが浮かび上がる時点で、

それをしているのは「個の自分」です。

 

「創造主であろう」とし、

「創造主として思いどおりに現実を創る」ことが

成り立つなら、その世界は、

「個の自分」が、

自身が拡がりゆく様を

夢で見ている夢の世界です。

 

この違いに氣づく。

夢から醒める。

 

夢を見ていた自分(個の自分)から

全体性に戻ること、

個の自分が抜け落ちることが、目覚めです。

 

目覚めた状態とは

ただ、

起きることが起きるがままに起きているという

「それ」そのもの。

氣づきという全体性。

 

「誰か」はいません。

「それ」しかありません。

ただ「それ」であるそれに現れる

あらゆる現れがあり、

あらゆる現れに氣づいている。

その「氣づき」が、目覚めでありプレゼンスです。

 

ただ「それ」であるそれには

「個の自分」さえ現れとして現れて、

それに氣づいている氣づき。

その「氣づき」が、目覚めでありプレゼンスです。

 

 

●自分が創造主である。

 

 ↓

 目覚めであるプレゼンスは、

 この認識を必要としません。

 これを認識する存在、

 認識したがる存在はどこにもおらず、

 誰かが、何か(=創造主)であろうとする必要は

 生じません。

 

●現実は自分が創っている。

 

 ↓ 

 目覚めたプレゼンスに、

 何かを創る誰かはいません。

 ただ、起きることが起きるがままに、

 起きています。

 何かを創ろうとするのは「個の自分」です。

 氣づきに現れた「現れ」です。

 それは目覚めではありません。

「個の自分」が拡がりたがっていることです。

 

   

●創造主の自分は現実を思いどおりに描き、

 変えられる。

 

 ↓ 

 目覚めたプレゼンスは、現実を描きません。

「変えよう」という発想がありません。

 そう発想する誰かはいません。

 その発想が起きるなら、

 それをしているのは「個の自分」です。

 

 目覚めたプレゼンスは、現実を変えません。

「変えたい」という、現実への否定が起きません。

 現実を変えたいのは、

 変えなければならないという認識が

 そこにあります。

 起きている現実への否定があります。

 

 目覚めたプレゼンスは、否定がありません。

 目の前に現れた現実は、

 起きることがただ起きており、

 もう起きたこと(起き終わったこと)。

 否定のしようがありません。

 否定できる誰かはいません。

 現実を「起こせる」誰かもいません。

 起きていることの完全性・完璧性が、

 そこにあります。

 

 変えたい思いは、

 目覚めたプレゼンスには起きません。

 目の前の現実は、何の手を加える必要もなく、

 加えようがありません。

 何かを描き、変えられる誰かはいません。

 

 

* 

 

●自分が創造主である。

●現実は自分が創っている。

●創造主の自分は現実を思いどおりに描き、

 変えられる。

 

 これらは、

「個の自分が見ている夢」です。

 こうした夢から醒めること。

 

 それが目覚めです。