ノンデュアリティについて伝えています。
ノンデュアリティ(Non Duality)とは、サンスクリット語のアドヴァイタ(adはnot, vaitaはtwo、つまり「2つではない」)という言葉。日本語では「非二元」といわれます。
仏教よりもいにしえからの事実でありメカニズム
「2つではない」なら、3つなのか4つなのか、
いくつなのか?? というと(笑)、答えは「ひとつ」。ひとつしかない、ということです。
陰と陽、光と闇、善と悪、上と下、ポジティブとネガティブといったそれぞれ相対的な二元の(2つある)ものではなく、ひとつしかないのです。
これを、非二元の「二元」という言葉から、たとえば「陰」と「陽」の2つがあって、どちらか片方に偏り過ぎてはいけないよ、「二極あっての中庸が善いんだよ」といった捉え方をしてしまう可能性もあるかもしれないのですが、さに非ず。もとから「2つはない」のです。
サンスクリット語であることからわかるように、非二元はもともとヒンドゥー教やインド哲学のなかから発祥しました。仏教よりも古くさかのぼり、「アドヴァイタ・ヴェーダンタ(2つない、教えの終わり)」として、「ウパニシャット」「ブラフマ・スートラ」「バガヴァッド・ギーター」などの教典でも説かれてきました。
日本人にはあまりなじみがないかもしれないヒンドゥーやインド哲学ですが、非二元とは、般若心経の「色即是空、空即是色」そのものであるといえるし、禅にも通じる。
釈迦が到達した「悟り」の世界だということもできます。
西洋でも、ノンデュアリティのメッセンジャーやティーチャーと呼ばれるような人は大勢いて、ルパート・スパイラやスコット・キロビー、ジョーイ・ロットなどが私は好きです(世の中的には、トニー・パーソンズやエックハルト・トールなどが人気)。
「オレ」も「オレ以外」もいない件
さて、陰陽の二極があるのではなく「ひとつしかない」ということは、「主体」と「客体」もないということ。
つまり「見る人」と「見る(見られる)物」の2つがあるのではありません。
これはつまり、「私」と「私以外」があるのではない、と言っています。
「私」も「私以外」もなく、そこにあるのはただ、あらゆるものが「現れ」ていて、その現れに氣づいている「意識(氣づき=コンシャスネス)」だけ。
ここでご注意、「現れるもの」と「それに氣づいている意識」の2つがある、のではありません。
「現れ」と「意識(氣づき)」は一体であり、
現れ=「色」で、氣づき=「空」。
それらが互いに「即是」だと言っている。
世界には、この即是な「ひとつ」しかないのです。
ところで、もしもし?
「私」と「私以外」に分かれてなどいないって?
多くの人が、「私(自分)」という存在は絶対で、「私」が、「私以外」のあらゆるものを見、聞き、感じ、動かし、感知・管理し、「私」が自分の意思や力で、「私以外」のあれこれをコントロールして、自分の力で人生を生きていると思っています。
「私らしい選択」とか、したいし、している、もっとできる、と思っている……。
ところが、そうじゃないんだなぁ…。
まったくそうじゃない。
びっくり仰天。
ローランド様には残念なお知らせ。
「オレ」も、「オレ以外」もないのだから。
このこと・・・「現れ」と「氣づき」とは何か、つまり自分とは一体何者か? ということがわかると、生きることがとてもラクになります。
くつろいで人生に向き合い、楽しむことができるようになります。
私は、実際そうなりました。
サッサと体験、人生至福
で、このノンデュアリティ(非二元)、ある固有の価値観や考え方、理論ではなく、この世界の仕組みであり、メカニズムです。だから信じる・信じないや納得するか否かにかかわりなく、「世界はそうなっている」ということ。
有無を言わさず、そうなっている。
知っても知らずも、その「ひとつ」の世界を、その「ひとつそのもの」として、「私」たちは生きている。
でも私たちは、「私」というのはこの肉体に属する完全に独立した存在だと、それは確固として「ある」のだと強く信じきってしまっています。そのために、ほんとうは「私」も「私以外」もない、ということに氣づけません。
(氣づけてなくても、それを生きているっていうことなんだけど)
ただ、このことを、より能動的に知って、理解すると、笑っちゃうような驚きとともに、世界が変わります。
パラダイムシフトが起こります。
「なぁ〜んだ、人生ってこんなにラクで心地いいの?」っていうくらいに。
(実際、少しナビゲートしてこのことに氣づくと、大抵の人が笑います。
とても楽しい)
じゃあそれ、どうやったらわかるの?
直接的に、体験しましょう。
できるので。
すぐわかるので。
そして、心地(=意識)がきっと目覚めるので。
それを、お伝えしています。
(ちなみに、ノンデュアリティのメッセンジャーの方々の中には、この「体験する」「知る」「わかる」といったことに対して、「それをする人はどこにもいません」「この世界には誰もいません」「体験に意味はありません」といったメッセージを伝える方もいらっしゃるのですが、私は、そこはあまりこだわりません。「知的理解」や、「体験によってわかる」ということは、 SATORIを求めて長い旅を続けたり、自分探しや自分らしい生き方探しジプシーになることなく、サッサとわかって話が早いよ、と思っています)