第4話「日本には国家ビジョンも戦略もない」
ビジョンも戦略もないなどと言うと刺激的に聞こえるかもしれないが、これは誇張でも悲観でもなく、
いまの日本という国を静かに見つめるほどに、じわりと滲み出てくる事実である。
国家ビジョンとは、本来こういうものだ。
“この国は何を望み、どこへ向かうのか。”
その未来像を定める、たった一つの物語である。
そして戦略とは、
“その物語へ、どう辿り着くのか。”
未来へ向かうための道筋である。
未来像と道筋。
この二つが揃って、国家ははじめて「未来を持つ」。
だが、今の日本にはこの二つのどちらも見えない。
長期的な未来像は語られず、
国家が進むべき方向は示されず、
ただ目の前の問題をどう処理するかだけが政治の中心になっている。
国家が未来を描かなくなると、
政治は“未来を選ぶ行為”ではなく、
今日を無難にやりすごすための作業 に変わっていく。
本来未来へ向かうべき判断は、
いつの間にか“今を壊さないこと”を守るための調整へとすり替わる。
そうして国家の意志は弱まり、
未来は語られないまま時間だけが国を運んでいく。
しかし、日本がまったく未来を描けなかった国かと言えば、そうではない。
田中角栄が「日本列島改造論」を掲げた時代、
この国には確かに“向かう先の物語”が存在していた。
地方の活性化、産業の再配置、交通網の大胆な構想、
善悪を超えて、国家が“未来へ賭ける意志”だけは確かにあった。
ビジョンの欠如とは、
未来について語るべき場所が空白のままであるということだ。
戦略の欠如とは、
未来へ向かう決断がどこにも存在しないということだ。
国家が未来について語らない国では、
社会全体が「選ばないこと」を安全だと錯覚する。
正しさではなく、間違いなさそうな方へ。
創造ではなく、現状の維持へ。
前進ではなく、漂流へ。
気づかぬうちに国の方向感覚が失われ、
未来は輪郭を失っていく。
国家ビジョンがないという事実は、
この国に未来がないという意味ではない。
ただ、未来を“定義していない”ということである。
未来が定義されない国では、
時間は前に進んでいるのに、
国家としてはどこへも進んでいない。
「日本には国家ビジョンも戦略もない」
この一文は、希望でも絶望でもない。
ただ、いまこの国が抱える
“未来の不在という事実” をそのまま言葉にしただけだ。
未来への意志がなければ、未来は決して形にならない。
日本はいま、その静かな空白のただ中に佇んでいる。